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世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 目取真俊『眼の奥の森』

2009年12月21日 | 小説
森の洞窟(がま)に響け、ウチナーの声
目取真俊『眼の奥の森』(影書房、2009)
越川芳明

 米国東部の小さな大学で教えている若い日本人の友人が、目取真俊の短編を教材にしているという。興味をひかれて、どの作品をテクストにしているのか、と訊いてみた。「身体と文学」といったテーマの授業で、日米の文学やアニメや映画など数多くのテクストを扱うらしく、手塚治虫、塚本晋也、宮崎駿、押井守、村上春樹、クローネンバーグ、オクタビア・バトラー、J・G・バラードらの作品にまじって、目取真俊の「希望」という短い作品(英訳)がリストに挙げられていた。

 このリストはいろいろなことを考えさせてくれた。一つには、日本文学や沖縄文学といった文脈を取り払うだけでなく、文学やアニメといったジャンルの枠も取り払って、文学作品を脱コンテクスト化することで、目取真俊は意外な作品群と呼応しあうのだ、という新鮮な驚きを得たことだ。だが、その一方で、目取真俊の作品には、リストに挙がっている他の作品にはない切迫したアクチュアリティがあり、まるで接合を拒む膿(う)んだ生傷のように、リストのそこだけグサリと穴があいてしまっているような、違和感を覚えたのも確かなのだ。

 「希望」という小説は、もともと「朝日新聞」の夕刊(一九九九年)に掲載されたものであり、米兵による沖縄の女性の強姦事件に業を煮やして、アメリカ人の幼児を誘拐して殺してしまう犯人を語り手にした衝撃的な作品だ。語り手は、八万人の抗議集会を何の効果もあげない「茶番」でしかないと考え、「自分の行為はこの島にとって自然であり、必然なのだ」と、言いつのる。

 この小品に見られるようなたった一人の「復讐劇」は、目取真俊の文学の隠れたモチーフだ。たとえば、短編「平和通りと名付けられた街を歩いて」では、皇太子の訪沖に際して、沖縄県警が過剰に自己規制の包囲網を張るなか、一人の認知症の老女が県警の目をかいくぐって糞の付いた手で皇室の車のガラスを汚す。「軍鶏(タウチー)」のタカシ少年は小学五年生でありながら、地域のボスにたった一人で立ち向かう。さらに、前作『虹の鳥』では、暴力団によってクスリ漬けにされていたマユという若い女性が、逃避行の途中で米兵の子供を誘拐して殺す。

 『眼の奥の森』も、太平洋戦争時に、伊江島と思える離島を攻略した米軍の若い兵隊たちによって小夜子という若い女性が強姦され、それに対して、盛治(せいじ)という地元の男がたった一人で行なう復讐が主たるモチーフとなっている。

多彩な視点と語り
 『眼の奥の森』がこれまでの小説と大きく違う点は、まるで万華鏡を覗くかのような、語りの視点の多彩さだ。
 戦時中から現在までのスパンで、<戦争>という現実が、十個の語りのプリズムによって乱反射する。被害者側の視点もあれば、加害者側の視点もあり、過去の視点もあれば、現在の視点もある。

 だが、それはただの「薮の中」の手法といった、ある意味で気楽な、相対的な世界の提示と違う。
 なぜなら、目取真俊がある企図のもとに、こうした語りのプリズムを用いているからだ。
 全体の語りの視点と内容について簡略に触れておこう。なお、小説には章立てがないが、ここでは便宜的にナンバーをつけておく。

① 国民学校四年生のフミと十七歳の盛治。三人称の語り。戦時中の離島。四名の米兵による小夜子の強姦事件。盛治による銛での米兵刺傷事件。
② 区長の嘉陽。二人称の語り。現代の沖縄。若い女性による戦争体験の聞き取り。
③ 久子。三人称の語り。現在。戦争トラウマ。泣きわめき、走りさる女性の夢。六十年ぶりの沖縄行き。松田フミとの出会い。
④ フミ。三人称の語り。現代の離島。戦争時の回想。発狂する小夜子。盲目になる盛治。
⑤ 盛治。一人称の語り。ウチナー口による独白形式。現代の沖縄。戦争時の回想。米軍による取り調べ。日系人の通訳。
⑥ 若い作家。一人称の語り。現代の沖縄。大学時代の友人Mからの依頼。銛の先を利用したペンダントをめぐるエピソード。
⑦ 米兵。一人称の語り。戦時中の離島。集団で沖縄の女性を強姦する。仲間と海で泳いでいるうちに銛で刺される。
⑧ 沖縄の中学の女子生徒。一人称の語り。現代の沖縄。クラスでの陰湿ないじめ。戦争体験を聞く授業。
⑨ タミコ。一人称の語り。現代の沖縄。中学で戦争体験を語った後に声をかけてくる女子生徒たち。戦時中の回想と現在の生活。里子に出された姉(小夜子)の赤ん坊。父の怒り。姉の施設への訪問。
⑩ 日系アメリカ人の通訳。一人称。現代。手紙形式。沖縄県による顕彰の辞退の理由。米軍による強姦事件の隠蔽。

 一般的に、小説の中で、立場の異なる登場人物たちが一人称で語り合い、同じ事件なのに、まったく正反対の「事実」が露呈するというのが<薮の中>の手法の特徴だとすれば、この小説で、根本的な「事実」をめぐって、視点によるぶつかり合いはない。小夜子の強姦事件をめぐって、その被害者や加害者による見え方の違いはあっても、事件そのものを否定するような人物は登場しない。小夜子の強姦という「事実」に関しては、冒頭の三人称の客観的な語りによって提示されてしまっているからだ。目取真俊の力点が「事実」の有無にないのは明らかだ。

 むしろ、この小説では沖縄内部の差異に目が向くような仕掛けがなされている。

 この小説は季刊誌『前夜』の連載がもとになっているが、採用されなかった掲載誌(第一回目)には、外部者や障害者への差別問題が書かれている。その他に、第二章の、かつての区長であった「嘉陽」という老人を視点人物とした二人称の語りが注目に値する。

 「カセットテープを交換し小型レコーダーをテーブルに置いてスイッチを入れると、まだ大学を卒業して二年にしかならないという小柄な女は、お前を見やりかすかに笑みを浮かべたように感じたが、透明なプラスチックの窓の内側で回転するテープに視線を落としたお前は、二世の名前も女の名前も思い出せず、不安な気持ちになりかけていた」(39頁)

 一般的に、二人称の語りは視点人物と読者を一挙に結びつける効果を発揮する。とすれば、これは戦時中に、盛治の隠れ家(洞窟(がま))を米軍に密告した経験のある「悪辣な」区長の立場に読者を追いやる挑発的な試みだ。そこに沖縄人が被害者の立場に安住することを許さない作者の激しい姿勢が見られる。と同時に、この二人称の語りは、記憶の隠蔽や歪曲などの実例をしめし、沖縄で行なわれている戦争体験の安易な聞き取りを風刺するものでもある。

ダイアレクトと世界文学
 短編集『魂込め(まぶいぐみ)』に収録された短編「面影と連れて(うむかじとうちりてい)」は、これまでに日本文学が達成した独白形式の傑作だったが、残念ながら標準語だった。だが、この小説の第五章は、ルビという方法で、終始沖縄のダイアレクト、ウチナー口で語られる。

 村上春樹が国民作家として、通常は小説など読まない読者層にも支持される理由は、その言語にある。どんなにひどい暴力的な殺人シーンを扱ったとしても、語る言葉が誰にでも分かる標準語であるかぎり、読者は軽く受け入れる。翻訳も容易であるので、海外で紹介されやすく、それによって、村上春樹を世界文学の担い手として持ち上げる批評家が出てくる。

 だが、世界文学は世界のへりから、いわゆる標準語に風穴をあけるようなダイアレクトとの創造的な格闘からしか生まれない。というのも、ダイアレクトは、音の豊かな響きによって微妙な感情を表出し、それによって均質化した日本語そのものを多様性へと導くからだ。結果的に、それはマイノリティの立場に立った多元的な思想を生み出す。

 ガルシア=マルケスのマコンド、フォークナーのヨクナパトーファ、大江健三郎の四国の森、中上建次の路地など、世界文学の先人のモデルを受け、目取真俊もヤンバルの森を想像上のトポスへと確立しつつある。

 だが、、重要なのは、沖縄の言葉をどれだけ小説の言語として創造できるかという点である。それによって、目取真俊は、世界の周縁のカリブ海で「クレオール語」で創作を行なうエドゥアール・グリッサンなどと一気につながる。今福龍太の『群島-世界論』にならって言えば、世界文学は、国籍に関係なく不定形の連なりをなすからだ。

 だから、目取真俊が沖縄から発信する文学は、ダイアレクトとしての沖縄語のハンディキャップを引き受けねばならない。ルビを多用した盛治のウチナー口の独白こそ、その一つの成果だ。

 「我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な? 小夜子よ・・・、風(かじ)に乗(ぬ)てぃ、波に乗(ぬ)てぃ、流れ(ながり)て行きよる(いちゅぬ)我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な?」(103頁)

 これは戦後、六十年以上たった沖縄での独白であり、その中で盛治自身の言葉が日系の通訳の話す標準語や、父母や区長のウチナー口などとも激しく衝突し合い、その総体が彼の記憶となっている。それは、いわばさまざまな言語からなる森であり、読者はその森をかいくぐって盛治の内面に近づく。その凝縮された声が「我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な? 小夜子よ」なのだ。

 この声は、後に妹のタミコが耳にする、精神病を病んだ小夜子がつぶやく声「聞こえるよ(ちかりんどー)、セイジ」(202頁)に鮮やかに対応して、読者に感動を与えないではおかない。

 目取真俊の「抵抗の文学」は、この連作小説に見られる森の洞窟(がま)に響くかのような語りの工夫によってさらなる進化を遂げただけでなく、世界文学の一員として確かな一歩をしるしたと言えるだろう。

(週刊朝日別冊『小説トリッパー』2009年冬季号、434―436頁に若干手をいれました)