越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評 カプランオール『蜂蜜』(1)

2011年06月24日 | 映画
森の中で育まれた詩人の魂 
セミフ・カプランオール監督『蜂蜜』 
越川芳明
 
 森の奥深くに馬を引いた男が歩いてくる。

 鳥の飛び去る音、下生えを踏みしめる音が聞こえてくる。

 大きな木の下まで来た男は、一本の長い綱を取り出して、大木の枝に向かって投げる。

 枝につるした綱をつかみ、力ずくで登っていく。

 まるで両足で幹を踏みしめるかのように。やがて枝のきしむ音がする。

 男の足はまるで靴底が幹に張りついたみたいにそこで静止する。

 さらに、枝のきしむ音。

 つぎに何が起こるのか。私たちは目をこらす。
 
 私たちは、六歳の主人公ユスフがトルコ山岳地帯での暮らしで捉える自然の音

 ――鷹の足に付けられた鈴の音、ニワトリ小屋の音、馬小屋の音などをこの映画の「サウンドトラック」として聴く。

 自覚的に聴くことで、私たちも主人公のいる環境に置かれ、その中で生きることになる。

 いま、何が起こっているか。つぎに何が起こるのか。

 私たちは耳を澄ます。そして、考えをめぐらす。

 本作でベルリン映画祭金熊賞を受賞したカプランオールの作品は、物語の背景や状況をいっさい「説明」しないからだ。

 その徹底ぶりは見事なものだ。
 
 カプランオールは物語らないことで語りを進める。

 音楽もない。

 それは「沈黙の叙法」と呼んでもいいくらいだ。
 
 映画のショットの一つひとつは、「語り」の因果律に縛られることなく緩やかにつながり、それ自体に象徴的な意味が秘められている。

 たとえば、少年が養蜂家の父と森の中を歩いているとき、父がてんかんの発作に襲われる。

 そこは小川のそばで、少年は水を汲んでこようとするが、そのとき少年の目に、川の向こうに日射しを浴びて神々しくたたずむ鹿の姿が映り、呆然と見とれてしまう。
 
 少年にとって父は偉大な存在だ。

 しかし、森という自然には人間の存在を超える、

 もっと偉大なものがある。息子ユスフがそう直感する瞬間である。

 そう考えるとこのショットは、父を喪ったユスフ少年がたった一人で薄暗い森の中に入っていき、大木に抱かれるようにその根もとで眠る結末のショットと緩やかにつながる。

 ユスフ少年は、小学校で教科書を読んでいるとき、声がつまってしまう。

 そのため他の生徒から笑われる。

 そんな少年にとって、父だけが吃音を気にすることなく話せる相手だ。

 父と少年は信頼という絆で結ばれており、父は少年に養蜂の仕事の手伝いをさせたり、ナイフを渡してリンゴを切らせたりして「教育」を施す。

 さらに、少年が自分の見た夢を話そうとすると、「夢は他人に聴かれないように」と、息子の耳元でそっとささやく。
(つづく)