「海峡の街」のグロテスクな寓話
田中慎弥『実験』
越川芳明
三編の中・短編からなるこの作品集は、三島由紀夫賞を受賞した作品集『切れた鎖』と同様、海峡の街を舞台にしている。
小説の中の海峡は、両義的に描かれている。住民を閉じ込める檻のような装置であると同時に、解放への道にもなりうるというように。
表題作「実験」は、三十代後半の、ややマンネリに陥っている「小説家」を語り手にした一人称小説。
「赤間関」という「海峡の街」は、丘によって南北に仕切られ、その間にトンネルがある。
丘の南側の「海辺の街」のほうは明るく、戦前から漁業と海運業が盛んだったが、いまは下火で人口も減る一方だ。
「私」は、こちら側に住んでいる。
一方、トンネルをくぐった丘の北側は、いわば新興住宅地だが、「私」にとって、「なんとなく息苦しくなる」ところである。
「人間が暮しているという理由で暗く沈み込んでゆくかのような風景に、いつまでも違和感がある」(22)
事件は「赤茶色の屋根瓦」に象徴される新興住宅地で起きる。
「事件」といっても、家庭内のことだから、他人にはなかなか分からない。
それを、この小説は追求している。
「私」には、小学生の頃から、母親同士が親しいということで、ただ惰性で付き合ってきた三田春男という二歳年下の男がいたが、先頃、この男がうつ病で精神科に通院するようになり、面会に行ってほしい、と頼まれる。
春男は小さい頃から図体が大きく、「巨大なコロッケを首に突き刺した感じ」であり、彼の両親は、めんどうを押しつける「怪物」に映る。
これは、まるでお化け屋敷にある凹凸がゆがんだ鏡みたいに、微細な部分を過度に誇張して大きくふくらました「グロテスクなユーモア」の一例だ。
春男が両親の性の営みを見てしまったと打ち明けるシーンも何やら怪しい。
春男によれば、彼が階段を下りてきたとき、外から選挙カーで、立候補者が(舞台が山口県なので地元長州の先人)吉田松陰や高杉晋作の名前を連呼しているのが聞こえ、また一階の居間からは「豚の鳴き声」が聞こえてきたという。
春男はいうーー
「ドアを開けた。ソファーの上で吉田松陰と高杉晋作が重なってた。二人の体は複雑に絡まり合ってて、服は着たままだけど、手とか足とか頭が相手の体の奥までめり込んでる感じだった。下になってた高杉が先に気づいて、促された松陰も振り返った。豚の声はやんでた」(69)
エドガー・アラン・ポーの短編「黒猫」みたいに、「私」自身が「信頼できない語り手」であるだけでなく、春男やその両親もそうなので、とくに会話の場面では、読者はそこら中にゆがんだ鏡を張りめぐらされた部屋にいるかのように、グロテスクな気味の悪さを楽しむことができる。
しかし、本当に気味が悪いのは、「私」の創作への執着である。
「手応え」のある小説を書くためには人間の生命を「殺めて」も仕方ないという、倒錯した「悪意」が見られる。
うつ病の男を主人公にした新しい小説のために、春男を「実験」材料にする覚悟を決め、自殺をふせぐためにいってはいけない言葉をあえていうなど、「四肢を固定した鼠に通電する気分」(58)で、次々と実験を試みるのだ。
もう一つの中編「週末の葬儀」もまた「赤間関」のニュータウンを舞台にしている。
主人公の飯田公蔵は、長引く不況のせいでデパートの外商を五十五歳で辞めさせられ、一週間ほどぶらぶらしている。
妻とは五年前に離婚していて、二人いる子供は妻が連れて行き、いま妻子は対岸の北九州に住む。ニュータウンは安らぎの場所ではない。
「住んでみると、海といっても海峡だから、望洋とした眺めとはゆかなかった。海を挟んで北九州の海岸が、柵のようにめぐっていた」(126)
これは、会社勤めを辞めて非日常的な生活をするようになって初めて、主人公がいままでの日常生活の異常さに気づき、精神に失調をきたしてくるという寓話だ。
カフカふうの「グロテスクなユーモア」が、「海峡」の自然現象の描写によってしめされる。
つまり、海風がすさまじく、雨は斜めに降る。とりわけ、砂と錆(塩分)に象徴される「外敵」によって、飯田公蔵の精神と生活は次第に崩壊しかける。
朝に作ったおかずの中に砂のジャリッとした感触を感じたのがはじめだった。「一口一口用心しながら、砂がないかと恐れているのに、まるで砂を望んでいるみたいにじっくりと噛んでいった」(142)
畳の部屋を掃除すれば、「埃と一緒に砂が、ホースの内側にパチパチとぶつかりながら吸い込まれた」(148)
車を車庫から出そうとすれば、「砂粒のうちの大きいものが押し潰されたり弾き飛ばされたりする音がした。
走り始めると、細かい砂粒の上をタイヤが転がってゆくめりめりという響きが続いた。砂埃が舞い上がった」(156)
二年前に川端康成賞を受賞した「蛹」は、母の死骸に涙し、集団ですばしこく動く蟻や、地鳴りを起こしながら動く蛇にびくびくするかぶと虫の幼虫の視点で描かれたユニークな小説だったが、同様に異色なのは「汽笛」という短編である。
この小説で、「海峡」は、どうやらこの世とあの世の狭間を意味している。
「私」は、波止場に係留中の大きな貨物船に乗り込むが、それは亡くなった者たちをあの世へと運ぶための船である。
「私」はマンションから飛び降りたようだが、他に、紫色のワンピースを着た、特急電車に飛び込んだという六十代の女性や、首つり自殺をしたという中学生ぐらいの女の子二人などが一緒に船に乗り込む。
五十代ぐらいのスーツを着た男も搭乗しようとするが、生者なので断られる。「生者」から「死者」へ移行中の魂の浮遊を記述しようとした寓話だといえよう。
田中慎弥は、大江健三郎の「森」や中上健次の「路地」のみならず、遠くガルシア=マルケスの「マコンドの村」やフォークナーの「ヨクナパトーファ郡」などに匹敵するような小説のトポスとしての「海峡の街」を、この作品集でさらに強靱に築きあげつつある。
注目すべき作家だ。
(『文学界』2010年8月号234-235頁)
田中慎弥『実験』
越川芳明
三編の中・短編からなるこの作品集は、三島由紀夫賞を受賞した作品集『切れた鎖』と同様、海峡の街を舞台にしている。
小説の中の海峡は、両義的に描かれている。住民を閉じ込める檻のような装置であると同時に、解放への道にもなりうるというように。
表題作「実験」は、三十代後半の、ややマンネリに陥っている「小説家」を語り手にした一人称小説。
「赤間関」という「海峡の街」は、丘によって南北に仕切られ、その間にトンネルがある。
丘の南側の「海辺の街」のほうは明るく、戦前から漁業と海運業が盛んだったが、いまは下火で人口も減る一方だ。
「私」は、こちら側に住んでいる。
一方、トンネルをくぐった丘の北側は、いわば新興住宅地だが、「私」にとって、「なんとなく息苦しくなる」ところである。
「人間が暮しているという理由で暗く沈み込んでゆくかのような風景に、いつまでも違和感がある」(22)
事件は「赤茶色の屋根瓦」に象徴される新興住宅地で起きる。
「事件」といっても、家庭内のことだから、他人にはなかなか分からない。
それを、この小説は追求している。
「私」には、小学生の頃から、母親同士が親しいということで、ただ惰性で付き合ってきた三田春男という二歳年下の男がいたが、先頃、この男がうつ病で精神科に通院するようになり、面会に行ってほしい、と頼まれる。
春男は小さい頃から図体が大きく、「巨大なコロッケを首に突き刺した感じ」であり、彼の両親は、めんどうを押しつける「怪物」に映る。
これは、まるでお化け屋敷にある凹凸がゆがんだ鏡みたいに、微細な部分を過度に誇張して大きくふくらました「グロテスクなユーモア」の一例だ。
春男が両親の性の営みを見てしまったと打ち明けるシーンも何やら怪しい。
春男によれば、彼が階段を下りてきたとき、外から選挙カーで、立候補者が(舞台が山口県なので地元長州の先人)吉田松陰や高杉晋作の名前を連呼しているのが聞こえ、また一階の居間からは「豚の鳴き声」が聞こえてきたという。
春男はいうーー
「ドアを開けた。ソファーの上で吉田松陰と高杉晋作が重なってた。二人の体は複雑に絡まり合ってて、服は着たままだけど、手とか足とか頭が相手の体の奥までめり込んでる感じだった。下になってた高杉が先に気づいて、促された松陰も振り返った。豚の声はやんでた」(69)
エドガー・アラン・ポーの短編「黒猫」みたいに、「私」自身が「信頼できない語り手」であるだけでなく、春男やその両親もそうなので、とくに会話の場面では、読者はそこら中にゆがんだ鏡を張りめぐらされた部屋にいるかのように、グロテスクな気味の悪さを楽しむことができる。
しかし、本当に気味が悪いのは、「私」の創作への執着である。
「手応え」のある小説を書くためには人間の生命を「殺めて」も仕方ないという、倒錯した「悪意」が見られる。
うつ病の男を主人公にした新しい小説のために、春男を「実験」材料にする覚悟を決め、自殺をふせぐためにいってはいけない言葉をあえていうなど、「四肢を固定した鼠に通電する気分」(58)で、次々と実験を試みるのだ。
もう一つの中編「週末の葬儀」もまた「赤間関」のニュータウンを舞台にしている。
主人公の飯田公蔵は、長引く不況のせいでデパートの外商を五十五歳で辞めさせられ、一週間ほどぶらぶらしている。
妻とは五年前に離婚していて、二人いる子供は妻が連れて行き、いま妻子は対岸の北九州に住む。ニュータウンは安らぎの場所ではない。
「住んでみると、海といっても海峡だから、望洋とした眺めとはゆかなかった。海を挟んで北九州の海岸が、柵のようにめぐっていた」(126)
これは、会社勤めを辞めて非日常的な生活をするようになって初めて、主人公がいままでの日常生活の異常さに気づき、精神に失調をきたしてくるという寓話だ。
カフカふうの「グロテスクなユーモア」が、「海峡」の自然現象の描写によってしめされる。
つまり、海風がすさまじく、雨は斜めに降る。とりわけ、砂と錆(塩分)に象徴される「外敵」によって、飯田公蔵の精神と生活は次第に崩壊しかける。
朝に作ったおかずの中に砂のジャリッとした感触を感じたのがはじめだった。「一口一口用心しながら、砂がないかと恐れているのに、まるで砂を望んでいるみたいにじっくりと噛んでいった」(142)
畳の部屋を掃除すれば、「埃と一緒に砂が、ホースの内側にパチパチとぶつかりながら吸い込まれた」(148)
車を車庫から出そうとすれば、「砂粒のうちの大きいものが押し潰されたり弾き飛ばされたりする音がした。
走り始めると、細かい砂粒の上をタイヤが転がってゆくめりめりという響きが続いた。砂埃が舞い上がった」(156)
二年前に川端康成賞を受賞した「蛹」は、母の死骸に涙し、集団ですばしこく動く蟻や、地鳴りを起こしながら動く蛇にびくびくするかぶと虫の幼虫の視点で描かれたユニークな小説だったが、同様に異色なのは「汽笛」という短編である。
この小説で、「海峡」は、どうやらこの世とあの世の狭間を意味している。
「私」は、波止場に係留中の大きな貨物船に乗り込むが、それは亡くなった者たちをあの世へと運ぶための船である。
「私」はマンションから飛び降りたようだが、他に、紫色のワンピースを着た、特急電車に飛び込んだという六十代の女性や、首つり自殺をしたという中学生ぐらいの女の子二人などが一緒に船に乗り込む。
五十代ぐらいのスーツを着た男も搭乗しようとするが、生者なので断られる。「生者」から「死者」へ移行中の魂の浮遊を記述しようとした寓話だといえよう。
田中慎弥は、大江健三郎の「森」や中上健次の「路地」のみならず、遠くガルシア=マルケスの「マコンドの村」やフォークナーの「ヨクナパトーファ郡」などに匹敵するような小説のトポスとしての「海峡の街」を、この作品集でさらに強靱に築きあげつつある。
注目すべき作家だ。
(『文学界』2010年8月号234-235頁)
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