昨晩 何気なく見ていたバラェテイ番組 懐かしい故郷の地名が出てきた
市町村合併で現在大きくなり 私が小学校低学年を過ごした地域とは分からない
スガレ と呼ぶ蜂の巣探しで 山を駆け巡り 蜂の巣を発見して持ち帰る
これは黒スズメバチ 襲われたら怖い 蜂の習性を利用して蜂に目印を付け追う
採取した蜂の巣は 蜂の子入りごはん 佃煮 そのまま食べたり貴重な蛋白源
信州の三大珍味は 蜂の子 いなご さざむし である
ざざむしは河原の石の裏などで採れる 高価格で売られても居る三大珍味だ
もう一つ 馬肉も加わるだろうか 戦後すぐは 鯉とクジラ肉がご馳走だった
私の家は貧しい農家 林を開墾して父が建てたあばら家 冬でも雪が舞い込む
米なんて食えない おしんが食べていた大根飯 私の冬は大根の葉だけ米は無い
小学校の保健室 医師が来て健康診断 いつも栄養失調! よく分からなかった
空腹で幻覚を見たり 街までの遠足は弁当が無い 皆から離れて川面を見ていた
男性教師が寄ってきて 弁当を分けてくれたのを今でも覚えている
蛇も蛙もイナゴもコオロギも つつじ イタドリ スカンポ なんでも食べた
桑の葉も乾燥して母が食べさせてくれたが ボソボソで不味かった
一度 通り道のサツマイモ畑で一本だけ掘り起こし持ち帰った
母に見せた こっぴどく叱られ嘆かれた 貧しくても他人様の物を盗むなんて・
ある日 スガリと言う蜂の巣を見つけ採ろうとした 蜂がぶんぶん襲ってくる
家に帰ると 頭はたん瘤状にいくつも膨れ上がり 今思えばお釈迦様の頭のよう
羅漢果の様でもある すぐ高熱を出した どうして治ったか分からない
多分 母の必死の看護が効いたのだろう 蜂は美味しけれど怖い 遠い思い出
想い出写真 日光市に編入された 足尾銅山
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私のときは まずカエルを捕まえて・・
その足の肉に真綿をしばり付けて暫く
待つているとスガレがそれを巣に運ぶ
それを追いかけて・・巣の位置を確か
めて穴を探り当て、煙幕という花火を
巣に差し込んで・・ハチを一次気絶させ
その間に、穴を掘り出して 何段かに
なった巣を頂いてきました。
懐かしい思い出・・学生時代東京に
出て以来・・今まで 忘れていました
貴重な思い出を・・共有できて、感激です
のび太さんの子供の時代、日本はそんな時代だったんですね~
小学校から給食だった私ですが、5歳年上だった夫の学校は給食は無かったそうです。
家が学校のすぐ傍だったので、いつも家に帰り
おばあちゃんが用意してくれたご飯を食べたって行ってました。
私の遠足のお弁当の思い出は、母がおにぎりを新聞紙で包んであったことです。
新聞に包まれたおにぎりは大きくて恥ずかしかったのを覚えています。
おかずは何が入っていたのか、まったく記憶になく
山の上で食べた、新聞紙に包まれたおにぎりが恥ずかしかった事だけ覚えています。
足尾銅山、懐かしい!!!
つい2~3日前、足尾銅山の事を孫に話したんですよ~
のびたさんのブログ、みせようっと!!!
大根飯は知らなかったけれど、漁村だったので刻んだ昆布の混じった🍚、これはご飯と昆布が分離して
私は食べれませんでした。
私もテレビを観ていました。小1の時山の方にあった共同墓地にお墓参りに行き蜂に刺されて泣きながら走って帰り一番近い家に駆け込んで薬塗って貰ったことを懐かしく思い出しています。
お野菜順調に育っていますね。のびたさんお上手です。今夕顔が盛りです。四個開きそうです。
150年の歴史があるそうです
私の時代 煙幕花火が無くて 何かの葉を花火の様に結束して煙をいっぱい出せたのを放り込んでいたと思います
私の場合は 小さい巣のようなので 何も防御せず近づいたのが間違いでした(笑)
ララ物資と言うアメリカの慈善団体の給付を一度受けました
ジャムを小瓶程度に貰って初めての味でした
遠足のおにぎり 塩むすび 中は梅干しがスタンダードかもしれません
5年までは白い飯は食べたことがありません
足尾銅山 交通の便が悪く あまり人気になりませんね
保存しておきたい 伝えたい施設です
昨日スーパーで8分の一カットで500円くらい 今年はほんの少ししか食べませんでした
昆布飯 これは逆に私は知りませんでした
山の奥 海の近く それぞれ生存のために
工夫して食べていたのでしょう
あの景色 私の5年間住んでいた地域です バスも観たこと無いし 電気 ガス 水道もありませんでしたね
三浦っ子さんの子供時代 お転婆少女だったかな(笑)