NHK紅白歌合戦(こうはくうたがっせん)とは日本放送協会(NHK)が毎年12月31日(第3回までは1月3日)の夜に生放送する、紅白対抗形式の大型歌番組である。通称「紅白」。会場はNHKホール(1973年から)。デジタル双方向機能対応番組。
番組内容
その年を代表するアーティストが女性は紅組(あかぐみ)、男性は白組に分かれて対抗形式で歌や演奏を披露する。
男女混合グループは、男女の人数に関わらずメインボーカルの性別を優先する。例えばEvery Little ThingやDREAMS COME TRUEなら紅組、サザンオールスターズなら白組(メンバーの原由子はソロとして出場する際は紅組で出場)である。
男女のデュエットは基本的に紅組扱いとなる(例外として1978年(第29回)の平尾昌晃・畑中葉子は白組で出場。おそらく、平尾がこのデュエット以前にソロ歌手として白組出場経験があることを考慮したものと思われる)。また、ユニットであるヒデとロザンナも白組から出場した。
複数の男女混合ボーカルグループの場合も紅組の可能性が高いと思われるが、場合によっては枠が空いている組に振り入れられると言うこともあるとされる。1972年の第23回に出場した青い三角定規がその例。
ソロ歌手同士の男女デュエットやコラボレーションなどの場合は各々がそれぞれの組の出場歌手として出場する。1992年(第43回)の堀内孝雄と桂銀淑のデュエットや2003年(第54回)の女子十二楽坊と錦織健、森山良子・BEGIN・夏川りみのコラボレートなど。
美川憲一などのような「女装した男性」は白組から出場するが、2005年(第56回)ではゴリエ(ゴリ)が女装した男性のソロでは初めて紅組で出場した。理由は、実際に歌っているメインボーカルがゴリエ本人ではなく女性(ジャスミン・アレンとジョアン)であるから。逆に、和田アキ子は「m-flo loves AKIKO WADA」として白組で登場した。これはメインボーカルのm-floが男性ユニットのためである。
2007年(第58回)では性同一性障害を抱える戸籍上は男性の中村中が紅組で出場する。
選ばれる曲は原則としてそのアーティストのその年のヒット曲である。ただし、例外も多い。たとえば、森進一は1971年のヒット曲「おふくろさん」を今日まで6回歌っている。薬師丸ひろ子のヒット曲「セーラー服と機関銃」を紅白で歌ったのは本人ではなく桜田淳子だった(1982年・第33回)。その回のテーマに沿った歌が選ばれることも多い。
歌の間には応援合戦やアトラクションが行われる。かつてはほとんど恒例というべき出し物もあった。
1970年代、紅組では若手歌手によるラインダンスが、白組では組体操が行われた。
出場歌手への激励や出場を祝福するための電報の紹介が行われていたことがあった。特に昭和基地の南極観測隊からの電報は恒例行事であった。2005年(第56回)には南極観測隊からのメールが紹介された。
勝敗はゲスト審査員(タレント・スポーツ選手・著名人など)とNHKホールの観客および地上・BSデジタル放送の双方向システムや携帯電話を利用した視聴者の投票で決定する。審査方式は回によって異なる。
過去の対戦成績は白組の29勝28敗である(2006年(第57回)現在)。
勝敗はトリの後攻である大トリを取ったチームが有利である。
優勝チームが決まると「○組 優勝!!」の字幕スーパーが画面いっぱいに出る。また、天井から大量の紙吹雪がステージに降りそそぎ(風船は入っていない)、放送終了まで続く。
初期には優勝チームが決まるとステージ中央に吊されたくす玉が割れて、紙吹雪と風船と共に紙テープが降った。なお、テレビ番組で初めてくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を行ったのがこの番組であり、その後のテレビの演出(クイズ番組等)のさきがけになった[要出典]。
優勝チームの司会者には優勝旗が手渡される。
番組のフィナーレは出演者全員で「蛍の光」を歌うのが恒例である。ただし、東京オリンピックを翌年に控えた1963年(第14回)は「東京五輪音頭」。2007年(第58回)はSMAPの「世界に一つだけの花」が歌われる。
合唱の指揮は藤山一郎が死去する前年の1992年(第43回)まで務めた(1971年(第22回)は岩城宏之が務めたが、総合指揮者として藤山も出演)。藤山は1957年(第8回)まで歌手として出場した後、東京放送管弦楽団指揮者として出場しており、番組最多出場記録である。
藤山の死後の1993年(第44回)~2005年(第56回)まで作曲家の宮川泰が務めた(宮川は1972年(第23回)でもザ・ピーナッツの歌唱の際に指揮をしていた)。
宮川の死後の2006年(第57回)は作曲家および歌手の平尾昌晃が指揮を務めた。
話題性
毎年、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる。1962年(第13回)の調査開始以降での最高視聴率は1963年(第14回)の81.4%(関東地区・ビデオリサーチ調べ、以下同じ)。1980年代前半までは「お化け番組」「怪物番組」とも称され、新聞社系の週刊誌でも「紅白で歌われる曲の歌詞一覧」といった特集を組んだ。もっとも近年は裏番組や生活の多様化などにより、視聴率は低落傾向にある。最低視聴率は2004年(第55回)の39.3%である。
紅白への出演は翌年初頭のアーティストのCD売り上げに少なからぬ影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている。紅白出演後に紅白で歌われた曲が初めてオリコンシングルチャートで週間1位を獲得した例としては1986年(第37回)出場の吉幾三の「雪國」(1987年2月9日付)、2002年(第53回)出場の中島みゆきの「地上の星」(2003年1月20日付)、2006年(第57回)出場の秋川雅史の「千の風になって」(2007年1月22日付:クラシックの同チャート1位は史上初)がある。2003年(第54回)に大トリを努めたSMAPの「世界に一つだけの花」はそれまでランクが落ちていたが、紅白出演後の翌年1月5日にオリコンシングルチャートで週間1位に返り咲いた。
司会者や出場者、曲目などが決定すると、そのつど大きく報道される。司会者や初出場者などの記者会見の模様は、NHKニュースはもちろん、民放各局の情報番組でも大きく報じられる。民放の番組で「大晦日は○○(自局の大晦日特番)をご覧ください」などというように紅白報道の後に自局の大晦日特番の宣伝を行うことがよくある。このことは、紅白の話題を取り上げて自局の情報番組への注目度・関心度を高めたい一方、この報道によって紅白への注目度・関心度が高まって自局の大晦日特番から注目をそらしてしまうというジレンマを抱えていることを象徴している。梨元勝によれば、民放に紅白の取材が開放されたのは1981年以降のことであり、そのきっかけとなったのはテレビ朝日「アフタヌーンショー」の突撃取材だったという(『週刊朝日』2006年12月29日号)。今でも民放の情報番組は紅白を無視できずにいる。
舞台袖の通路は放送終了後にアーティストが大挙するため、正月明けに民放各局のワイドショーで大きく扱われる。この通路は和田アキ子が翌年の干支の被り物をして通ることでも有名である。
2003年(第54回)と2004年(第55回)ではそれぞれ翌年の2月11日に総合テレビで再放送が行われた。
歌唱中のパフォーマンス
紅白では歌唱中に視聴者、観客を驚かせるような演出のパフォーマンスがしばしば行われる。小林幸子や美川憲一の、ステージと一体化した豪華な衣装は特に有名である(「歴史」の「1970年代~1990年代」の節を参照)。
大トリ歌手の歌の場面で天井から大量の紙吹雪が降ることがある。1981年(第32回)の大トリ・北島三郎の「風雪ながれ旅」では猛吹雪を思わせる大量の紙吹雪が降り、観客席まで入り込む演出があった。
番組が生放送であることを利用し、アーティストが制作側に事前に知らせない不意打ちパフォーマンスを行うこともある。その典型例は2006年(第57回)のDJ OZMAのパフォーマンスであり、以後NHKは打ち合わせと著しく異なるパフォーマンスを行わないよう、歌番組に出演するアーティストに対し誓約書を書かせることとなった。これまでの主なパフォーマンスとしては、以下が挙げられる(詳しくは当該の回やアーティストの項目を参照)。
1982年(第33回) - サザンオールスターズの桑田佳祐が三波春夫をパロディ化した衣装と歌い方をした。「裏番組(を見たい場合)は録画しましょう」という発言で、賛否両論が巻き起こった。
1985年(第36回) - 吉川晃司が歌唱中にセットを壊し、終了間際にギターを燃やした。出番が終わっても退場しなかったため、次の河合奈保子は曲の冒頭が歌えない結果となった。
1991年(第42回) - とんねるずがパンツ1枚という衣装で登場した。木梨憲武は赤色、石橋貴明は白色に全身を塗っていた。後ろを向くと、背中に「受信料を払おう」と書いてあった。
1992年(第43回) - 本木雅弘が首に白い液体を入れたコンドームをいくつも巻きつけて登場した。
2006年(第57回) - DJ OZMAがボディスーツを着て出てきて、女性バックダンサーも同様の格好で全裸に見えたため、「公共放送で、しかも老若男女が視聴する時間帯である事の配慮がない」としてNHKに苦情が殺到した。
開始当初~1960年代
第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に「紅白音楽試合」というラジオ番組が放送された。番組は近藤積(つもる)ディレクターの発案であった。近藤は剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を製作しようとした。当初は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったが、GHQが「合戦」の語に難色を示したため、「試合」という名称になったものである。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し、木琴、マンドリン、尺八による曲を披露した。童謡歌手・川田正子が歌った「汽車ポッポ」は元は「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤ディレクターが作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした「リンゴの唄」で新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後の紅白歌合戦には出場していない)。
当初はこの1回だけの放送の予定だったが、あまりの好評から放送の5年後の1951年からタイトルを「紅白歌合戦」と改めて継続されることになる。第1回の白組及び大トリは藤山一郎で、「長崎の鐘」を歌った。1953年(第3回)では、テレビでの実験放送が実施された。当初、第3回までは正月番組として放送されていたが、この年の12月31日には第4回が放送され、テレビでの本格的な放送開始を機に、以降大晦日の放送が定着した。なお、大晦日の収録・生放送を行った理由は当時年末年始には大晦日しか大規模な会場が開いていなかったことが一因という。また、この第4回から会場に観客を入れての公開放送となった。
会場は第1~3回までは内幸町にあった旧NHK東京放送会館だった。ラジオ・テレビ同時放送開始(第4回)以降は東京宝塚劇場や日劇・日比谷公会堂・産経ホール・新宿コマ劇場などを転々としたが、1973年(第24回)以降は渋谷のNHKホールに固定されて今日に至る。
黎明期の紅白は映像はおろか音声すら現存しないとされてきたが、愛知県名古屋市在住の一般の男性が1954年(第5回)から録音していたテープが1999年末に発見された。一方、現存する映像は1963年(第14回)が最古である。1962年(第13回)はニュース映画で紹介された映像が残っている。なお1964年(第15回)よりカラー放送となったが、この回の映像はカラー・白黒とも現存しない。1964年を除いた1963年以降の1960年代の現存映像は白黒のみ(1965年はカラー版が部分的に現存している)で所々激しくぶれる。1970年はカラーで現存するがフィルム映像でとても汚く、一部が欠落している。1971年もカラーで現存するが一部が欠落している。1972年以降の現存映像はカラーで安定している。
黎明期(1956年(第9回)頃)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、1957年(第8回)を以て戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以降、回を重ねるごとに戦前派の歌手の名は消えてゆく。入れ替わるように、1959年(第10回)では新世代デュオ歌手のザ・ピーナッツが出場した(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)。さらに1962年(第13回)では前年まで連続出場していた淡谷のり子、林伊佐緒、伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。
テレビ視聴率調査(ビデオリサーチによる)が1962年(第13回)から開始される。翌年(第14回)において81.4%の視聴率を記録する。これは、紅白史上およびビデオリサーチの全統計史上最高のテレビ視聴率である。
美空ひばりは1963年(第14回)から東京宝塚劇場での最終開催となった1972年(第23回)まで一貫して紅組のトリを務めていた。だが、翌1973年(第24回)に実弟が暴力団絡みの事件で逮捕された事が発端となり全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年の紅白も落選となった(その後、1979年(第30回)に藤山一郎と共に「30回記念特別ゲスト」扱いで出場、「リンゴ追分」などをメドレーで熱唱した。結局、同回がひばりにとって最後の紅白出場となってしまった)。
1960年代のグループサウンズ全盛の頃、長髪のグループは出場できなかった。1967年(第18回)のザ・タイガースはその例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川とブルーコメッツのみであった。時が経ち、当然ながら長髪は解禁になった。1989年(第40回)にはザ・タイガースが再結成されて出場、1999年(第50回)にはザ・スパイダースの元メンバー3人によって結成されたソン・フィルトルが出場した。
沖縄は米国の施政権下にあったため、1964年(第15回)まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌年の1965年(第16回)から沖縄テレビがスポンサーをつけるという形で放送を開始した。1968年に沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始すると、その年(第19回)から同局での放送となり、ようやく本土と同じ内容になった。1972年の本土復帰で沖縄県が再発足すると沖縄放送協会はNHK沖縄放送局となり、同時に1945年以来中断していたラジオ放送が再開されると、その年(第23回)から沖縄でもラジオ中継を開始した。
1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。
1970年代~1990年代
1970年代になると新三人娘、新御三家、花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージック、ロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。「若い人の歌う歌は分からない」と高年層から文句が出るようになったのもこれ以降である。1973年(第24回)に初出場が当確と見られていた西城秀樹が「アクションが激しすぎる」という理由で落選した事は当時の世相を物語る出来事であった。
公共放送であるNHKは番組中で商品名の使用を規制しているがかつては現在に比べてその規制も厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。1973年(第24回)にかぐや姫の「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。1978年(第29回)にも山口百恵の「プレイバックPart2」の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(別番組の「レッツゴーヤング」では「真っ赤な車」として歌った)。
視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった。1974年(第25回)から9年間白組司会を務めた山川静夫アナウンサーが降板した理由の1つは視聴率の降下であるが、それでも最後の司会の1982年(第33回)の視聴率は69.9%(ビデオリサーチ、関東)もあった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった1984年(第35回)の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後はテレビの音楽番組が減るなど状況の変化もあって、視聴率が大幅に落ち込むようになった。
1989年(第40回)から紅白は2部構成になった。この年に昭和天皇が崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は視聴率は50%前後で推移するようになる。
1980年代の紅白はそれまでより話題を集めにくくなっていた。この時期に最も注目されたものの一つが小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、1985年(第36回)の「夫婦しぐれ」で十二単を、翌1986年(第37回)の「別離(わかれ)」ではクレオパトラの衣装を披露した。1991年(第42回)の「冬化粧」では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林および美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる。
1981年(第32回)から、これまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場者は舞台の後ろから入場行進をするようになった。また応援合戦が少なくなり、出場者の歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった。1980年代半ばあたりから応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった。1991年(第42回)から入場行進、優勝旗返還、選手宣誓が省略され、またそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった(現在は別スタジオにて、生の映像を見ながら演奏している)。このため、現在の紅白は「歌合戦らしさが失われている」とよくいわれる。2002年(第53回)ではオーケストラが小規模ではあるが、久しぶりに表舞台で演奏した。
1970年代までオープニングの入場行進で流れていた「乾杯の歌」(ドイツ民謡、アメリカ・メイン大学学生歌、別名:「スタイン・ソング」)が演奏される回が少なくなっていった(1980年代以降、入場行進で流れていたのは第31・32回および36~38・40回のみ。なお第47・48回のオープニングでは「乾杯の歌」のアレンジ版、第51回では1フレーズのみ流れ、近年は司会者および出場歌手発表時の記者会見で流れるのみである)。
1990年代には小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも現れた。例えば1996年(第47回)の出場者のうちTRF、安室奈美恵、華原朋美、globeらが「小室系」の歌手であった。
1990年代後半を中心にヴィジュアル系バンドのブームが起こり、X JAPAN・LUNA SEA・GLAY・L'Arc〜en〜Cielらが出場した。
2000年代~
21世紀の紅白は国民の生活様態の多様化などに加えてBSでも見られることなどから、地上波放送の視聴率が減少傾向にある。演歌歌手の出演数が半分以下になったため、演歌ファンの中には演歌や懐メロ中心の裏番組「年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京)を見る人も増えている(BSジャパンでも同時放送されているため日本全国で視聴可能)。また紅白の全盛期を過ぎた90年代は比較的J-POPの旬なアーティストが積極的に出演していたこともあり視聴率は50%台をキープする安定期に入っていたが、2000年代になるとJ-POPの旬なアーティストすら紅白を避ける傾向にあり、全盛期を過ぎたアーティストやさほどCD売り上げや知名度がないアーティストまで出演するようになり、近年40%前後へと視聴率が再び低下している。
紅白の出場依頼を断る歌手も依然として多い。比較的キャリアを積み人気も一定以上になった歌手はもはや紅白に関心を示さず、自身が主催する「年越しライブ」を行うことも増えつつある。演歌歌手も「年忘れにっぽんの歌」への出場に目標を変える傾向が強くなっている。
一方でモーニング娘。などハロー!プロジェクトのメンバー、浜崎あゆみ、大塚愛、倖田來未らエイベックス勢、aiko、氣志團、ORANGE RANGE、中島美嘉など、紅白出場に積極的な歌手や芸能事務所も少なからず存在している。演歌歌手は紅白に出るか出ないかで翌年の営業(コンサートなど)が大きく変わることから、「紅白に出たい」という人はなお多い。さらに中島みゆきや松任谷由実など大物歌手が初出場するなど、大晦日の一大イベントとしての紅白の意味はなお失われていない。
SMAPは2003年(第54回)に大トリを務めた。グループとしては史上初、ポップス歌手としては1978年(第29回)の沢田研二以来25年振りだった。しかし、翌2004年(第55回)には出場を辞退し、その年の紅白の平均視聴率は過去最低を記録した。そして2005年(第56回)には2度目の大トリを努め、視聴率上昇に大きく貢献した。
個人のスケジュールの都合やイメージ戦略により会場以外の場所から中継出演する歌手も多くなっている。
2001年(第52回)から2004年(第55回)までは当時の海老沢勝二会長の強い意向によりNHKアナウンサーが全ての司会を担当した。
2004年には紅白も担当したNHKプロデューサーが5千万円近い制作費を不正支出していたことが明るみに出て、NHKは激しい批判にさらされることになった。紅白のあり方についても見直しが提起され、翌2005年(第56回)には「スキウタ」アンケートを実施し、その結果を参考に曲目を決めるなどの試みが実施された。視聴率は一応下げ止まりを見せたものの、視聴者の理解を真に得られるかどうかはなお今後の取り組みにかかっている。
2006年以降の元日、総合テレビでは紅白終了の40分後に紅白の常連となっているさだまさし司会の生放送番組「年の初めはさだまさし」が放送されている。さだ以外の出場歌手の中には、このスタジオに登場する者もいる。また、さだはこの中で爆弾発言をすることがあり、紅白の視聴者を他局へ逃げさせない工夫となっている。
2007年(第58回)から2009年(第60回記念)までの3年計画「歌力(うたぢから)」の一環で2007年(第58回)はクイズ番組「クイズ紅白検定」が行われる。
「紅白」観ている。始まる30秒前に280枚の年賀状を書き終えた。2007年ももう終わりやなぁ。