お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」

2007年12月24日 | 本・雑誌・漫画
植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」
戸井 十月
小学館

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クレイジーキャッツ メモリアル DVD-BOX

(株)イーネット・フロンティア

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内容紹介
1960年代に放送されていた「シャボン玉ホリデー」「植木等ショー」「おとなの漫画」などクレイジーキャッツの黄金期の映像がついにDVD化!!このBOXは日本テレビ、TBS、フジテレビのライブラリーに残存する素材の中より、最高の作品を選び出して収めており、ユーザーがどこから見ても満足できる作品となっております。
【特典内容】小冊子(P.22)

内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
黄金期のハナ肇とクレイジーキャッツが出演していた60年代のTV番組『シャボン玉ホリデー』『植木等ショー』『おとなの漫画』などの映像を収録した4枚組BOX。お茶の間を笑いの渦に巻き込んだ彼らの貴重なパフォーマンスがたっぷりと堪能できる。


「テレビが楽しい時代」があった。どんなにしんどくてもがんばれ、ぶっ倒れても次の番組を作ろうという気概を持ったキャストやスタッフが集まっていた。
今のテレビは「離乳食」でしかない。「芯(何を視聴者に伝えたいか)」を持った番組が激減している様に感じる。キャストやスタッフの「強い強い番組作りの熱」が画面に現れるのだ。クレージー・キャッツはそれを体現してくれた。懐かしくも楽しい思い出である。
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消えろクソがん 日本一諦めの悪い芸人・竹内ゆうじの闘病日記

2007年12月24日 | 病院・薬・病気
消えろクソがん 日本一諦めの悪い芸人・竹内ゆうじの闘病日記
竹内 ゆうじ
ワニブックス

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内容紹介
関西の人気バラエティ番組ABC「クイズ紳助くん」の出演者・竹内ゆうじ 33歳。
世界中をロケで旅する「なにわ突撃隊」の主要メンバーだ!
愛する3人の子供と妻との幸せな生活、順風満帆にみえた芸人生活を突然のがん宣告が襲う!
初めて明かされるがんとの闘いの日々、
番組出演時と同じく決して諦めない姿勢で闘病生活を送る苦闘の日々が今明らかに。


タレントの竹内ゆうじさん死去
2007年12月11日

 吉本興業所属のタレント、竹内ゆうじ(本名・竹内裕二)さんが10日、直腸がんで亡くなった。36歳だった。通夜は12日午後6時、葬儀は13日午後1時30分から兵庫県丹波市氷上町市辺220の2のJA丹波ひかみ葬祭センターで。喪主は妻真子(まこ)さん。自宅は公表していない。

 朝日放送の人気番組「クイズ!紳助くん」で「なにわ突撃隊」の一員として活躍していたが、がんの宣告を受け、18日に『消えろクソがん 日本一諦(あきら)めの悪い芸人・竹内ゆうじの闘病日記』を出版予定だった。
(朝日新聞紙面より引用)


若い人が亡くなると悲しい。残された家族の事も考えてしまう。僕は、新聞を読む時、すぐ「死亡欄」に目が行く。天寿をまっとうしている様な年齢で亡くなっている人より、竹内さんの様に、自分より若い人の訃報を知るとショックを受ける。「生きていること」がどれだけ貴重な事か、その度に思い起こさせられる。
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ケルティック・ウーマン

2007年12月24日 | 歌・CD
ケルティック・ウーマン
ケルティック・ウーマン
EMIミュージック・ジャパン

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曲目リスト
1. ラスト・ローズ・オブ・サマー(イントロ)~ウォーキング・イン・ジ・エアー
2. メイ・イット・ビー
3. イニシュフリーの島
4. ダニー・ボーイ
5. ワン・ワールド
6. アヴェ・マリア
7. センド・ミー・ア・ソング
8. シューリ・ルゥ(ウォーク・マイ・ラヴ)
9. オリノコ・フロウ
10. サムデイ
11. シー・ムーヴド・スルー・ザ・フェア
12. ネッラ・ファンタジア
13. バタフライ
14. ハリーズ・ゲームのテーマ
15. ソフト・グッバイ
16. ユー・レイズ・ミー・アップ
17. アショカン・フェアウェル~コントラディクション
18. シ・ド・マモーイ(お金持ちの未亡人)
19. 主よ、人の望みの喜びよ
20. アイ・ドレムト・アイ・ドゥウェルト・イン・マーブル・ホールズ


商品の説明

内容(「CDジャーナル」データベースより)
アイルランド出身、女性5人組ユニットの日本デビュー盤。フィドルやハープの音色が印象的なケルト音楽テイストのサウンドと澄み渡るようなピュアな歌声が魅力。デヴィッド・ダウンズの秀逸なアレンジにも注目。


僕はケルト音楽が好き。連続ドラマの劇中曲も音楽監督の提案で、アイルランドのダブリンでレコーディングして、ドラマのストーリーや映像にぴったり合った。特にこのアルバムでは、「ユー・レイズ・ミー・アップ」が好きだ。透き通る様な歌声が僕の心の奥底まで響く。

今の季節にはこちらのアルバムもオススメ。
クリスマス・セレブレーション
ケルティック・ウーマン
EMIミュージック・ジャパン

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曲目リスト
1. オー・ホーリー・ナイト(クリスマスの歌)
2. まぶねの中で
3. ディン・ドン!高らかに(みそらにこだます)
4. ホワイト・クリスマス
5. きよしこの夜
6. クリスマス・パイプ
7. クリスマス・ソング
8. キャロル・オブ・ザ・ベル
9. あなたに楽しいクリスマスを
10. 天使の糧(パニス・アンジェリクス)
11. ベツレヘムの夜
12. 神の御子は今宵しも
13. リトル・ドラマー・ボーイ
14. ウェックスフォード・キャロル
15. レット・イット・スノー
16. ビヨンド・ザ・シー
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M-1初!サンドウィッチマン敗者復活栄冠

2007年12月24日 | 笑い
若手漫才No.1を決める「M-1グランプリ2007」の決勝戦が23日、東京・六本木のテレビ朝日で行われ、サンドウィッチマンが史上初の敗者復活からの優勝を成し遂げた。予選を勝ち抜いた8組に敗者復活組を加えた計9組で争われ、最終ラウンドではサンドウィッチマン、キングコング、トータルテンボスが進出。島田紳助審査委員長や松本人志ら審査員7人のうち4人が支持する“圧勝劇”で無名コンビが史上最多となる4239組の頂点に輝いた。 

 ミラクルVに会場は、どよめきと大きな拍手が巻き起こった。大会史上初めての敗者復活からの戴冠。しかも、全くといっていいほどの無名コンビの快挙達成だ。「夢見心地です。本当に全く覚えていない状況です」とツッコミの伊達みきお(33)は放心状態だったが、ボケ担当の富澤たけし(33)と目に涙を浮かべながらガッチリと抱き合い喜びをかみしめた。

 その実力は確かだった。この日、都内で行われた敗者復活戦を勝ち上がり、バイクですでに決勝の始まっているテレ朝へ到着。打ち合わせもそこそこに本番に挑んだが、「紳竜コンビ」のDVDで研究したというテンポのいいボケ&ツッコミでトータルテンボスやキングコングといった強豪を押しのけトップで第1ラウンドを突破した。

 決勝ラウンドは、一番自信のあるというデリバリーのネタを披露。結果は島田委員長や松本ら7人の審査員のうち4人の支持を集め、見事に栄冠を勝ち取った。

 島田委員長は「松本と『何でこいつら準決勝で落ちたんだ』と言っていた。どこの事務所で何をやっているのかも分からない。けど、本当に能力がある」と絶賛。急きょ、1月13日の自身が司会を務める日本テレビ系「行列のできる法律相談所」への出演を決めた。

 伊達は“やくざ風”のルックスながら伊達政宗の子孫という経歴の持ち主。2人は宮城・仙台商のラグビー部の同級生で99年にコンビを結成した。だが、今年出演したテレビ番組は「エンタの神様」を含めて5、6回。2人は、家賃6万8000円の1DKのネズミが出るというアパートに一緒に住んでいる。

 極貧生活から手に入れた賞金1000万円。伊達は使い道について「新しいマンションじゃなく、アパートに住みます。あとは親にあげます」とキッパリ。この日の有馬記念顔負けの大番狂わせをサンドウィッチマンが、M-1の舞台で演じてみせた。(ディリー・スポーツ紙面より引用)


伊達みきお(だてみきお、1974年9月5日 - )

ツッコミ担当。パワフルな突っこみはプロの間で定評がある。宮城県仙台市出身。身長170cm。体重88kg。趣味は野球を始めとするスポーツ。ヤクザのような外見をしているため、ネタの中でも「○力団の方ですか?」「出所祝いですか?」などとしばしば使用されている(実際、歌舞伎町を歩いていたら本物のヤクザに「大久保さんですよね?!」と組の偉い人に間違われた事がある)。
漫画「史上最強の弟子ケンイチ」に登場する柔道家「宇喜田孝造」に容貌が似ている。同作の作者松江名俊に、「(実写版の製作が決定した際は)宇喜田孝造役として抜擢されるのでは」と言わしめている。
仙台藩家臣で一家の家格をもっていた大條氏嫡流で明治期に伊達姓に復姓した家の出である。


富澤たけし(とみざわたけし、1974年4月30日 - )

ボケ担当。ネタ作りも担当している。東京都生まれ宮城県仙台市育ち。身長170cm。体重76kg。趣味はTVゲーム、ワールドサッカー観戦。言葉の勘違いをするネタや伊達の体型をいじるネタが多い。また、「ちょっと何言ってるかわかんないですね」と言うネタもあり、伊達が「なんで何言ってるかわからないんだ」とつっこむ。

来歴
高校時代のラグビー部で知り合う。お笑い芸人になりたかった富澤は当初は別の相方と組んでいたが、本来は伊達と組みたいと考えていた。しかし伊達は就職していた為、退職を待って二人で上京(これは同期だったポプラ並木が上京し、お笑い芸人として活動を始めた影響とのこと)。
本人達はネタ以外ではボケ、ツッコミの役割分担は気にしていないため、フリートークでは自由なポジションで対応している。
元々はホリプロに所属しており、当時はトリオだった(脱退したのは現:「メインストリート」の浜田。[1]より)。
2005年・2006年のM-1グランプリでは準決勝まで進み、2007年では敗者復活戦から決勝前半戦を1位通過、最終決戦でも審査員7人中4票を獲得し見事優勝を果たした。敗者復活戦から優勝を勝ち取った初のコンビとなる。
過去にH・R事務局に所属していた。
東京進出9年の今でも、コンビ2人でアパートに住んでいる。

受賞歴
第7回M-1グランプリ優勝(2007年)

出演番組
笑っていいとも!(フジテレビ系 2001年4月11日「ご先祖様はスゴイ人!」のコーナー)
エンタの神様(日本テレビ系 不定期出演、キャッチコピーは「お笑い界の裏番長」→「ボリューム感の挟み撃ち」)
笑点(日本テレビ系 2007年11月11日)
虎の門(テレビ朝日、テレ朝チャンネル 不定期出演)
伊集院光 日曜日の秘密基地


サンドウィッチマンの公式サイトはこちら→http://sandwichman.fc2web.com/


僕も「生」で観ていたが、文句無しの優勝だと思う。ダントツで「サンドウィッチマン」の漫才が面白かった。これで全国進出、貧乏生活を抜け出して欲しい。拍手!!!!!


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松岡修造のホームページが熱い!!!!!面白いでーっ

2007年12月24日 | インターネット
人生に迷っている人、笑いたい人はこちらを御覧下さい。元気がでるでーっ↓
http://www.shuzo.co.jp/


松岡 修造(まつおか しゅうぞう、1967年11月6日 - )は、日本の元プロテニス選手である。現役引退後はタレント、スポーツキャスターとして活躍している。シングルス自己最高ランキングは46位(1992年)。


人物
父親の松岡功は東宝の会長及び東宝芸能社長。母親は宝塚歌劇団卒業生(元星組男役)の千波静。曾祖父は阪急電鉄・宝塚歌劇団・東宝をはじめとする阪急阪神東宝グループ創始者の小林一三(雅号・逸翁)である。夫人は元テレビ東京アナウンサーの田口惠美子。

慶應義塾幼稚舎・慶應義塾中等部出身。中等部在学中にジュニア選手の登竜門と言われるアメリカの「オレンジボウル選手権」で優勝を果たすなど、早くからテニスの才能を開花させる。その後、慶應義塾高等学校に進むもテニスの名門柳川高等学校に編入。高校中退後、渡米。1984年にインターハイを制覇し、その後プロに転向。ジャパン・オープンにおいて、当時の世界トップ選手ミロスラフ・メチージュ(1988年ソウル五輪金メダリスト)を撃破し、一躍注目を浴びる。1992年4月の「韓国オープン」で、日本人の男子プロテニス選手として初のATPツアー優勝を達成。1995年のウィンブルドンで、日本人の男子テニス選手として1933年の佐藤次郎以来「62年ぶり」のベスト8入りを果たす。その準々決勝では1番コートに立ち、第2シードのピート・サンプラスにセットカウント 1-3 (スコア:7-6, 3-6, 4-6, 2-6)で惜敗した。オリンピックにもソウル五輪、バルセロナ五輪、アトランタ五輪と3大会連続出場を果たした。

典型的なビッグサーバーで、サービスの調子が良い時は手がつけられないほどの強さを誇った。だがその反面動きが硬く、多くの故障にも悩まされた。4大大会の男子シングルスは1回戦から5セット・マッチで争われるため、試合の終盤に力尽きるケースが多く見られた。その最たる例として、1995年のウィンブルドンで快挙を達成した後、全米オープン1回戦でチェコのペトル・コルダと対戦中、痙攣を起こして身体が動かなくなり、試合途中で失格となったこともある。(痙攣はテニス規則では「試合中の故障」とみなされないため、故障の治療時間として取れる3分間の「インジャリー・タイム」“Injury Time”の対象にならない。松岡のこの試合をきっかけに、テニス規則におけるインジャリー・タイムが見直され、その後「シュウゾウ・マツオカルール」として痙攣の治療も認められるようになった。)

1998年春に現役引退。その後、後継者育成のための指導を行うと同時に、スポーツコメンテーターとして日本テレビ系の『スポーツMAX』(2004年3月まで放送、月曜日)に出演した。長野オリンピックやソルトレーク冬季五輪、またアテネ五輪の解説にも参加。2004年1月~3月に『エースをねらえ!』が実写ドラマになった時は、出演者のテニス監修を担当した。フジテレビの『くいしん坊!万才』のレポーター、2004年4月からはテレビ朝日系『報道STATION』でもスポーツキャスターを務めている。また、たびたびTBSの『さんまのSUPERからくりTV』にも出演し、同番組内で明石家さんまと対決。現役テニス選手時代と少しも変わらない熱血ぶりを、テレビ解説を含む引退後の仕事でも披露している。

著書も多数あり、『セカンド・ドリーム』(1998年集英社刊)、『「本気」の言葉』(2002年祥伝社刊)、『テニスの王子様勝利学』(人気漫画『テニスの王子様』をもとにしたもの、2003年集英社刊)、『Stay Gold フィギュアスケート編』(2003年、ナナ・コーポレーション刊)、『Stay Gold 水泳編』(2003年、ナナ・コーポレーション刊)、『熱血お悩み応援団 松岡修造のエネル言!』(2006年小学館刊)、『叱って ほめて 抱きしめろ! ~こうすれば子どもは変わる~』(2006年学習研究社刊)などがある。


エピソード
松岡は、テレビでの活躍が多くなった現在は陽気なキャラクターのイメージが強いが、現役テニス選手時代は苦労の連続だった。彼には多くのエピソードがあるが、テニス関係の事柄も忘れてはならない。


テニス編
父・功氏がプロのテニス選手となることに反対だったため、プロ転向後は実家からの経済的援助を受けられなかった時期があった。
松岡は山本鈴美香の漫画『エースをねらえ!』に憧れてテニスを始め、海外遠征の間はいつも全18巻を荷物に入れて愛読していた。
沢口靖子が東宝シンデレラに選ばれた頃、東宝芸能社長である父・功氏に「会わせてくれ!」と頼んだが、「アホか」の一言で断られたという。また、功氏が周囲から「沢口靖子を嫁に?」と聞かれると、「東宝の看板女優を二流のテニス選手に渡すわけにはいかん」と言ったという逸話もある。
後日、某テニス専門誌の企画で、沢口との対談が実現。対談の場にコミカルなゴジラがプリントされたピンクのトレーナーを着て現れた松岡は沢口のツッコミに対し、「家業(東宝)の宣伝です」と答えた。
1995年のウィンブルドンでは、インターバルのみならず、プレー中も「この一球は絶対無二の一球なり」などと、日本語で自己暗示を掛け続けていた。ベスト8を決めた試合では、歓喜の余りコートに倒れこみ、その様子がBBC等で大々的に放映された。
1996年4月28日、松岡は「韓国オープン」で準々決勝敗退に終わった後、直ちに日本へ帰国し、東京・有明コロシアムで行われた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦の日本 vs. ドイツ戦に駆けつけた。伊達公子とシュテフィ・グラフのエース対決で、松岡が日の丸の旗を振り回して会場の大声援を集めた話は今なお語り草になっている。伊達はこの試合でグラフに 7-6, 3-6, 12-10 で勝ち、この日は日本のテニスファンが最も盛り上がった瞬間となった。
テニス指導者としての熱血漢ぶりを示す名言もいろいろあり、「出し切れ!!」/「君達の目指している所、それは日本じゃない、世界なんだよ!それも世界の頂点だよ!!」/「ナイスショット、ナイスショット、ラスティ!」など多数ある。ただし、テニス指導に熱くなりすぎて、テニスを1日指導するイベントなどで、ふがいないプレーをしている子供を叱りつけ泣かす場面もある。
父・功氏は東宝の社長になる以前にはデビスカップに出場したこともある名テニスプレーヤーだったが、実業に専念すると同時に完全にテニスから足を洗った。用具やトロフィーなどはすべて処分し、テニスをやっていた痕跡すら残さなかったという。そのため修造は、自らがテニスを始め、将来を嘱望される選手となる頃まで、父がテニス選手であったことを知らなかった。
現在は東宝東和株式会社で常務取締役を務める兄・宏泰氏は、慶應義塾大学時代にテニス部主将を務め、全日本大学選手権などに出場。テニス専門誌などにもしばしば登場するほどの選手だった。当時既にプロになっていた修造の知名度も高く、「セレブなテニス兄弟」としてメディア的には格好のネタになりそうなものだったが、なぜか宏泰氏が「松岡修造の兄」として紹介されたことはほとんどなかった。これは宏泰氏が、父・功氏同様、大学卒業後は実業に専念することを決意しており、将来はプロとしてテニス界で羽ばたいていくであろう修造とは距離を置いた立場を貫くために、メディアに対してなんらかの申し入れをしていたからだと推察されている。

テレビ編
『どっちの料理ショー』(よみうりテレビ製作・日本テレビ系列)にゲスト出演した時、自分一人が食べられないという結果に「どうして食べることができないんだ!!」と本気で怒ったり、メインレギュラーの草剛に裏切られたことに本気で怒って追いかけ回したりなどの熱血エピソードは今でも語り草になっている。
『くいしん坊!万才』歴代レポーターで最も活動期間が長く、現在も記録更新中である。
マクドナルドのフライドポテトを次の物が揚がるまで待つ・吉野家のお新香はショーケースに入っているものは取らずに新しいものに取り替えてもらう・ファミリーレストランでは店内を一周して何がおいしそうかをチェックするなど、食べ物に関するこだわりのエピソードも多い。
近年はナレーターとしての評価も高い。
オリンピックや各種スポーツなどスポーツの祭典があると現地入りし、観客席で日の丸のハチマキを頭に巻き、日の丸の旗や扇子などを一生懸命に振り、日本人選手を応援している姿が中継されるのが恒例化している。




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生存 & 告白 by かわぐちかいじ

2007年12月23日 | 本・雑誌・漫画
生存―LifE (講談社漫画文庫 か 3-26)
福本 伸行,かわぐち かいじ
講談社

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出版社/著者からの内容紹介
数年前に妻を亡くし、自らの体もガンに冒されていることを知った主人公の武田は、人生に絶望する。そして自殺しようとしていた寸前に、警察から1本の電話が入る。それは14年前に行方不明となった、娘の佐和子がなんと死体で発見されたのだという。時効を間近に控え、警察も諦めたこの事件に、武田は残された生命を懸け、犯人を見つけだす決意をする──

出版社/著者からの内容紹介
娘を殺害した犯人の時効と残り後わずかな武田の生命(ライフ)。父の執念が、真実を導きだす──

主人公の武田は、15年前に娘の佐和子が殺害されていたことを知り、単独で捜査を開始する。すでに時効も過ぎ、警察の捜査も消極的になった情況で、唯一の希望は犯人の海外渡航記録の有無に懸かることに。そして村井刑事の協力の結果ついに犯人らしき男にたどり着くが、決定となる物証がない。そこで当時、犯人が乗っていたと思われる車を追うのだが……。

告白―コンフェッション (講談社漫画文庫 か 3-27)
福本 伸行,かわぐち かいじ
講談社

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版社/著者からの内容紹介
尾張の冬山を舞台にした緊張と恐怖の密室サスペンス
名匠の華麗な共演が生み出した最高のスリルと興奮を再び!!

J大学山岳部OBの浅井と石倉は、尾張山3200メートル地点で遭難をした。事故によって死を覚悟した石倉は、自分が過去に犯した“殺人”を告白してしまう。しかし、その時眼前に山小屋が出現し、2人は一命をとりとめるが……。



ものすごく面白い。冬休みにぜひ。





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母べえ

2007年12月23日 | 本・雑誌・漫画
母べえ
野上 照代
中央公論新社

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著者は「黒澤明監督」の「記録」を長年務めた人である。その人が書いた本。読みたい。


黒澤監督に酒を奢った話/野上照代 - Teruyo Nogami - あれはなんの時だったか何かの帰りに、私は黒澤さんと新宿にいた。雨が降って来た。黒澤さんは空を見上げて
「ちょっと飲みたいね」と言う。「どこか店知らない?」と、雨宿りのつもりかすぐどこかへ飛びこみたい体勢だ。
 「私が知っているのはこの辺じゃ『どん底』しかないなあ、いいですか、どっちかっていうと歌声酒場風だけど」雨足がやや強くなって来た。黒澤さんは
「いいよ、なんだって。飲めりゃ」と言ってから立止り、
「いけねぇ、俺、今日金持って無いんだ」と言った。
「いいですよ私持ってるから」
「ノンちゃんにオゴってもらうなんて、面目ないなあ」と変なところで遠慮する。
「いいじゃないですか。安いとこだもん」と押し問答しながら『どん底』のドアを押して入った。入り口のカウンターに並んで腰かけ、サントリーの角を水割りで飲んだ。
 黒澤さんは飲みながら何度も「ノンちゃんにオゴってもらったんじゃあ、スマンネ」と言った。
 突然、天井から水が落ちて二人の間にバシャッとかかった。私たちは吃驚して立上がり天井を見た。あれは雨水だったのだろうか。
 黒澤さんは晩年になってからも、わたしに酒を奢ってもらったと、人に話し、その度に「天井から水が降ってきてさ、びっくりしたなあ」とつけ加えた。余程安普請の店だと思ったらしい。(この文章はこちらのホームページより引用→http://www.donzoko.co.jp/index.html

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色川武大・阿佐田哲也エッセイズ〈2〉芸能

2007年12月23日 | 本・雑誌・漫画
色川武大・阿佐田哲也エッセイズ〈2〉芸能 (ちくま文庫)
色川 武大,阿佐田 哲也,大庭 萱朗
筑摩書房

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内容(「BOOK」データベースより)
何ごとにつけても耽溺しなけりゃ意味がない。芸能、映画、ジャズに対する色川武大の幼いころからの傾倒ぶりは、まさに壮絶のひとこと。林家三平、古川ロッパなど、芸人たちへの視線は、「規範」を重んじる姿勢と、社会をはみ出してしまう生き方への共感から、ときに厳しく、ときに暖かい。ノスタルジーのみならず、「芸」の本質を射抜いた名エッセイ群をここに集結。

色川武大・阿佐田哲也エッセイズ〈3〉交遊 (ちくま文庫)
色川 武大,大庭 萱朗
筑摩書房

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内容(「BOOK」データベースより)
突然睡魔に襲われるという奇病ナルコレプシーに悩まされつつも、雀友と卓を囲めば、チョンボ、ハコテンもまた楽し。「俺のまわりは天才だらけ」と記す著者が、落語家、ミュージシャン、作家…幅広い交友関係を綴ったエッセイズ。会った人が必ず魅了されるという優しさと、鋭い観察眼。絶筆「好食つれづれ日記」を含む第3巻にて、本コレクション、いよいよ完結。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
色川 武大
1929年東京生まれ。東京市立三中中退。戦後の数年間、賭場を渡り歩く。雑誌編集を経て、’61年「黒い布」で中央公論新人賞を受賞。その後、阿佐田哲也の筆名で『麻雀放浪記』『牌の魔術師』『雀鬼五十番勝負』など多くの麻雀小説を執筆。’77年『怪しい来客簿』で泉鏡花賞、’78年『離婚』で直木賞、’81年「百」で川端康成賞をそれぞれ受賞する。’88年には『狂人日記』で読売文学賞を受賞した。1989年4月没

大庭 萱朗
1962年北海道生まれ。出版社勤務を経て、文芸評論家・フリー編集者として活躍中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



『麻雀放浪記』第一巻を大学時代に初めて読んで腰を抜かしそうになった。色川武大名義の文章も宝石の様な「名文」だ。
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12歳の文学

2007年12月23日 | 本・雑誌・漫画
12歳の文学

小学館

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出版社/著者からの内容紹介
小学生限定の文学賞、衝撃の受賞作を収録
小学生限定・小説新人賞「第一回12歳の文学賞」衝撃の受賞作を収録!あさのあつこ短編他、上戸彩、石田衣良、重松清、西原理恵子、片山恭一、茂木健一郎、コンドウアキ、江口寿史など豪華ゲスト多数!


僕は小学校一年生の時から「小説」を書いていた。大人になっても、知り合いの依頼で「小説」を書いてみたが、日の目を見なかった。「小説家になるという僕の夢」は実際、実行してみるととても難しく、小説を書いて生活の糧を得る才能は僕には無いという事を嫌という程、思い知らされた。
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最近「最後まで責任を持って、行動する人」が減っている。

2007年12月23日 | エッセイ・日記・意見
連続ドラマの仕事をやっていた時、ある放送回に「デヴィー夫人」をキャスティングした。マネージャーに「準備稿」を送り、OKを貰っていたので、安心していたのだが、「デヴィー夫人」本人は海外に行っていて、帰国したのは撮影の前日。日本で決定稿を読み、僕に「直電」してきたのである。偶然、僕が会社に居なかったので、会社のデスクから、電話があり、「デヴィー夫人」の携帯電話の番号を伝えられ、連絡する様、言われた。僕はまずマネージャーに電話、事情を説明、抗議をした。

しばらくして、マネージャーから連絡があり、本人が泊まっているホテルに僕とチーフ・プロデューサーが出向いて口説いて欲しいという。あり得ない話だが、明日撮影という事で、仕方なくホテルにマネージャーの車に乗り、向かう。

チーフ・プロデューサーが僕に交渉を託すというので、ホテルのラウンジで、「デヴィー夫人」と相対した。どう切り出そうかと思っていると、
「まず、ワインでも飲みましょ!」
と言われ、ワインを飲みながらの話になる。彼女が言うには「準備稿」から「決定稿」になり、「彼女の役」が立っていない(目立っていない)という。交渉は決裂。チーフ・プロデューサーから監督とスタッフに「デヴィー夫人」の役はキャスティングが代わり、後日撮影と連絡して貰う。

その直後、ホテルの部屋にいる「デヴィー夫人」から連絡。部屋に来て欲しいという。どうも、部屋で知り合いのプロデューサーに連絡して相談していたらしい。恐る恐るエレベーターに乗り、彼女の部屋をノックすると、
「出演する」と言う。部屋の中で打ち合わせがしたいので、僕に部屋に入れと。こんなに気持ちの不安定な状態で、出演して貰っても、撮影現場でトラぶる可能性は高いと判断した僕は
「出演に関しては、キャンセルしましょう。こんな状態で明日の撮影には臨めない」と通達。でも、彼女が僕の手を引っ張って、部屋に引き擦り込もうとするので、なんとかその手を振り解き、エレベーターに飛び乗る。

当時の事を思い出して書いたのだが、「デヴィー夫人」は全く悪く無い。彼女の意見にも納得のいく部分があったからだ。悪いのはマネージャー。マネージメントが全くできていない。事ほど左様に、最近「マネージャー」とちゃんと呼べる人が少なくなった。
何かと言えば、「本人の意向を確認します」と言う。それではマネージャーがタレントのプロデュースができていない。
「マネージメントするという事」はマネージャーがOKを出したら、何があってもタレントにその通りさせるという事だ。本人の意向をいちいち訊いているなら、マネージャーは要らない。直接、こちらと本人が話せば済む話。マネージャーはそれだけの責任と権限を持っていなければならない。ビジネスなのだから。

「マネージャー」という職種に限らず、最近「最後まで責任を持って、行動する人」が減っている様な気がするのは僕だけだろうか・・・





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東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。―「きぼうのいえ」の無謀な試み

2007年12月23日 | 本・雑誌・漫画
東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。―「きぼうのいえ」の無謀な試み
山本 雅基
実業之日本社

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内容(「BOOK」データベースより)
余命わずかな身寄りのない人々、元日雇い労働者らと暮らす、涙と笑いの日々。

内容(「MARC」データベースより)
ここはおじいちゃんの少年院!? 余命わずかな身寄りのない人々、元日雇い労働者らと暮らす、涙と笑いの日々。東京・山谷のドヤ街の一角に、在宅型のホスピスケア施設「きぼうのいえ」を開設した著者が、施設の日々を語る。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
山本 雅基
1963年生まれ。東京・台東区の「山谷」地区にあるホスピス、「きぼうのいえ」施設長。1985年、日航機墜落事故のニュースに接したことをきっかけに聖職者を志し、1995年上智大学神学部を卒業。大学卒業後、「NPO法人ファミリーハウス」の事務局長を務める。2001年、「ホームレスのためにホスピスを建てたい」と考え、看護師の妻とともに活動を開始。妻の貯金を元手に銀行から資金を借り、各地のキリスト教教会や、多数のボランティアの後援を得て、2002年4月、緊急一時保護施設「なかよしハウス」(全11室11床)を開設、2002年10月、在宅ホスピスケア対応型集合住宅「きぼうのいえ」(全21室21床)を開設(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

死にゆく者からの言葉 (文春文庫)
鈴木 秀子
文藝春秋

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出版社/著者からの内容紹介
死にゆく者は自分の人生の意味を見つけ、未解決のものを解決し、不和を和解に、より豊かな愛の結びつきにすることを望んでいる


内容(「BOOK」データベースより)
死にゆく者たちは、死の迫っていることを知っている。残された日日に、自分の人生を振り返り、自分の人生の意味を見つけ、あるいは未解決のものを解決し、不和を和解に、より豊かな愛の結びつきにすることを望んでいる。そして死者を愛する人たちの心の中では、死んでいった人たちが、今までよりも強い命の絆で生き始める。

内容(「MARC」データベースより)
死が近づいている病人が元気を取り戻し、あたかも回復したかと思われる時があります。その間、病人は言い残したり、したいと思うことができることがあるのです…。著者が今までに接してきたそれらの出来事をまとめ、死と生を考える。


人が死にゆく時、その人の「生」が見えてくる様な気がする。その「死」を家族で見る機会が少なくなった今、散弾銃乱射事件とかが起きるのではなかろうか。
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直伝DVD版 アダム徳永のスローセックス ―はじめてのアダムタッチ―

2007年12月23日 | 本・雑誌・漫画
直伝DVD版 アダム徳永のスローセックス ―はじめてのアダムタッチ―
アダム 徳永
講談社

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内容紹介
話題のアダムタッチ 30分でイカせます!
アダム徳永が、その究極の性技をついに全公開!
予約3ヵ月待ちのレクチャーを一冊のDVDブックに完全収録。
これであなたもスローセックス免許皆伝です!


快楽主義者の方、どうぞ。「快楽」と「感動」はどう違うのか・・・そんな考え方をする僕です。
コメント (1)
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岸谷家の子育て1826日(の一部)

2007年12月23日 | 教育・学校
岸谷家の子育て1826日(の一部)
岸谷 香
DAI‐X出版

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内容(「BOOK」データベースより)
プリプリの解散、結婚、妊娠、出産、育児。人生最大の出来事が次々と訪れる中で、「奥居香」から「岸谷香」になった、あの人はいったい何をしていたのか?岸谷家に長男が誕生してからの5年間、子育てに追われる「たまんない」日々をどうしようもなく正直に、リアルに綴った怒涛のダイアリー&書き下ろしエッセイ。

内容(「MARC」データベースより)
プリプリの解散、結婚、妊娠、出産、育児。人生最大の出来事が次々と訪れる中で、あの人はいったい何をしていたのか? 長男が誕生してからの5年間、子育てに追われる「たまんない」日々を、正直に、リアルに綴る。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
岸谷 香
1967年、東京生まれ。86年、女性5人組のバンド、プリンセス・プリンセスのヴォーカリストとしてデビュー。89年に「Diamonds(ダイアモンド)」が年間NO.1シングルになったことをはじめ、数々のミリオンヒット・シングル、アルバムをリリースし、そのほとんどの作品(作曲)を手がける。89年から毎年お正月に開催された武道館ライヴを中心に、観客動員数190万人を記録するなど、96年5月の解散まで安定した人気を誇る。同年6月、俳優・岸谷五朗氏と結婚、休養期間を経て97年4月、ソロ活動を開始。2001年、第一子を授かったことをきっかけに、アーティスト名を奥居香から、本名の岸谷香に改名(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

プリ2~PRINCESS PRINCESS BEST OF BEST~
PRINCESS PRINCESS
SME Records

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曲目リスト
1. M
2. ダイアモンド
3. 世界でいちばん熱い夏
4. ジュリアン
5. パパ
6. 19 Growing Up-ode to my buddy-
7. GET CRAZY
8. GO AWAY BOY
9. KISS
10. OH YEAH!
11. SEVEN YEARS AFTER
12. ジャングル プリンセス
13. 友達のまま
14. パレードしようよ


商品の説明

内容(「CDジャーナル」データベースより)
いまだに人気の高い曲、特に「着うた」ランキングで上位にランクする14曲を収録したベスト・アルバム。いまだ色あせないプリンセス・プリンセスの珠玉の名曲の数々が堪能できる。


プリプリでは「M」がいちばん好きな曲。あの感性を持った奥居香がどんな子育てをしているのか、とても興味がある。
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次郎長三国志―マキノ雅弘の世界

2007年12月23日 | 映画・DVD・ビデオ
次郎長三国志―マキノ雅弘の世界
山田 宏一
ワイズ出版

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内容(「MARC」データベースより)
「リメークの名手」マキノ雅弘の決定本。「次郎長三国志」を中心にマキノ雅弘の世界に迫る。インタビュー、フィルモグラフィー等を収録。スチールも満載の監督研究本。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
山田 宏一
映画評論家。1938年ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語科卒。1964~67年パリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」誌同人(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
マキノ雅弘・高倉健 BOX

東映ビデオ

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
日本映画創世期から黄金期にかけて、数々の傑作を世に送り出してきた奇才・マキノ雅弘監督の作品を収録したBOX第1弾。『侠骨一代』『侠客列伝』『ごろつき』『日本やくざ伝 総長への道』『関東緋桜一家』の、マキノ節が堪能できる全5作品を収録する。


内容(「Oricon」データベースより)
数々の名作を世に送り出した名匠マキノ雅弘監督作品をひとつしにしたDVD-BOX。「侠骨一代」「侠客列伝」「ごろつき」「日本やくざ伝 総長への道」「関東緋桜一家」の5作品に特典ディスクが付いた6枚組DVD。


マキノ 雅弘(まきの まさひろ、1908年2月29日 - 1993年10月29日)は日本を代表する映画監督。京都市出身。本名は牧野正唯(まきの まさちか)。父は「日本映画の父」牧野省三(「マキノ省三」とも書く)。

来歴・人物
父の牧野省三(「マキノ省三」とも書く)が所長を務めていた日活で子役や女形として働いていたが、父に反発して京都第一商業に進学。しばらくは一商のラグビー選手として活躍した。17歳のとき、赤痢にかかり、病床に伏したことを機に高校を退学、父が社長を務めるマキノ東亜で今度は助監督として駆り出されるようになる。18歳のとき、富沢進郎の名前を借りて、「青い眼の人形」で監督デビューを果たす。以後、山上伊太郎の脚本による「浪人街 第一話・美しき獲物」は1928年のキネマ旬報ベストテン第1位に輝き、「崇禅寺馬場」が4位、「蹴合鶏」が7位を占めた。翌1929年には「首の座」で2年連続第1位、「浪人街 第三話・憑かれた人々」も3位に入選した。ところが、彼の監督した作品は評論家や左翼青年には高い評価を得たものの興行的には惨敗で、父は37万円の負債を負ったまま死去する。

彼(この頃は名義は正博)はマキノグループの借金を返済すべく、自らの経営するマキノプロダクションを引き払い、ひとまずは日活に入社。その傍ら、トーキー映画製作を一手に引き受けるためマキノトーキーを設立した。この間、日活に所属していたスター、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、月形龍之介らの主演作を休む暇もなくスピーディに撮りつづけ、「鴛鴦道中」を28時間で撮り上げるという超人的な離れ業もやってのけた。借金は完済し、正博の手元に残ったのは、渡辺邦男と並ぶほどの早撮りの名人の称号だった。

戦後も黒澤明脚本による「殺陣師段平」、村上元三原作の「次郎長三国志」(東宝で9部作、東映で4部作)、東映では仁侠映画の走りとなった「日本侠客伝」シリーズなど傑作の数々を生み出した。生涯に残した監督作は計261本。正唯、正博、雅弘、雅裕、雅広と5回改名した。1993年10月29日死去。享年86(85歳没)。


マキノ一族
牧野省三(父)/映画監督・プロデューサー
マキノ智子(マキノ輝子)(姉・三女)/女優
マキノ光雄(マキノ満男)(弟・次男)/映画プロデューサー
松田定次(異母兄)/映画監督
轟夕起子(元妻)/女優
星玲子(義妹・満男の妻)/女優
マキノ正幸(息子)/沖縄アクターズスクール校長
マキノ佐代子(娘)/女優
沢村國太郎(義兄・智子の夫)/俳優
沢村貞子(義姉・國太郎の妹)/女優
加東大介(義弟・國太郎の弟)/俳優
長門裕之(沢村アキオ)(甥・國太郎の長男)/俳優
津川雅彦(甥・國太郎の次男)/俳優・・・最近ではマキノ雅彦名義で映画監督としても活動している。
南田洋子(親戚・長門裕之の妻)/女優
朝丘雪路(親戚・津川雅彦の妻)/女優
真由子(親戚・津川雅彦・朝丘雪路の娘)/女優
牧野アンナ(孫・正幸の娘)/元歌手・LOVE JUNXチーフインストラクター

主な作品
青い眼の人形(1926年)
蹴合鶏 (1928年)
浪人街シリーズ(1928年~1929年)
 「浪人街 第一話・美しき獲物」
 「浪人街 第二話・楽屋風呂」
 「浪人街 第三話・憑かれた人々」

崇禅寺馬場(1928年)
血煙高田の馬場(1937年)
鴛鴦歌合戦(1939年)
昨日消えた男(1941年)
長谷川・ロッパの 家光と彦左(1941年)
男の花道(1941年)
婦系図(1942年)
阿片戦争(1943年)
ハナ子さん(1943年)
幽霊暁に死す(1948年)
殺陣師段平(1950年)
すっ飛び駕(1952年)
次郎長三国志シリーズ(1952年 - 1954年)
 「次郎長三国志 第一部・次郎長売出す」
 「次郎長三国志 第二部・次郎長初旅」
 「次郎長三国志 第三部・次郎長と石松」
 「次郎長三国志 第四部・勢揃い清水港」
 「次郎長三国志 第五部・殴込み甲州路」
 「次郎長三国志 第六部・旅がらす次郎長一家」
 「次郎長三国志 第七部・初祝い清水港」
 「次郎長三国志 第八部・海道一の暴れん坊」
 「次郎長三国志 第九部・荒神山前編」

丹下左膳シリーズ(水島道太郎版)(1956年)
 「丹下左膳 乾雲の巻」
 「丹下左膳 坤龍の巻」
 「丹下左膳 完結篇」

雪之丞変化(1959年)
九ちゃん刀を抜いて(1963年)
日本侠客伝シリーズ(1964年-1969年)
 「日本侠客伝」
 「日本侠客伝 浪花篇」
 「日本侠客伝 関東篇」
 「日本侠客伝 血斗神田祭り」
 「日本侠客伝 雷門の決斗」
 「日本侠客伝 白刃の盃」
 「日本侠客伝 斬りこみ」
 「日本侠客伝 絶縁状」
 「日本侠客伝 花と龍」

侠骨一代(1967年)
昭和残侠伝 死んで貰います(1970年)
関東緋桜一家(1972年)

著書
映画渡世・天の巻、地の巻(1977年)


マキノ雅弘の映画には「風格」がある。「様式美」の世界が成立している。監督自ら演技をして役者に演出を付けたと聞いた事がある。早撮りでも有名。職人監督の元祖と言っていいだろう。
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関西のテレビマンが面白い!!!!!

2007年12月23日 | テレビ
映像人生―TV局報道マンの57年
天野 正司
東方出版

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内容(「MARC」データベースより)
いつも穏やかで物事に動じない、頼れる「番組プロデューサー」の人生。少年時代から学生時代、朝日放送への入社、報道カメラマン時代、そして現場の第一線から管理職へと活動の場を移すまでを語る。

スープのさめない距離―辞書に載らない言い回し56
道浦 俊彦
小学館

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読売テレビのアナウンサーが言葉の面白さを伝える本を出版した。
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