旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

甲州道中紀行9 甲府柳町宿~韮崎宿

2016-11-12 | 甲州道中紀行

 江戸防衛の要害とされた甲府城、なかなか堅固な天守台の石垣だ。
城郭が鶴が舞う姿に似ているところから舞鶴城と呼ばれていた。
かなり立派な天守閣が想像されるが、設計図や絵図が一切残っていないそうだ。 

     

11:20 「甲府柳町宿」
 舞鶴城公園から南に1km、相生歩道橋交差点が宿場の中心地だが、遺構は何もない。
秋晴れの中、R52を韮崎に向かう。今日は甲州道中を歩きはじめてちょうど1年目になる。

市街地を抜けて荒川、貢川を連続して渡る。正面に3,193mの北岳が雪を被って聳える。 

     

11:40 「上石田のサカイチ」
 推定樹齢300年のサカイチが2本並んで生えている。
地元では夫婦サカイチと親しんでいるが、実は両木とも雄木だ。
旅人もこの木陰で休んだろうか。 

12:00 「山梨県立美術館」
 ミレーの “落ち穂拾い” “種をまく人” の常設展示されている山梨県立美術館が賑わう。 

  

中央自動車道がちょうど市境となっていて甲斐市に入る。
高架脇には、文化10年(1813年)建立の富竹新田の道祖神。
並んで建つのは日蓮上人の五百遠忌(天明元年)、五百五十遠忌(天保2年)の碑だ。

明治天皇小休所辺り、称念寺の門前には、道祖神やら馬頭観音やら石仏群が並んでいる。 

中央本線の踏切は「信州往還第一踏切」とある。
後に整備された甲府柳町宿から下諏訪宿の間は、信州往還と通称するのだろうか。 

 

12:45 「竜王新町諏訪神社」
 踏切を渡ると急激な上り勾配となる。盆地の縁を上って行く実感だ。
甲府盆地を見下ろせる高台に諏訪神社がある。ちゃんと御柱が立っている。 

高台を行く下今井の町並みには立場があったそうだ。
2kmほど続くこの町並みには、所々なまこ壁の土蔵を見ることができる。 

やがてレンガ造りの架道橋で中央本線を潜る。明治36年(1903年)、敷設当時のものだ。 

     

13:20~50 「泣石」 
 天正10年(1582年)、信州高遠城が落城する。
この敗戦を機に、武田勝頼は韮崎城に火を放ち、岩殿城に向けて落ち延びていく。
燃える城をここで振り返り涙を流したという逸話がある。それで「泣石」と云うわけだ
旅人にとっては目印になる巨石だったことだろう。

 

泣石近くの「たわらや」で街道めし。部活帰りの高校生で席が埋まっている。
ビールのつまみにもなる "焼肉小丼" と、昔ながらの "田舎者醤油ラーメン" を注文する。
ボリュームも味も上々、なるほど高校生が集う訳だ。腹一杯でこの後歩けるのか? 

進行方向左手に在る旧庄屋宅が豪壮で立派だ。 

     

双葉西小学校の先に在る船形神社の鳥居は応永4年(1397年)のもの。
鳥居を潜れるのは身長150cm位までだろうか、当時の日本人の体格が窺い知れる。

 

田畑地籍に在る2基の二十三夜塔は、天保7年(1836年)のものだ。

 

塩川を渡ると韮崎市に入る。前方に甲斐駒ケ岳が、下流に目をやると裏富士が望める。

 

14:45 「韮崎宿」
 韮崎宿は本陣1、問屋1、旅籠17軒の規模と小さい。
そもそも甲州道中を往く参勤交代は、高島藩、高遠藩、飯田藩の信州の小藩に限られる。
また日程上、韮崎宿に宿泊することは少なかった。街道の両側に「馬つなぎ石」が残る。 

 

本陣跡の先、本町第二交差点は、信州道(佐久往還)との追分になっている。
元禄8年(1695年)建立の道標には「右信州さくの郡みち、左信州すわ上みち」と刻まれる。
街道裏には弘法大師が築いた岩屋観音堂、この先の旅の安全を祈願した。
甲府柳町宿から韮崎宿までは、13.0km、所要3時間25分の行程だった。


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