「過去に悲惨な歴史があったのは恥ずかしいことだが、そこから逃げ回ることはもっと恥ずかしいこと」

2024-09-02 18:01:31 | 日朝韓友好親善のため
 

「悲惨な歴史から逃げ回るのは恥ずかしいこと」…

関東大震災101年追悼式典

登録:2024-09-02 06:22 修正:2024-09-02 08:02

 

小池知事、今年も横網町公園追悼式典への追悼文の送付を拒否 
市民団体「ほうせんか」の理事「日本政府、加害認めるつもりがないようだ」 
韓国政府も真相究明を積極的ではない
 
 
東京都墨田区の都立横網町公園で開かれた関東大震災101年朝鮮人犠牲者追悼式典で韓日市民が犠牲者を追悼している=ホン・ソクチェ特派員//ハンギョレ新聞社

 「過去に悲惨な歴史があったのは恥ずかしいことだが、そこから逃げ回ることはもっと恥ずかしいこと」

 関東大震災で朝鮮人虐殺が行われてから101年を迎える1日、東京都墨田区の都立横網町公園。「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会」(実行委)の宮川泰彦委員長は同日開かれた朝鮮人犠牲者追悼式で、「過ちを繰り返さないために、子や孫、周りの人に(正しい歴史を)語り継ぐことが我々の責務ではないか」と訴えた。

 
 
東京都墨田区の都立横網町公園で開かれた関東大震災101年朝鮮人犠牲者追悼式典で韓日市民が犠牲者を追悼している=ホン・ソクチェ特派員//ハンギョレ新聞社

 関東大震災における朝鮮人虐殺事件は、1923年9月1日に起きたマグニチュード7・9以上と推定される関東大震災の際、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といったデマが広がり、自警団が朝鮮人を虐殺し、軍と警察も加担した事件だ。

 当時、日本全域で死亡した朝鮮人は数千人にのぼるものと推定されるが、日本政府がきちんとした調査をしなかったため、正確な犠牲者数は明らかになっていない。台風10号の影響で時々雨が降る中で開かれた同日の行事では、韓国と日本の市民数百人が会場を埋め尽くした。

 東京都慰霊協会は毎年、横網町公園で東京大空襲(3月10日)と関東大震災(9月1日)の時に犠牲になった日本人のために追悼行事(大法要)を開くが、1974年から日本の市民団体が東京都議会の許可を得て、同公園の片隅で関東大虐殺における朝鮮人犠牲者のための追悼式典も行っている。

 悲劇は依然として終わっていない。最近3期目の当選に成功した小池百合子東京都知事は、今年も横網町公園追悼式に対する追悼文の送付を拒否した。小池知事は関東大震災の朝鮮人虐殺に関して「様々な研究が行われていると承知している。都慰霊協会の大法要の中で、大震災の極度の混乱の中の事情で犠牲になられたすべての方々に哀悼の意を表す」として、8年連続で追悼文を送らなかった。

 朝鮮人虐殺は自然災害で亡くなった人々とは性格が異なる。このため、石原慎太郎のような極右とされる政治家を含め、歴代の東京都知事は「日朝協会」など日本の市民団体が開いているこの追悼式典に1974年から追悼文を送ってきたが、小池知事は拒否し続けている。

 日本政府もまた「政府として調査した限り、事実関係を把握できる記録が見当たらない」として、事実関係さえまともに認めていない。4月には立憲民主党議員が、関東大震災当時に朝鮮人殺害に加担した日本人4人が懲役1年6月を宣告された判決文が発見されたとし、文書を根拠に具体的に質疑したが、林芳正官房長官(当時)は「政府としては一般論を前提に裁判所の事実認定が正しいかどうか評価する立場にはない」として、答弁を避けた。

 日本政府の真相調査と謝罪が先延ばしにされる間に、日本社会の一角では嫌悪と差別が広がっている。この日も横網町公園では、日本の右翼団体のメンバーたちが朝鮮人犠牲者追悼碑に近づき、「(追悼碑に書かれた)朝鮮人6千人が死んだという嘘が認められてはならない」と騒ぎを起こした。追悼式典に出席した市民は彼らに「嘘をつくのはあなたたちだ」、「ヘイトスピーチをするのが恥ずかしくないのか」として彼らに反論する場面もあった。

 毎年9月には、横網町公園だけでなく、東京や横浜を含む関東地方のあちこちで、朝鮮人虐殺追悼祭が開かれる。墨田区荒川の近くで行われる追悼行事もその一つだ。荒川堤防は関東大震災当時、地震を避けてきた朝鮮人が虐殺された代表的な場所の一つで、残酷な「血の歴史」が流れる場所だ。

 当時、東京都墨田区付近で働いていた朝鮮人労働者たちは、地震の余波で起きた大型火災から逃れるために橋を渡ろうとしたが、反対側の橋の入口で地域在郷軍人会や青年団などで構成された自警団が朝鮮人などを見つけ、無残にも虐殺した。

 今は撤去されたが、荒川を結んでいた「旧四ツ木橋」付近で多くの朝鮮人が犠牲になった事実が後になって知られ、1982年に市民の有志で初めての追悼行事が開かれた。

 追悼行事を行っている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」と市民グループ「ほうせんか」の事務所が荒川の堤防の向こう側の住宅街にある。ほうせんかの事務室の横には、ホウセンカが植えられている小さな石碑がある。「悼」と刻まれた追悼碑の側面には「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」、裏面には「1923年関東大震災時の日本の軍隊、警察、デマを信じた民衆によって多くの韓国・朝鮮人が殺害された。 東京の庶民住居地でも、植民地だった故郷を離れ、日本に来ていた人々が名も知れず貴重な命を奪われた」という碑文が刻まれている。

 「ほうせんか」の慎民子(シン・ミンジャ)理事は30日、「惨事が起きて100年が過ぎたが、日本政府などは加害者として痛ましい過去を認めるつもりがないようだ」とし、「未来世代のために市民社会でも誤った過去を反省し、政府に謝罪を求めることを止めてはならない」と語った。

 日本政府は回避しているが、当時の惨劇を伝える記録と証言は溢れている。 虐殺を生き延びた生存者のチョ・インスンさんは「消防隊員4人に綱で縛られ『綱を切ったら殺してやる』と言われた。荒川駅(現在八尋駅)側の堤防で騒ぎが起きているようだったが、まさかそれが朝鮮人を殺すことだとは思わなかった」とし、「遺体が橋いっぱいになり、堤防にも薪のように積まれていた」と当時を振り返った。

 日本人生存者だったアサオカシゲゾウさんも、墨田区の川辺で朝鮮人を10人ずつ縛り、機関銃で撃って殺したと証言した記録が残っている。千葉、栃木、群馬などでも、何の過ちもない朝鮮人たちが銃、日本刀、竹槍などで殺害されたことが各種の文書と証言で確認されている。

 
 
東京都墨田区荒川付近には、101年前の関東大震災当時、罪のない朝鮮人が無残に虐殺された悲しい歴史が残っている=ホン・ソクチェ記者//ハンギョレ新聞社

 韓国政府も朝鮮人虐殺の真相究明に積極的な態度を示さないまま、101年が過ぎている。歴史問題には目をつぶり韓日関係の改善に「全賭け」している尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は「虐殺から100年」という重要な契機があったにもかかわらず、真相究明と謝罪についていかなる要求もせず再び1年が流れた。国会では、2014年に関東大震災の真相究明などに関する法案が提出されたが、その後、提出と廃棄が繰り返されている。

 
 
関東大震災の朝鮮人虐殺問題を日本社会に知らせてきた市民団体「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」と「ほうせんか」の事務所の隣には犠牲になった朝鮮人を追悼する小さな碑が建てられている=ホン・ソクチェ記者//ハンギョレ新聞社

 第22代国会では7月に野党「共に民主党」のユン・ゴニョン議員が代表発議した「関東大虐殺事件真相究明および被害者の名誉回復に関する特別法案」が、行政安全委員会小委で審査を待っている。

 法案では「1923年に日本の関東地方で起きた大震災当時、デマと戒厳令の宣布で日本の軍人、官憲および民間人によって6千人余りが無念にも濡れ衣を着せられ大虐殺されたが、日本政府は事件に対する真相調査や被害者に対する賠償、遺族に対する補償などを明らかにしていない」とし、「2013年に被害者名簿が発見された後も、遺族に対する調査や罪もなく殺された朝鮮人の名誉回復のための措置がない」と指摘されている。

 法案が国会で可決されれば、関東大虐殺真相究明および被害者名誉回復委員会を通じて真相調査と責任究明、被害遺族審査と名誉回復、追悼空間作りなどが行われるとされる。

東京/ホン・ソクチェ特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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「貴様! 鮮人だろう?」  「いいえ、日本人です、日本人です」  日本の軍警と自警団が「井戸に毒を入れる」朝鮮人と善良な内地人(日本人)を区別するために使った方法は「発音」だった。

2024-09-02 10:54:19 | 歴史に照らして整合性を!
 

十五円五十銭【コラム】

登録:2024-09-01 22:50 修正:2024-09-02 09:46
 
//ハンギョレ新聞社

 「こらッ! 待て!」

 関東大震災が東京を襲った翌日の1923年9月2日、早稲田大学英文科の学生だった壺井繁治(1897~1975)は、友人の安否を確認するため、大学近くの下宿街、新宿の牛込弁天町にあるその友人の家を訪ねた。地震に乗じて朝鮮人たちが暴れているといううわさがその街にも広がっていた。壺井は下宿を出て、大混乱に陥っている東京の街を歩いた。地震の残酷さと、「銃剣」で武装した兵士たちが醸し出す殺気が満ちていた。橋の前に設置された戒厳屯所で、ある兵士に一行は呼び止められた。

 「貴様! 鮮人だろう?」

 「いいえ、日本人です、日本人です」

 日本の軍警と自警団が「井戸に毒を入れる」朝鮮人と善良な内地人(日本人)を区別するために使った方法は「発音」だった。避難する壺井が乗った汽車が小さな駅に止まると、銃を持った兵士が乗り込んできて、一人の男をにらみながら言った。

 「十五円五十銭いってみろ!」

 この日の殺伐とした光景について、壺井は25年後の1948年に発表した詩「十五円五十銭」で、その男が「朝鮮人だったら/『チュウコエンコチッセン』と発音したならば/彼はその場からすぐ引きたてられていったであろう/国を奪われ/言葉を奪われ/最後に生命まで奪われた朝鮮の犠牲者よ/僕はその数をかぞえることはできぬ」と述べて悲しんだ。

 このところ政界で続いている「日帝時代の国籍は日本」という論議を聞いているとイライラする。日本は1910年8月に朝鮮を強制併合した際、朝鮮人に日本国籍を与えると言ったが、薄っぺらい欺まんに過ぎなかった。一部の親日派を除くほとんどの朝鮮人にとって、日本国籍は侵略と圧政の象徴に過ぎなかった。朝鮮には「内地」とは異なり日本の憲法は適用されず、使われる法律も異なっていた。日本は「内地戸籍」と「朝鮮戸籍」を徹底して区別し、両戸籍の移動を禁じた。日本人にとって朝鮮人は依然として外国人であったし、地震のような危機に直面すれば除去すべき差別、排除、偏見の対象に過ぎなかった。

 大韓民国の憲法精神は、日帝の植民地支配はそもそも不法、無効だというものだ。それを否定する人物が独立記念館長となり、また長官となっている。日帝時代の朝鮮人の国籍が「日本」だったという「ファクト」に忠実に従ったあなたたちは幸せなのか。物議を醸したキム・ヒョンソク独立記念館長とキム・ムンス雇用労働部長官は「十五円五十銭」が正しく発音できるのか。

キル・ユンヒョン論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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中国の大国化戦略によって、帝国的歴史認識がよりいっそう深刻化することを例示している」(オ・ビョンス編『韓中歴史教科書対話』東北アジア歴史財団)

2024-09-02 07:18:42 | 中国を知ろう!
 

習近平主席はなぜ「韓国は中国の一部だった」と言ったのだろうか

登録:2024-08-29 06:12 修正:2024-08-29 10:56

 

[パク・ミンヒのチャイナパズル]_中国夢によって「作られる」韓中関係の歴史
 
 
2017年4月、米国のドナルド・トランプ大統領(当時、左)と中国の習近平国家主席が米国フロリダ州マー・ア・ラゴ・リゾートで首脳会談を始める前に話を交わしている=フロリダ/新華社通信・聯合ニュース

 「中国の習近平国家主席は中国と韓国の歴史について話した。北朝鮮でなく韓国だ。数千年の歴史と多くの戦争を語った。(…)韓国は歴史的には中国の一部だったと言った」

 米国のドナルド・トランプ前大統領が2017年4月、米国フロリダ州マー・ア・ラゴ・リゾートの別荘で、中国の習近平国家主席と首脳会談を行った後のインタビューで明らかにした内容だ。習近平主席は本当にそのような話をしたのか、その時はあまり信じられなかった。トランプ前大統領の「たわごと」だと感じた。

 しかし、そのころから中国の歴史教科書も変わり始めた。中国教育部が2018年に発表した新教育過程に基づき歴史教育の内容を規定した「中外歴史綱要」の上巻(中国史)が2019年に、下巻(外国史)が2020年に発行された。これによると、中国と朝鮮半島の長い歴史的関係は「宗藩体制」で概念化された。政治、文化制度的に優れた「宗主権」を持っている帝国中国と、その文化をそのまま借用して服属した非自主的「属国」の朝鮮半島の王朝の関係だと規定したのだ。

 また、中国の歴史を様々な民族を統一して帝国を形成してきた歴史と叙述し、自国と周辺国との歴史関係を「大国と小国」の関係に置き換えることによって、東アジア地域の秩序全般に対する中国の「大局的介入」を正当化する論理が強調された。「中国の歴史の深化学習教材は、韓国の政治制度から日常文化に至るまで、中国の制度と文化をコピーしていないものは存在しないかのように叙述し、朝鮮戦争への参戦は、地域の平和と秩序の責任を負わなければならない大国としての義務感から始まったものだと記している。韓服やキムチの元祖論争は、このような教科書の叙述の延長線上にある枝葉的な現象にすぎない。中国の大国化戦略によって、帝国的歴史認識がよりいっそう深刻化することを例示している」(オ・ビョンス編『韓中歴史教科書対話』東北アジア歴史財団)

 まずは、歴史をさかのぼってみよう。学者らは、中国の明・清と朝鮮の間の朝貢冊封関係は、実際には「政治的儀礼」だったと分析する。「朝鮮などの周辺国は、中国に定期的に朝貢を捧げ、中国はその統治者を冊封する儀礼を通じて、周辺国は中国中心の地域秩序に順応するという意思を表明し、中国はその内政に干渉せず、有事の際に援助するという意志を確認したのだ。これを通じて朝鮮半島の王朝は、中国の王朝との長期間にわたる平和共存を実現し、内政と外交で事実上『完璧な自主権』を享受できた」(キム・ジョンハク『興宣大院君評伝』)。エール大学のオッド・アルネ・ウェスタッド教授も『帝国と義の民族』(Empire and Righteous Nation)で「朝鮮の事大は、明や他の外敵の朝鮮半島に対する干渉を防ぐ手法」だったと記した。朝鮮半島の王朝は、規模や人口などが圧倒的な中国と地理的にきわめて近かったため、「政治的儀礼」で中国の秩序に順応する姿勢を表現する代わりに、現実政治では自主権を守り、中国に吸収されない外交術を発揮したのだ。

 
 
2014年に英国の週刊誌「エコノミスト」が習近平主席を清の皇帝のように描写した表紙//ハンギョレ新聞社

 ところが、今の中国が朝鮮半島との伝統的関係を規定する際に強調する「属国」「宗主権」や「宗藩体制」などの用語は、20世紀以降の脈絡で歪曲され、意図的に「再創造」されたことを留意しなければならない。

 外交史を研究するソウル大学政治外交学部のキム・ジョンハク教授は「前近代には属国は朝貢国とほぼ同じ意味で使われたが、19世紀に『主権の有無』を重視する西洋国際法が新たに入ってくると、『主権を持つことができなかった国』または『上位の主権を持っている中国が干渉や介入できる国』に属国の意味が変質した」と分析する。また、「宗主権という用語は、前近代期には存在しなかった20世紀に作られた言葉だが、今ではそれで過去の歴史を再解釈する状況が広がっている」とした。「宗主権」という用語は、19世紀末にオスマン帝国とその版図から離れたエジプトやセルビアなどの関係を宗主国(suzerain state)‐封臣国(vassal state)で説明する欧州列強帝国主義の用語が、日本の翻訳を経て清で使われ始めたものであるにもかかわらず、今では中国が「意図的に」これを復活させているということだ。

 「韓国は歴史的に中国の一部だった」という認識を強化する中国の新たな歴史の作成の背景には、中国の新たな東アジア秩序の作成がある。東国大学のオ・ビョンス研究教授は、このような変化を、歴史教育の次元だけでなく、強大国として浮上した中国が周辺国との関係を帝国的認識に変えていこうとする国家戦略の変化や、「帝国の再構成の過程」だとみなすべきだと強調する。キム・ジョンハク教授も「富強化した中国の東アジア戦略やこの地域で新たに覇権を独占しようとする欲望が、過去の歴史の再解釈と絡み合っている」と指摘した。

 19世紀末にも、中国は朝鮮半島で新たな「秩序」の作成を試みたことがあった。ソウル大学歴史学部のキム・ヒョンジョン教授は、6月にソウル大学歴史研究所での講演で、清が19世紀の朝中関係で「天朝上国の便法外交」を試みたと分析した。中華帝国は自らを「天朝」や「天朝上国」と示して天下を統治すると考えていたが、1880年代に西欧と日本の帝国主義勢力と向き合うことになると、このような世界観はもはや維持されなくなった。このような状況のもとで清帝国は、伝統的な天朝体制と近代条約体制の隙間を利用した便法外交を朝鮮に一方的に強要し、崩れつつある天朝体制の虚像を守ることに執着する時代錯誤的な試みを行ったということだ。

 1882年に清は朝鮮と「中朝商民水陸貿易章程」を締結し、「朝鮮は清の属邦」という条項を加え、袁世凱は10年近くにわたり総督のように朝鮮朝廷の上に君臨し、清の国益を一方的に前面に出して強圧的に内政干渉を行った。何回も高宗の廃位を試み、朝鮮が米国に派遣した公使が現地の清の外交官の指示を受けるよう強要するなど、朝鮮を属国として縛り続けようとした。キム・ヒョンジョン教授は「清は西欧の国際法の体制を受け入れることもできなかったし、我流の帝国主義の方法論で天朝体制の虚像を守ることに執着し、最終的には朝鮮の独立も挫折して清も崩壊してしまった」と指摘した。

 
 
1882年の壬午軍乱から12年間朝鮮に総督として君臨し内政に干渉した袁世凱=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 注目すべき点は、19世紀末の清は、日本が琉球(沖縄)を併合したりベトナムをフランスが植民地化することに対しては積極的に対応しなかったが、朝鮮に対しては最後まで執着したことだ。「中国にとって朝鮮半島はいかなる意味なのか」という質問が浮び上がる。キム・ヒョンジョン教授は、中国が朝鮮を特殊な「属国」と感じて執着したのには、重要な地政学的理由があると指摘する。「明・清期に中国王朝が北京を首都にしてからは、朝鮮半島が中国の安全保障に直結することになった。朝鮮半島に敵対的な勢力が入れば、満州(現在の東北3省)が脅威にさらされ、これはただちに首都北京を脅かし、帝国の没落につながった」ということだ。北京を脅かしうる敵対的勢力が朝鮮半島北部を掌握することは、なんとしても防がなければならないという根が深い認識のため、中国共産党は内戦勝利直後の疲弊した状況下でも、1950年に朝鮮戦争に介入した。

 19世紀末に中国が「便法外交」を朝鮮に強要して失敗した後、韓中両国は日帝植民地支配や冷戦などに直面し、長きにわたり関係が切れた。両国が現代的な主権の概念に基づく歴史観と外交関係を正しく作っていく機会も長期間失われた。1992年8月24日に国交樹立してからのこの32年間は、それを作っていく過程でもあった。2000年代初頭から東北工程を通じて、渤海と高句麗を「中国の古代地方政権」と規定した中国が、いまでは前近代の朝鮮半島の歴史全般を「宗主国‐属国」の関係と解釈しようとするのは、韓中関係の現在と未来にも暗い影を落としている。

 中国が2016~17年に在韓米軍のTHAAD(高高度防衛ミサイル)配備決定に反発して韓国に報復措置を取ったとき、いやしくも当時の中国外交部のアジア局副局長は「小国が大国に対抗していいのか」と言った。中国はTHAAD配備について韓国に圧力をかけたが、米国のミサイル防御(MD)体制により明確に参加した日本に対しては報復措置を取らなかった。2022年8月に韓中外相会談で、中国の王毅外相は当時の韓国のパク・チン外相に「5つの当然すべきことを堅持せよ(堅持五個応当)」と要求したが、当初は「独立自主路線を堅持して外部の介入を排除せよ」だった。1880年代に日本が朝鮮に対して「清から独立せよ」と要求したことを思い出させた。

 「中華民族の偉大な復興」が、中国は明・清時代には朝鮮を思うがままにできる「宗主権」を持っていたが、西欧と日本の帝国主義のためにこれを喪失し、ふたたび富強になった中国がその「権利」を取り戻さなければならないという、時代錯誤的かつ危険な意味が込められているのではないかという、重い質問を投げかけざるをえない。

 
//ハンギョレ新聞社

パク・ミンヒ|統一外交チーム先任記者。大学と大学院で中国と中央アジアの歴史を学んだ。2007~2008年に中国人民大学で国際関係を勉強した後、2009年から2013年までハンギョレの北京特派員として中国各地を回り取材した。統一外交チーム長、国際部長、論説委員を経て、世界と外交に対して取材して書いている。『中国のジレンマ』『中国をインタビューする』(共著)を著し、『不可視中国』『ロングゲーム』などの著書を翻訳した。

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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