先日、日曜日の朝刊にあった、民俗学者・神崎宣武氏の「しつけ―古きも新しきもない」と題された記事に共感した。長文なので一部省略しながら原文どおり紹介したい。
『陰惨な事件が頻発している。とくに親子間での虐待事件や殺人事件が珍しいことではなくなった。―中略―。しかし、明るい話題もある。爽やかな物腰の青年を見て心洗われる機会もあるのだ。
たとえば、夏の甲子園の優勝投手・斎藤佑樹君。テレビに映るインタビューでの応答が実に凛然としているではないか。―中略―。しかも、彼は、そのたびごとに成長のあとが見られるのである。和泉監督も、春の大会以降の彼の心技ともの成長を証言されていた。
それにしても、進路発表の会見で退席の際にいすを直して会釈する、その姿には驚いた。そこには、媚(こび)やてらいが一切ないのである。それは、組織内の不祥事のたびに頭を下げる役職者たちの退席ぶりと比べると、なお一層際立って見えるのである。―中略―。斎藤君には、一流になる素地が備わっている。今後よほどの挫折がない限り、おそらく大成するであろう、と思わせてくれた。
さて、斎藤君のそうした成長を誰が支えたか、だ。もちろん、第一に本人の自覚と努力があっただろう。監督や先輩の指導もあっただろう。が、しかし、ご両親の教育が何よりもその素地を形成しているのだ、と思う。ご両親にお目にかからずにそう思うのは失礼なことではあるが、きっとそうに違いない。
そのご両親は、私のみるところでは、めったに表には出られない。それは自分たちと子どもの絆をしかと信じているからに相違ない。あるところで、あるところから、親が必要以上に出しゃばることはないのだ。後ろから、あるいは脇から見つめてやる。それも、子どもが自立する過程でのひとつの教育法ではあるまいか。
かつての日本では、そうした親の心得がたしかにあったのだ。子どもが先生から叱られても、親は学校に乗り込むことをしなかった。子ども同士のけんかに、親が口をはさむ事もしなかった。時代が違う、といえばそれまでだが、親子の距離にも「内外(うちそと)」があってよろしいのではあるまいか。
家から一歩外に出たら、子どもたち(主に中・高校生)も相応の自己責任を負わなくてはならないのである。その時のために、かつての親たちは、あらかじめの「しつけ」を施していたものである。―中略―。たとえば、小学生ぐらいの子どもを使いに出す。そのとき、親は、先方へのあいさつの仕方を教えていた。帽子のぬぎ方や靴のそろえ方を教えていた。それが、やがて外で生かされることにもなるのである。
かの斎藤佑樹君も、やはりご両親かどなたかからそうした教えを受けていたはず。こればっかりは、ひとりで身につけられるものではないのである。
古くさいこと、といわれるかもしれない。しかし、それでは、それに代わる新しく効果的な親の教育法があるのか。―中略―。親子の絆のあり方に、古きも新しきもないのである。ならば、親が子に施す教育にも、古きも新しきもないのである。その教育法のひとつが「しつけ」なのである。
おそらく、大半の人が斎藤佑樹君の凛然とした物腰を好ましいとみたはずである。私どもは、斎藤君のような青年を待望していたのである。そして、ひとり斎藤君だけでなく、しつけて成長を促すことができる青年が数多く潜在するだろう。そのところで、日本の将来にも夢を託すことができるように思えるのである。よいお手本を示してくれた、斎藤君よ、ありがとう、といっておきたい』
誰が見てもいいものはいい。「三つ子の魂百まで」というが、親は子どもが小さい時から、あいさつや、感謝のことばが言える最低限の「しつけ」教育をしっかり施すべきである。
『陰惨な事件が頻発している。とくに親子間での虐待事件や殺人事件が珍しいことではなくなった。―中略―。しかし、明るい話題もある。爽やかな物腰の青年を見て心洗われる機会もあるのだ。
たとえば、夏の甲子園の優勝投手・斎藤佑樹君。テレビに映るインタビューでの応答が実に凛然としているではないか。―中略―。しかも、彼は、そのたびごとに成長のあとが見られるのである。和泉監督も、春の大会以降の彼の心技ともの成長を証言されていた。
それにしても、進路発表の会見で退席の際にいすを直して会釈する、その姿には驚いた。そこには、媚(こび)やてらいが一切ないのである。それは、組織内の不祥事のたびに頭を下げる役職者たちの退席ぶりと比べると、なお一層際立って見えるのである。―中略―。斎藤君には、一流になる素地が備わっている。今後よほどの挫折がない限り、おそらく大成するであろう、と思わせてくれた。
さて、斎藤君のそうした成長を誰が支えたか、だ。もちろん、第一に本人の自覚と努力があっただろう。監督や先輩の指導もあっただろう。が、しかし、ご両親の教育が何よりもその素地を形成しているのだ、と思う。ご両親にお目にかからずにそう思うのは失礼なことではあるが、きっとそうに違いない。
そのご両親は、私のみるところでは、めったに表には出られない。それは自分たちと子どもの絆をしかと信じているからに相違ない。あるところで、あるところから、親が必要以上に出しゃばることはないのだ。後ろから、あるいは脇から見つめてやる。それも、子どもが自立する過程でのひとつの教育法ではあるまいか。
かつての日本では、そうした親の心得がたしかにあったのだ。子どもが先生から叱られても、親は学校に乗り込むことをしなかった。子ども同士のけんかに、親が口をはさむ事もしなかった。時代が違う、といえばそれまでだが、親子の距離にも「内外(うちそと)」があってよろしいのではあるまいか。
家から一歩外に出たら、子どもたち(主に中・高校生)も相応の自己責任を負わなくてはならないのである。その時のために、かつての親たちは、あらかじめの「しつけ」を施していたものである。―中略―。たとえば、小学生ぐらいの子どもを使いに出す。そのとき、親は、先方へのあいさつの仕方を教えていた。帽子のぬぎ方や靴のそろえ方を教えていた。それが、やがて外で生かされることにもなるのである。
かの斎藤佑樹君も、やはりご両親かどなたかからそうした教えを受けていたはず。こればっかりは、ひとりで身につけられるものではないのである。
古くさいこと、といわれるかもしれない。しかし、それでは、それに代わる新しく効果的な親の教育法があるのか。―中略―。親子の絆のあり方に、古きも新しきもないのである。ならば、親が子に施す教育にも、古きも新しきもないのである。その教育法のひとつが「しつけ」なのである。
おそらく、大半の人が斎藤佑樹君の凛然とした物腰を好ましいとみたはずである。私どもは、斎藤君のような青年を待望していたのである。そして、ひとり斎藤君だけでなく、しつけて成長を促すことができる青年が数多く潜在するだろう。そのところで、日本の将来にも夢を託すことができるように思えるのである。よいお手本を示してくれた、斎藤君よ、ありがとう、といっておきたい』
誰が見てもいいものはいい。「三つ子の魂百まで」というが、親は子どもが小さい時から、あいさつや、感謝のことばが言える最低限の「しつけ」教育をしっかり施すべきである。
まだ1歳、とはいえ日々いろんな事を吸収する時期だけに考えることも多いのよね。
勉強できなくてもいい(できるに越したことはないが)、本当に一般的な常識だけはきちんと親が教えないといけないな、と思う。
親の背中を見て育つ、とはうまくいったもので、子供の集まる場所にいくと、しつけのなってない子供の親を見ると妙に納得できるから不思議。
~私が無知なばかりにいつもコメントできないでいますが、今日は思い切ってがんばりました(σ ゜ー゜)σ~