秋葉原通り魔事件とは、2008年(平成20年)6月8日の日曜日、東京都千代田区の秋葉原で発生した通り魔事件である。7人が死亡、10人が負傷。犯人の加藤智大被告は、一審、二審ともに死刑の判決を受けたが、昨年9月、判決を不服として最高裁に上告している。その加藤被告の弟が「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」という言葉を残して、2月の半ば頃、28歳の若さで自ら命を絶ったという。
重大事件が起きてマスコミが大騒ぎするたびに思うのは、犯人の親や兄弟姉妹への世間の風当たりである。親への非難はしかたないとしても、兄弟姉妹には何の罪もない。被害者側の気持ちからすれば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」となるのも理解できるが、私は時折、加害者の家族は、今、どんな気持ちでいるのだろうか…、そう思うことがある。
事件の重大性によっては、加害者家族への世間の目は冷たかろう。就職も結婚も阻まれることもあろう。だが、世をはばかり、社会の片隅でひっそりとただ生きるだけ、人並みの幸せさえ望めない。そんな死んだも同然の人生を生きてゆくことに何の意味があろう。兄が事件を起こしたその時点で弟の未来は閉ざされたのである。その悔しさ、怒り、そして、生きることの空しさ、厳しさ、苦しさは、本人にしか分からない。だが、その絶望感の深さはうかがい知ることはできる。
「週刊現代」4月26日号に弟の手記が掲載されている。それを読むと、「加害者の家族として生きる」ことの苦しみ、悔しさがひしひしと伝わってくる。筆者に「死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください」と言ったという。この言葉に込められた絶望感、悔しさや憤り、無念さを思うと胸が痛む。
手記の内容からして、きっと彼は頭のいい賢い青年だったに違いない。それだけに悩み苦しんだのであろう。だが、彼がもっと鈍感で愚鈍な人間であったなら、苦しむことも死ぬこともなかったかもしれないのに…、と思うと目頭が熱くなってきた。
この加藤被告の弟の自殺記事について、別の記者が「加藤被告の実弟が自殺、公開リンチが止まらない!」という記事を書いている。その終わりの文章が本質に迫っているだけに、ストンと胸に落ちてきた。
【最後に、今現在進行中の話題を例に挙げるが、皆さんはSTAP細胞騒動についてどう思うだろう? いま現在小保方さんに対して度を越した投石攻撃をしている連中は、もし彼女に万が一があった場合になんと言うのだろう? やはり今回と同様に「マスゴミが~」とすべての責任をマスコミに押し付けて正義感ぶるのだろうか? だがその“マスゴミ”が提供してくれる情報を燃料にして騒いでいるのは誰なのだろう?
マスコミはあなた方のレベルに合わせて“商品”を並べているだけに過ぎない。報道倫理もへったくれもないマスコミが変わらねばならないのは当然だが、日々考えて考えて少しずつ変わって行かねばならないのは、私もあなた方も同様なのである。】
オールドレディさんの記事を読みながら事の本質を見極められない自分の身を大いに羞じる。
被害者、加害者と彼らの周囲、グレーゾーンで苦しむ存在に、無責任行動を採る部外者、が心を寄せるべきですね。
発行部数なんぼのマスコミに踊らされないよう頑張るぞ―
これまで親が命を絶ったことは何度かありますが、兄弟が死を選んだというのはなかったように思います。
弟は何度も兄に面会を求めたが拒否され、とうとう恨み言の一つも言えぬまま逝ってしまいました。加藤被告はこの弟の死をどう受け止めているのでしょうか。
加害者の身内にも何らかのサポートが必要だとは思っても、何の偏見も持たず接することができるかどうか。私も情けない人間の一人です。
ありふれた名字なら家族も遠くに引っ越して生きていけるかなぁ・・と考えたりしますが、そんな問題でもないですね
“小保方博士にもヘットハンターが大勢押し掛けている”と
聞いて「捨てる神あれば拾う神あり」。もう一度チャレンジしてほしいです。マスコミはばかの集団ですね。
昔と違ってこれだけ情報網が発達していると、身を潜めて生きてゆくということも難しそうですね。
なぜ加藤の弟は死なねばならなかったのか。理不尽なことの多い世の中ですが、付き合いのあった記者でも救えなかったのでしょうか。
たった一人ぼっち、そんな寂しい気持ちのままで死んだことが哀れです。