山口県周防大島物語

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大正8年北米に移住していた大島郡の人たち

2022年07月16日 08時36分49秒 | 大正8年(1919)北米移住の大島郡の人たち
大正8年(1919年)に北米(北カルフォアルニア、中カルフォルニア、「南カフフォルニア除く」、
ネバダ州、ユタ州等に居住し、在米日本総領事館に居住登録した山口県大島郡(現周防大島町)の人たち
の一覧です。

この人たちの多くは、日米開戦と同時に、強制的に居住地を立ち退かされ、財産を没収あるいは二束三文で
買いたたかれ、手に持てるだけの身の回り品だけ持って、全米各地の強制収容所に送られました。

たまたま、開戦前に帰国していた人たちのみ「強制収容所」送りは免れました。移住一世は勿論、米国生まれで米国籍の二世も送られました。しかし、米国の敵であったドイツ人やイタリア人には非人道的な収容所
送りはしませんでした。今もそうですが、日本人は「黄色い猿」とされ、白人と同様な権利は無いと判断
されました。所謂、人種差別です。

ハワイの日本人は開戦時にはあまりにも多すぎて、一部の要注意人物だけが現地の仮こしらえの収容所に入れられ、その中から特にリーダー格になりそうな人たちは米国本土の強制収容所に送られましたが、財産没収は免れたらしく、戦後、収容所から解放されますとハワイに帰り、再建の道に着きました。

米国本土にいた人たちは、在留するためには又、ゼロから生活をしなくてはなりませんでした。

強制収容所には戦中、正確な情報が入らないため、日本の勝利を信じて疑わなかった人たちは、滞米を拒否し日本帰国を申請し終戦の翌年に二回に分かれ帰国しましたが、強制収容所よりひどい食料事情と生活苦に
直面し、大半の人たちは「敗戦の現実を知り」また、アメリカへと帰っていきました。

帰国組の一部は歯を食いしばって戦後の苦しい中を生きてきました。こちらの話は又にしましょう。


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