山口県周防大島物語

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家系研究

2022年07月25日 16時55分52秒 | 南北朝時代の人々とその系図研究
高須賀様

【真木頼徳が大坂の陣に参加したことは、茂木家の家伝の他に、書物に名前が出てくるなど何か証左があるのでしょうか?。

現在の所、茂木家の伝承以外第三者的な証左は確認できていません。
萬木(真木)頼徳は土岐家研究家によると真木家当主ではなく弟とされますので
比較的自由な立場だったものと思われます。
ともあれ、大坂夏の陣で誰の配下で参陣していたのかもどの部署を守っていたのかも
現在わかりません。大坂城図書館に問い合わせば史料があるかもしれません。

他の開墾の家の調査は必要でしょうね。
同様な伝承や史料を受け継いでいる可能性がありますね。
德川家の足元での入植ですから、当初から豊臣の落人の素性は明かしていないと
思いますので、集団入植として団結し、口を閉ざしていたと思われます。
德川の落人狩りは長く苛烈を極めたとされますので、団結していたと思われます。
この場合、キーワードは旦那寺でしょうね。三々五々集まると怪しまれますので
仏事にかまけて寺で談合をしていた可能性がありますので、どの家も同じ寺ではなかった
のではないでしょうか?
寺の「人別帳」が残っていれば人員構成や来歴が各家とも分かると思うのですが?

慈光山金乗院と香取山真光寺の研究はヒントになるかもしれませんね。
ついでに茂木家初代が葬られているとされる、野田市野田の安心坊(寺)の調査も
お勧めします。同宗で慈光山金乗院住職が兼帯とされますので、金乗院住職が事情を
分かった上で豊臣家落人たちを守った可能性がありますね。
戸籍にあたる人別帳の管理や旅をするための通行手形も金乗院が発行していたのではないで
しょうか?
高須賀家も茂木家も村こそ違え、名主(庄屋)とされますので、当たり前ですが、
当時読み書きができ、マネジメント能力があったことを意味しますので、なんらかの
史料が残っていると思われます。
江戸初期の名主(庄屋)は殆ど、負けた側の武将が旧領地のの管理者に任命されています。
これらは進駐した新領主がスムーズに領地を統治するための知恵ですね。
野田は未開の地でしたから、読み書きのできる統治能力のある高須賀家や茂木家が名主に
選ばれたと考えられます。
野田の他の名主の調査も必要でしょうね。共通項があると思われます。

【「弘治元年十月十五日 開山仙深法師」の刻印の供養塔又は墓石が、岩名村の廃寺跡にあったらしいことが
分かりました。弘治元年十月ですと、西国では厳島合戦が終わった頃でしょうか。】

岩名村の廃寺の名は何というのでしょうかね?

仙深法師が開山とされるのであれば、開基は誰なのでしょう?
高須賀家の関係者だったのしょうかね?



弘治元年十月十五日は確かに陶と毛利が戦った厳島合戦の直後ですね。
ただ、「弘治元年十月十五日」と刻印されるものがあったとすると後世の造作物と思われます。
御承知のように弘治の改元は、【こうじ・兵革改元による(後奈良天皇-4年間)【勘申者 菅原長雅】】
十月二十三日とされますので、 十月十五日は天文二十四年が正しいものと思われますが、後作りの場合は
このような例は多いのも事実ですね。

弘治元年は徳川家康はまだ今川家の人質で、同所で元服したばかりで天下人のかけらもありませんね。
西国の雄、毛利家もまだ一安芸の土豪で、上司の大内家を乗っ取った陶家との戦いに挑みました。
この戦いが「厳島合戦」ですが、この合戦に海賊衆がどちらを応援するかが分かれ目でしたが、因島海賊、
来島海賊、能島海賊は毛利側へ、屋代島の宇賀島海賊らは陶側に付きましたが、能島の毛利側への参戦で
毛利は大勝利をし、感激した毛利は三島村上に未来永劫恩は忘れないとし、途中で豊臣家に寝返った来島
海賊を除き、因島、能島、は明治まで毛利家臣下としています。

他のブログの「四境の戦い」に於ける大島口の戦いでは能島村上の末裔の村上亀之助、村上河内、因島村上の
末裔、村上太左衛門が連綿として繋がります。

ただ、高須賀家や友近家が活躍していたであろう、伊予では河野宗家の力が弱まり、家臣達の反乱が頻発する
時期となっています。こうした混乱が来島村上の離反を招き、土佐の長宗我部に侵略をゆるしたり、毛利家による
併合画策に利用されます。毛利家内から嫁を貰うことで毛利家の属藩のようになることで河野家名を長らえる
道を選びましたが、天正13年の秀吉の四国征伐で伊予の河野支配は終わり、天正15年の最後の当主、牛福通直の
生害により、名門河野家は断絶しました。


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