そうですね。
一番古いのは
河野六郎讃岐守通尭(通直)
(1350~1379 11/6)生害
と思われます。ただ古い官名の軍司がいつまで使われていたかを確認する必要がありますね。
となると通直は、
河野犬王丸通直・道治・教通
(~1500 1/20)
河野一郎太郎弾正少輔通直
(~1572 8/26)
河野牛福通直*
(~1587 7/14)
の年代も確認しなければなりませんね。
気になりましたので「萩藩閥閲録」の友近与一左衛門家を見て見ました。
簡単な由緒は書いてありますね。
又、伊予史談会の友近与一左衛門文書と考え合わせると、戦国末期は友近与左衛門
が伊予にいたことになります。この人の諱が現在の所不明ですが、後に、松山藩に
出仕した友近家と萩藩に出仕した友近家は與市左衛門の子供たちと思われます。
友近家は河野右京太夫通宣に仕え、後、河野牛福通直にも仕えた後、小早川隆景に
仕え、小早川家断絶後、隆景の室の口利きで毛利萩本藩に仕えたことになっていますね。
友近文書の一番古いのは天文十三年九月八日の河野通宣の宛行状が見られます。
また、永禄二年十月十二日の安堵状が通宣から与一左衛門に出されています。
ただ文禄三年正月七日の任官状は小早川隆景から、与一左衛門の子と思われる
友近貮助 與太郎に与えられていますので、この人の子孫が毛利藩に仕えたこと
になります。憶測ですが、与一左衛門も別の息子の系列が松山藩友近家の系列と
思われます。
松山藩の友近神社が河野通直の家臣友近としていることからも同一家と思われます。
よって、友近神社由緒にある、河野通直とは最後の当主である牛福通直となります。
また和気郡守とあるのは間違いで単なる領主と思われます。
友近与一左衛門が安堵されているのは、4ケ所程度にそれぞれ一町程度なのでとても
和気郡全部を抑えていたとは思えません。
どちらしろ、天正13年の秀吉の四国征伐により河野家が断絶し、天正15年の
牛福通直の生害により伊予友近家も離散したものと思われます。
貞享三年(1686)に松山藩に召し出されたとのことですが、前年に松山地方には
大地震に襲われ、道後温泉は出なくなり、松山城は大被害を受けています。
熊本地震に於ける熊本城の被害を上回るものだったと考えられます。
湯量の多い道後温泉が止まることは歴史上何回もありますが、殆どが巨大地震の
後ですね。今は賑わっている道後温泉も一回の巨大地震でいつ止まるかもわかりません。
余談ですが、道後が止まると別府温泉が元気になり、逆もあるそうです。
地球の巨大な地殻では、松山、大分程の距離は小さなひび割れ程度なのでしょう。
●屋代源三様
萩藩閥閲録の友近与一左衛門文書で一点気になるところがございます。
同文書の由緒書に
『私先祖儀ハ伊豫之河野對馬守通宣ニ被召仕居申候處 云々』とあります。
二人いる河野通宣の官途は、祖父が「刑部大輔」、その孫が「左京大夫」と知ったのですが
どちらが「対馬守」を名乗ったのか、またはどちらも「対馬守」を名乗ったのか
若しくは与一左衛門家の子孫に「伊予守通宣」とすべきところを誤って伝えられたのか、
迷うところでございます。
> 憶測ですが、与一左衛門も別の息子の系列が松山藩友近家の系列と
> 思われます。
私の想像では、河野氏晩年の家臣団の中に、友近姓の同族として
式部・大学・与一左衛門・次郎右衛門尉忠吉等がいて、河野氏瓦解により
与一左衛門の子孫は縁あって長州藩の臣となり、伊予に残った同族は帰農。
帰農した子孫の中から松山藩士に抱えられた者が出た・・・と推測しております。
他の皆様にとってはたわいも無い話しとなりますが、
幕末に戦った長州藩と松山藩の双方に、同族だったかもしれない友近姓の家臣がいた・・・
与一左衛門家の存在を知ってから、小さな歴史の偶然を感じております(苦笑)
そう云えば、長州藩と松山藩が戦った場所が周防大島でございましたね。
こちらの掲示板にもご縁を感じております。ご迷惑とは思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。
●『私先祖儀ハ伊豫之河野對馬守通宣ニ被召仕居申候處 云々』
確かにこれではどちらの通宣かわかりませんね、
江戸中期提出の由緒書に友近與一左衛門が間違って「對馬守」と書いたと思われます。
通宣はどちらも對馬守を名乗っていないと思います。
私は添付資料にある通宣文書が天文と永禄に発行されていることから当時の河野家当主
河野四郎左京大夫(通賢)通宣と判断しました。同じく小早川隆景文書との関連から
通直を牛福通直と判断しました。
【私の想像では、河野氏晩年の家臣団の中に、友近姓の同族として
式部・大学・与一左衛門・次郎右衛門尉忠吉等がいて、河野氏瓦解により
与一左衛門の子孫は縁あって長州藩の臣となり、伊予に残った同族は帰農。
帰農した子孫の中から松山藩士に抱えられた者が出た・・・と推測しております。】
たぶん御想像の通りだと思います。
貞享三年(1686)に松山藩に召し出されたとの記録ですが、私は前年の大地震と
関連があると思います。松山城はあちこち大崩壊し、道後温泉まで止まると言う
ことは震度6以上だったと想定されます。
よって松山城下は壊滅的被害を受けたと思われます。
市民や家臣団にも相当数の死者が出たと思われます。
松山藩は復旧しようにも家臣団の数が足りなくなって緊急の召し出しが発生したと
思われます。詳しく調べないと分かりませんが友近家以外でも緊急召し出しが行われて
いると考えられます。
河野家家臣団で伊予に残った家は帰農しますが、主に庄屋(伊予では庄官)になります
ので、出仕予備軍となっています。
第二次長州征伐(四境の戦い)で松山藩と長州藩は周防大島で戦います。
周防大島や長州には旧河野家家臣団の末裔が多くいますので、親戚同士で敵味方
となったのも事実です。
また旧河野家家臣達が河野家断絶後浪人となりあちこちの大名家に仕官していったのも
多くあります。よって兄弟がそれぞれの藩に仕え明治を迎えた例にいとまは有りません。
尚、投稿は迷惑ではありません。かえって別の視点から歴史を掘り起こすことが
できて有益です。
書き忘れました。萩藩閥閲録に載っていますので、同譜録には友近家はどのように書かれて
いるのでしょうかね?もっと詳しい由緒が書かれているかも知れません。
これは山口県文書館で調べる必要があります。
●屋代様
「對馬守」を名乗った河野家当主を東京大学史料編纂所のデータベース検索で探ったところ
河野通有・河野通盛(通治)・河野通之の3名のみしか確認できませんでしたので(江戸期は除く)、
屋代様も仰せのように、由緒書の「對馬守」は友近與一左衛門が間違って書いたのでしょう。
なお、東京大学史料編纂所のデータベース検索ですが、場合によっては探している史料の記事が
画像化されていて読む事が可能なため何かと参考にしております。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
> 萩藩閥閲録に載っていますので、同譜録には友近家はどのように書かれて
角川書店発行の書籍に【山口県姓氏歴史人物大辞典 角川日本姓氏歴史人物大辞典35】があり
長州藩の閥閲録・譜録・給録帳を基にした諸家の由緒が採録されております。
同辞典による与一左衛門の後裔は下記の通りで、〔〕内は同辞典の記事によります。
与一左衛門
│
与太郎(貳助)※小早川隆景の臣となる
│
惣兵衛(二郎右衛門・次郎右衛門)〔治郎右衛門〕※山口問田から萩へ
│
惣兵衛(十右衛門)
├──────────┐
惣兵衛実行(伝兵衛) 〔正之〕
│ │
与一左衛門信富(九市郎) 〔兼久〕〔無給通友近庄兵衛敬久家〕
〔信易・信明〕
〔遠近方友近与一左衛門信明家〕
いずれにしましても山口県公文書館で長州藩の友近家について調べてみたいと考えております。
また、そのついでに広島にて、熊谷氏文書に出てきます「安芸国三入荘友近名」や
安芸熊谷氏の九代当主・熊谷宗直の次男とされる「友近直春」、広島市安佐北区大林の「友近城址」
などにつきましても調査出来ればと思う次第です。愛媛の「友近」とは無関係と思いますが、
歴史的に関係の深い芸予両国に「友近」の地名・姓があることに、極めて個人的な感慨がございます。
9秒台を出した滋賀県出身の桐生祥秀選手を応援する群馬県桐生市の気持ち、よく分かります!(苦笑)
> 貞享三年(1686)に松山藩に召し出されたとの記録ですが、私は前年の大地震と
> 関連があると思います。
ご教示、ありがとうございます。
宝永年間に伊予などで大地震があったとの記事をネット検索の際に目にした覚えがありますが
貞享二年にも大地震があったとは知りませんでした。ご教示頂いた観点から分限帳などを
調べ直してみます。
一番古いのは
河野六郎讃岐守通尭(通直)
(1350~1379 11/6)生害
と思われます。ただ古い官名の軍司がいつまで使われていたかを確認する必要がありますね。
となると通直は、
河野犬王丸通直・道治・教通
(~1500 1/20)
河野一郎太郎弾正少輔通直
(~1572 8/26)
河野牛福通直*
(~1587 7/14)
の年代も確認しなければなりませんね。
気になりましたので「萩藩閥閲録」の友近与一左衛門家を見て見ました。
簡単な由緒は書いてありますね。
又、伊予史談会の友近与一左衛門文書と考え合わせると、戦国末期は友近与左衛門
が伊予にいたことになります。この人の諱が現在の所不明ですが、後に、松山藩に
出仕した友近家と萩藩に出仕した友近家は與市左衛門の子供たちと思われます。
友近家は河野右京太夫通宣に仕え、後、河野牛福通直にも仕えた後、小早川隆景に
仕え、小早川家断絶後、隆景の室の口利きで毛利萩本藩に仕えたことになっていますね。
友近文書の一番古いのは天文十三年九月八日の河野通宣の宛行状が見られます。
また、永禄二年十月十二日の安堵状が通宣から与一左衛門に出されています。
ただ文禄三年正月七日の任官状は小早川隆景から、与一左衛門の子と思われる
友近貮助 與太郎に与えられていますので、この人の子孫が毛利藩に仕えたこと
になります。憶測ですが、与一左衛門も別の息子の系列が松山藩友近家の系列と
思われます。
松山藩の友近神社が河野通直の家臣友近としていることからも同一家と思われます。
よって、友近神社由緒にある、河野通直とは最後の当主である牛福通直となります。
また和気郡守とあるのは間違いで単なる領主と思われます。
友近与一左衛門が安堵されているのは、4ケ所程度にそれぞれ一町程度なのでとても
和気郡全部を抑えていたとは思えません。
どちらしろ、天正13年の秀吉の四国征伐により河野家が断絶し、天正15年の
牛福通直の生害により伊予友近家も離散したものと思われます。
貞享三年(1686)に松山藩に召し出されたとのことですが、前年に松山地方には
大地震に襲われ、道後温泉は出なくなり、松山城は大被害を受けています。
熊本地震に於ける熊本城の被害を上回るものだったと考えられます。
湯量の多い道後温泉が止まることは歴史上何回もありますが、殆どが巨大地震の
後ですね。今は賑わっている道後温泉も一回の巨大地震でいつ止まるかもわかりません。
余談ですが、道後が止まると別府温泉が元気になり、逆もあるそうです。
地球の巨大な地殻では、松山、大分程の距離は小さなひび割れ程度なのでしょう。
●屋代源三様
萩藩閥閲録の友近与一左衛門文書で一点気になるところがございます。
同文書の由緒書に
『私先祖儀ハ伊豫之河野對馬守通宣ニ被召仕居申候處 云々』とあります。
二人いる河野通宣の官途は、祖父が「刑部大輔」、その孫が「左京大夫」と知ったのですが
どちらが「対馬守」を名乗ったのか、またはどちらも「対馬守」を名乗ったのか
若しくは与一左衛門家の子孫に「伊予守通宣」とすべきところを誤って伝えられたのか、
迷うところでございます。
> 憶測ですが、与一左衛門も別の息子の系列が松山藩友近家の系列と
> 思われます。
私の想像では、河野氏晩年の家臣団の中に、友近姓の同族として
式部・大学・与一左衛門・次郎右衛門尉忠吉等がいて、河野氏瓦解により
与一左衛門の子孫は縁あって長州藩の臣となり、伊予に残った同族は帰農。
帰農した子孫の中から松山藩士に抱えられた者が出た・・・と推測しております。
他の皆様にとってはたわいも無い話しとなりますが、
幕末に戦った長州藩と松山藩の双方に、同族だったかもしれない友近姓の家臣がいた・・・
与一左衛門家の存在を知ってから、小さな歴史の偶然を感じております(苦笑)
そう云えば、長州藩と松山藩が戦った場所が周防大島でございましたね。
こちらの掲示板にもご縁を感じております。ご迷惑とは思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。
●『私先祖儀ハ伊豫之河野對馬守通宣ニ被召仕居申候處 云々』
確かにこれではどちらの通宣かわかりませんね、
江戸中期提出の由緒書に友近與一左衛門が間違って「對馬守」と書いたと思われます。
通宣はどちらも對馬守を名乗っていないと思います。
私は添付資料にある通宣文書が天文と永禄に発行されていることから当時の河野家当主
河野四郎左京大夫(通賢)通宣と判断しました。同じく小早川隆景文書との関連から
通直を牛福通直と判断しました。
【私の想像では、河野氏晩年の家臣団の中に、友近姓の同族として
式部・大学・与一左衛門・次郎右衛門尉忠吉等がいて、河野氏瓦解により
与一左衛門の子孫は縁あって長州藩の臣となり、伊予に残った同族は帰農。
帰農した子孫の中から松山藩士に抱えられた者が出た・・・と推測しております。】
たぶん御想像の通りだと思います。
貞享三年(1686)に松山藩に召し出されたとの記録ですが、私は前年の大地震と
関連があると思います。松山城はあちこち大崩壊し、道後温泉まで止まると言う
ことは震度6以上だったと想定されます。
よって松山城下は壊滅的被害を受けたと思われます。
市民や家臣団にも相当数の死者が出たと思われます。
松山藩は復旧しようにも家臣団の数が足りなくなって緊急の召し出しが発生したと
思われます。詳しく調べないと分かりませんが友近家以外でも緊急召し出しが行われて
いると考えられます。
河野家家臣団で伊予に残った家は帰農しますが、主に庄屋(伊予では庄官)になります
ので、出仕予備軍となっています。
第二次長州征伐(四境の戦い)で松山藩と長州藩は周防大島で戦います。
周防大島や長州には旧河野家家臣団の末裔が多くいますので、親戚同士で敵味方
となったのも事実です。
また旧河野家家臣達が河野家断絶後浪人となりあちこちの大名家に仕官していったのも
多くあります。よって兄弟がそれぞれの藩に仕え明治を迎えた例にいとまは有りません。
尚、投稿は迷惑ではありません。かえって別の視点から歴史を掘り起こすことが
できて有益です。
書き忘れました。萩藩閥閲録に載っていますので、同譜録には友近家はどのように書かれて
いるのでしょうかね?もっと詳しい由緒が書かれているかも知れません。
これは山口県文書館で調べる必要があります。
●屋代様
「對馬守」を名乗った河野家当主を東京大学史料編纂所のデータベース検索で探ったところ
河野通有・河野通盛(通治)・河野通之の3名のみしか確認できませんでしたので(江戸期は除く)、
屋代様も仰せのように、由緒書の「對馬守」は友近與一左衛門が間違って書いたのでしょう。
なお、東京大学史料編纂所のデータベース検索ですが、場合によっては探している史料の記事が
画像化されていて読む事が可能なため何かと参考にしております。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
> 萩藩閥閲録に載っていますので、同譜録には友近家はどのように書かれて
角川書店発行の書籍に【山口県姓氏歴史人物大辞典 角川日本姓氏歴史人物大辞典35】があり
長州藩の閥閲録・譜録・給録帳を基にした諸家の由緒が採録されております。
同辞典による与一左衛門の後裔は下記の通りで、〔〕内は同辞典の記事によります。
与一左衛門
│
与太郎(貳助)※小早川隆景の臣となる
│
惣兵衛(二郎右衛門・次郎右衛門)〔治郎右衛門〕※山口問田から萩へ
│
惣兵衛(十右衛門)
├──────────┐
惣兵衛実行(伝兵衛) 〔正之〕
│ │
与一左衛門信富(九市郎) 〔兼久〕〔無給通友近庄兵衛敬久家〕
〔信易・信明〕
〔遠近方友近与一左衛門信明家〕
いずれにしましても山口県公文書館で長州藩の友近家について調べてみたいと考えております。
また、そのついでに広島にて、熊谷氏文書に出てきます「安芸国三入荘友近名」や
安芸熊谷氏の九代当主・熊谷宗直の次男とされる「友近直春」、広島市安佐北区大林の「友近城址」
などにつきましても調査出来ればと思う次第です。愛媛の「友近」とは無関係と思いますが、
歴史的に関係の深い芸予両国に「友近」の地名・姓があることに、極めて個人的な感慨がございます。
9秒台を出した滋賀県出身の桐生祥秀選手を応援する群馬県桐生市の気持ち、よく分かります!(苦笑)
> 貞享三年(1686)に松山藩に召し出されたとの記録ですが、私は前年の大地震と
> 関連があると思います。
ご教示、ありがとうございます。
宝永年間に伊予などで大地震があったとの記事をネット検索の際に目にした覚えがありますが
貞享二年にも大地震があったとは知りませんでした。ご教示頂いた観点から分限帳などを
調べ直してみます。
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