山口県周防大島物語

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村上宗家(図書家)墓石群

2022年07月24日 14時11分04秒 | 村上海賊家の墓と寺
村上分家(一学家)の墓石群については簡単ながら紹介させて頂きました。

そこで村上宗家(武吉→元吉→元武→就武・・・)【図書家】の墓はいずことの
問合せを受けました。

厳密には村上元吉流の子孫に説明して頂かないと不明ですが、手許に郷土史家
中原勲氏の研究成果がありますので、それに沿って説明したいと思います。

①宣教師フロイスにより欧州に報告された、「日本最大の海賊」の頭領とされた
 村上武吉の墓は周知の通り、屋代島(現周防大島町)初代大龍寺(現元正寺)
 にあります。独立した土塀の中に在って土塀の後ろの後妻と思われる方の墓
 があります。前室、中室の来島村上の娘たちの墓はどこにあるか分りません。
 たぶん武吉が屋代島へ来るまでに彼女たちは卒去もしくは離縁されたのかも知れません。

 前室は早く死にますので、代りに妹が嫁してきますが、周知の通り来島村上は三島村上の結束を
 破り、秀吉に走り、主家伊予河野家、その親族中国毛利家を裏切りますので来島村上の娘、中室は
 離縁となっていてもおかしくありません。
 現在武吉墓の後ろに居るのは、朝鮮征伐で連れ帰った朝鮮美人妻の「おたけ様」と思われます。

 これは村上分家一学家の墓の所で紹介した、次男景親の後妻と姉妹であるとされます。
 近代、一学家子孫、公一氏が当家には朝鮮人の血が流れていると著書に書くことと符合します。

②村上武吉の嫡男、元吉は伊予の関ケ原とされる、松前(まさき)の戦いで討ち死にします。
 この時の村上宗家は能嶋(宮窪)を下城させられており、芸州竹原珍海山を本拠として
 いますので、現在竹原市珍海山の斜面に墓がありますが、いつ崩壊するか分らない状態です。

元吉以降は屋代嶋第3代「大龍寺」(現龍心寺)の本堂裏に安置されます。

土塀の中にコの字に配置された墓石群があります。

正面中央に自然石の墓があり、左右4基づつ墓があります。右を奇数代、左を偶数代の代々図書家の墓
とされます。

まず、

中央の自然石は墓ではなく、宗家村上武吉の供養塔とされます。

では左から順に、

八代、村上勘兵衛房顕夫妻墓
六代 村上就顕夫妻墓
四代 村上図書元敬夫妻墓
二代 村上掃部就武墓

中央 村上武吉供養塔

屋代初代 村上元武墓
三代 村上廣親夫妻墓
五代 村上廣武夫妻墓
七代 村上親章墓

とされます。これらは墓石に刻られています戒名によりわかります。

九代村上元顕の卒去時は正面のスペースがなくなったらしく、右側一番手前から2番目が元顕夫妻の
墓となります。

屋代村上宗家最後の殿様村上兼助(四境の役では村上亀之助と呼ばれています。本名は惟庸)夫妻の
墓は元顕の手前に立ちます。

只、この墓は親族により建てられたのではなく、村上兼助(亀之助・惟庸)が離郷して東京で卒去したのちに
毛利藤内により建てられたとされます。


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