山口県周防大島物語

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和田村 昭岩寺と内ノ入村 元正寺

2022年07月24日 14時09分07秒 | 村上海賊家の墓と寺
現在の村上一学家(景親)の菩提寺和田の「正岩寺(セイガンジ)」と村上武吉の墓がある「元正寺(ゲンショウジ)」の変革については、江戸期の一学家と図書家が毛利家からの指示による「所替」した件はお話しました。村上武吉が葬られた時の寺名は「大龍寺」でこれが、正確には現在「元正寺」跡となります。

現在「正元寺」と「元正寺」の二寺があるように思われていますが、「元正寺」は廃寺となったとされますので「跡」するのが正しいようです。

「元正寺」の親寺・屋代村大龍寺(現・龍心寺)の第十八世、峯雲玄龍大和尚の
記録によると、明治3年、明治政府の「神仏分離令」ゆわゆる「廃仏毀釈」により両寺が統合されて一つになったと記録されています。

現在の「正元寺」は元「照元寺」との寺名であり、「元正寺」との合併により
名を一字づつとり「正元寺」と改名したとあります。廃寺になった「元正寺」の
住職、文成和尚は失業となり、寺の財産ももっていかれててとても気の毒である、されています。文成和尚は平民となり、「亀尾正兵衛」と改姓したとされます。

寺宝、伽藍、仏像は「正元寺」に差し出したと記録されています。

「神仏分離令」は日本国中を吹き荒れ、重要な文化財が相当数棄却されました。

理由は万世一系の天皇家の氏社である神社の権威を高めるためと、江戸幕府(徳川)の地方自治機関(役場の役割り)であった寺の権限を削ぐための一石二鳥の方策と言われています。

このあたりの国策は国を抜本的に改革すると云う、長州藩の若者たちのアイデアとエネルギーによるものです。もちろん松陰先生は松下村塾でアジりまくっています。

坂本竜馬の「国を洗濯する!」との思想と通じるものがあります。

周防大島における「廃仏毀釈」の生の記録はおって別スレッドで紹介したいと思いますが、古文書形式と長いので時間はかかりそうですね。


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