あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄のイベント~那覇ハーリー 2016年5月3日~5日~初めての5月3日初日の小・中学生ハーリーを観戦

2016年05月26日 15時32分07秒 | Weblog
 5月25日(水曜日)平年より遅れて梅雨入りして、久方振りに梅雨の中休み。朝方は陽が射して青空が拡がっていた。
午後からはどんよりした厚い雲に覆われていたが雨は落ちて来ない。
窓から吹き込んでくる初夏の風が心地よい。
きょう26日も午前中は厚い雲に覆われていたが、午後からは雲も切れ、今は日が射してきている。
 重い腰をあげて、5月3日の那覇ハーリーの様子を投稿することにした。

 5月3日、那覇ハーリーの初日。
友人の車に同乗したが、駐車場が確保できず、結局、2km余りを歩くことになった。
露天が建ち並び、沖縄のイベント会場で見慣れてしまった風景があった。
 初日は小・中学生が出場するとあって、子供等の屈託のない声援や歓声が会場に響き渡っていた。
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 会場には大型のスクリーンが取り付けられ、競技の様子が映し出されていた。
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 地区代表の子供たちだろう、真っ黒に日焼けした姿が爽やかだった。
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 会場に行くまでの道筋に那覇爬龍船記念館があった。
記念館といってもこじんまりとしたものだった。
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 会場近くで珍しいものをみつけた。
久米三十六姓の門中墓であろう。
中国名と現在の沖縄の名前が併記されている。
14世紀の終わりごろ、明の時代、洪武帝の命により沖縄に派遣されたという中国人の子孫を久米三十六姓と呼ぶ。
福建省を出た彼らは現在の那覇市久米に定住し、久米三十六姓と呼ばれるようになった。
子孫達には琉球王国の中枢まで上り詰めた人もいる。三司官になった蔡温は、特に有名である。
詳細はここをクリック。沖縄の歴史の片鱗を見ることができておもしろい。

画像をクリックで拡大(背景の花は月桃)




 会場近くにはもうひとつ、日本最古の外人墓地といわれる「泊(とまり)外人墓地」がある。
定説は定かではないが、詳述したページを見つけた。ここをクリック
墓地は58号線泊交差点から那覇新港に向って200m位のところにある。
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 会場に沿うように県花「デイゴ」の街路樹の並木がある。
数年振りに生き生きとしたデイゴの花を見つけた。
写真は5月3日であるから、今は満開であろう。
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 朝からどんよりしていたが、風と横殴りの大粒の雨が降り出した。
ハーリーが中断となったので、会場を後にした。
初日の子供ハーリーをみるのは始めてであった。ゆったりした、たのしい時を過ごすことが出来た。

ハーリー会場となる那覇新港



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沖縄の居酒屋で ~ ゴキブリに恐怖!ゴキブリ退治の妙手あり? ~ 幼き頃の恐怖が蘇る 

2016年05月04日 18時58分23秒 | Weblog
 最近、夜の外出が億劫になってきた。
一日の平均歩数が5000歩を下回る月が2ヶ月続いた。
少なくとも10000歩以上歩いた日がひと月に5日以上あったのに、この2ヶ月間は一度もない。
4月に入り「これでは人の手を借りるようになってしまう」と多少奮起しているところである。
 そんな折、ちょっと遠出の散歩の帰りに寄った居酒屋での事。
居酒屋の入り口で壁か窓の修理をしていた職人姿の男女二人が、「終りました」と女主人に告げながら入ってきた。
男はわたしの左隣の椅子をひとつ空けてカウンターに座った。
「ご苦労さん」といいながら女主人は生ビールを注いだ。
仕事の経過報告でもしているようだが方言なので、確かと理解できない。
長い間、職人風の男と女主人の会話が続いた。
・・・女主人と書いたが、客はママと呼ぶ。
わたしも、右に倣えでママと呼んでいる。
過ってはスナックかバーであったろうという雰囲気が残っている店ではある。
その間に、二人の初老の男が入ってきた。これを機にママとの長い、賑やかなやりとりは漸く終った。

 矢庭に、「初めてですよね」と職人が声をかけてきた。
勿論、初対面である。
職人はグラスを上げる。「はじめまして、よろしく」の無言の乾杯である。
最初の頃は戸惑ったが、今ではこれが沖縄流と合点しているので私もグラスを上げた。
「わたしは○○といいます」と名刺を出して来た。
「わたしは現役を退いて久しいので名刺はありません」と丁寧に断ると、透かさずママが
「ノラさんていうの」と助け舟を出してくれた。
「ノラさん???」と男。
「そう野良猫のノラ」とママ。
「いや!野良猫じゃありません。野良犬のノラです」とわたし。
犬と猫とどう違うといわれれば身もふたもないが、猫といわれるのは嫌である。
沖縄では野良猫のノラ?とよく云われる。本土では概ね犬だったのだが。
名刺には沖縄に多い苗字だ。仮に、Oさんとしておこう。
「シロアリ駆除ですか」少々驚いてたずねた。先日、ママから「建て替える」と聞いたばかりであるからだ。
「そうです。最近はシロアリ駆除の仕事が少ないものですから雑仕事もやってます」
真面目そうな顔でニッと笑った。
名刺のシロアリの後にゴキブリ、アリ駆除と書いてある。
「ゴキブリ駆除もされるのですか」はじめて見るゴキブリ駆除であった。

 私は数週間前のゴキブリのことを思い出した。
「先日、夜中に台所の電気をつけたところ、大きなゴキブリが蛍光灯が煌々と照る床で、触手みたいな長いヒゲをゆらゆらさせながらじっと私を睨みつけているのです。微動だにしないのです。得体の知れない恐怖にぞっとしました。今までなら、新聞紙か雑誌で叩き潰すのですが、この時ほどゴキブリが恐ろしいと感じたことはありません。蚊用のフマキラーがあったことを思いだし、取り出して戻ってみたら、もういませんでした。台所の下の収納庫から水屋の隙間までフマキラーを撒き散らしました。ゴキブリが怖いと感じたのは初めてです」
あの夜のことを思い出しながら一気に喋ってしまった。
「ゴキブリは怖いですよ。長生きしたゴキブリは攻撃してきますよ」とOさんはいう。
「ゴキブリが人間を攻撃するのですか?」半信半疑、私は聞き返した。
「なれてしまえば、動物はみなそうです」容易に、私は納得した。

 そういわれればと,彼の話を聞きながら、子供の頃の恐怖の出来事を思い出した。
「ニワトリ」に襲われた。4,5歳の頃だと思う。
町内の路地裏にある家で数羽の鶏を飼っていた。チャボと「コーチン、コーチン」と言っていたから名古屋コーチンだろう。
ニワトリは庭に放し飼いになっていた。その家には板塀を張り巡らしていた。
その板塀の外は広くなっていて、子供等の遊び場だった。
或る日、私は数人の悪ガキと遊んでいた。
そろそろ遊び疲れたころ、その中のひとりが「ニワトリがいる!」と叫んだ。
板塀の下の隙間からニワトリが見えた。
それぞれ細い棒切れを探してきて、隙間からニワトリを突っついてからかい始めた。
ニワトリどもは恐慌状態でコココ、コココと狭い庭を逃げ惑う。その内、雄鶏は差し込まれた棒に勇敢に挑みかかってくる。
なお執拗に棒でニワトリを追い回していると、突然、頭上で「カカカア」と声がしたかと思うと同時に頭に羽音が響いた。
塀を越えて、雄鶏が襲ってきたのだ。
皆一目散に逃げた。どう逃げたか思い出せないが、あの時の恐怖は忘れられない。
そこは公衆浴場への道筋だったので、その板塀の傍を通る度に雄鶏が今にも飛びかかって来そうな気がして、一目散に走って通り過ぎたものだ。

 もうひとつ。「大人しい動物」のようにいわれる山羊に追われた。
終戦間もない小学校3年生の時。
当時、生徒数が多く、3年生は本校から1キロほど離れた分教場に移された。
校舎は旧陸軍兵舎で木造平屋建が2棟あった。
冬になると隙間風が寒くて震えながらの毎日であった。
小さな運動場の傍を小川が流れていた。運動場と土手の境目には、いつも山羊が繋がれていた。
 放課後の或る日、幼馴染で同級生のヒー坊達と運動場で遊んでいた。
その内、ひとり去り、ふたり去りして、ヒー坊と二人っきりになった。
遊び疲れた私たちは、棒切れを探し出して運動場の端っこの小川の土手に繋がれていた一匹の黒山羊をからかい始めた。
最初の内、山羊は目を白黒させて逃げようとするが、繋がれているので逃げることが出来ない。
その内、山羊は私達に向って頭を下げて、猛然と挑みかかろうとする。
安全な距離まで逃げては、また近づいて棒で叩く。
棒と言っても、その辺に生えている笹竹をへし折っただけのものだから威力はない。
夕陽が家々の屋根に隠れ始めた頃、「帰ろう」というヒー坊の声で、山羊から十数メールほど離れたとき、
「わーっ」とヒー坊が叫びながら、一目散に校門目がけて走り始めた。
振り返ると綱を引き千切った山羊が、猛然と私に向って突き進んでくる姿が目に飛び込んだ。
ヒー坊の後を追うゆとりはない。
私は、咄嗟に校舎に駆け込み、入り口の戸を閉め、廊下から外を見た。
窓の下で、例の黒山羊が私を見上げ、睨みつけながら、右左に云ったり来たりしていた。
私は震えた。
入り口のドアから入ることが出来ないと知った山羊が、戻って来てわたしを追い詰めようとしている。
そう考えただけで竦み上がった。

 「窮鼠かえって猫を咬む」とは母の口癖だった。
「弱いものをいじめるのは男の屑だ」とは、母の戒めであった。
ニワトリの件も、山羊の件も母はおろか誰にも話したことはない。


「ゴキブリ駆除を業者に頼むのは無駄です」とOさんは、突然、話題を変えた。
ビールが好きなようで中ジョッキー2杯をすでに空けていた。
「駆除業者は駆除は一回だけしかやりません。その一回だけではゴキブリは退治できません。一回の駆除で4,5万はかかります。無駄なことです」と話は続く。
「ゴキブリの免疫力は物凄いです。ゴキブリは卵を抱いています。親が殺虫剤をかけられたとき、びっくりして死ぬ前に卵を産み落としてしまいます。卵は4,5日で孵化します。卵から孵った子供がその消毒液に対して耐性をもって生まれてくるので同じ駆除剤は通用しません。
そういうことですから、ゴキブリ駆除は自分でやるのが一番です。ゴキブリ駆除にはバルサンがいいです。バルサンを天井、床、床下にそれぞれ置いて駆除します。それを一週間毎に4回やれば完全に駆除できます。バルサンは3種類あるから、4週間目に最初使った駆除薬を使います。一万数千円でできるでしょう」
妙に説得力があった。
集合住宅に住んでいる私には無理な話だが、一戸建ての住まいなら試してみたいと思った。



 かの居酒屋のある屋富祖大通り。過っては、沖縄を代表するような繁華街であったらしい。
今ではその面影もない。屋富祖大通も今では「年金通り」といわれているらしい。
ひと通りの人生を終えた人々が、その余生を過ごす町に変貌しているのだ。
概ね、屋富祖、城間、仲西、小湾といった近所の人たちが多い。
時には、現役時代を懐かしんで那覇市、糸満市、宜野湾市や沖縄市から来る。
私のように県外から来た人間には戸惑いも多いが、沖縄の文化や生活に接することが出来る。




 イッペーの季節はとっくに過ぎて、デイゴの咲く頃となった。
左が実となった4月14日の写真・右が3月8日に写したもの。





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