あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

行ってみたかった横浜・川崎 ~ 南武線南多摩駅から多摩川を渡る③

2019年06月26日 17時44分21秒 | Weblog
 南武線を降りて南多摩駅を出ると、以外に完成な郊外風景だった。
左手に直ぐにホテルらしき建物がある。見渡してもホテルらしきビルはない。
眼の前である。
看板に目をやると「東横イン」とあった。目的のホテルである。
 トイレで一旦下車したとき、妹には電話をしていた。
「駅まで迎えに行く」というから断ったが、家から10分少々というから承諾した。
夕食は外で、奢ると云ってあるから帰りは遅くなる。
先にチェックインをしておこうとホテルに入った。
チェックインを済ませ、荷物はフロントに預けることにした。
ホテルを出て改札口まで戻ったが、出迎えらしい人影はなかった。
あらかじめ、ネットで調べた地図をみながら左手の大通り、府中街道に出た。





 府中街道に出たところで信号は赤になった。
道の向こうに老人夫婦がいる。
信号が青になったが老夫婦は渡って来ない。
渡り切ったところで二人が妹夫婦であることに気付いた。
太っちょの妹であるが、ずいぶん小さくなっている。
「わからなかったぞ」
というと
「兄ちゃんも爺さんになったね」
これが,7年ぶりにあった兄妹の最初の会話である。
 多摩川にかかる橋に向かって広々と明るい府中街道を歩く。
ツツジが盛りを過ぎているのだろうが、咲き残るツツジをあちこちで目にした。。
沖縄とは季節が2ヶ月は違うなと思った。



 昨年、妹は転んで腰の骨を折った。
その後、順調に快方に向かっているということであったが、半年後、足の小指の骨が折れていることが分かった。
通院中は旦那が家事をしてくれたらしい。
今では、妹が家事ができるようになったらしいが、旦那がこまめに手伝ってくれるということだった。
身体に故障が出ると人間はみるみるやつれてくる。
弱音を吐かぬ妹の後ろ姿にふっと胸を疲れた。


 多摩川にかかる大きな橋に出た。



 「大きな河だな。この橋だって300mはあるだろう」
久し振りに河に出会った。
「多摩川。200mくらいじゃない?ねえ、おとうさん」
「う、うん。そのくらいかな」
口数の少ない、温厚な旦那さんである。
小柄で、見た目には60歳代後半にしか見えない。
80歳を過ぎているのに足取りも若々しい。


 「あの鉄橋が総武線」
ここに来て、山を見たことがないことに気付いた。
「山を見なかったなという「遠くには見えるよ」



 「あれが住んでいるマンション」と川向うの建物を指差す。
「え?川筋だったっけ?」
6,7年前に来たときは、甥の車で送り迎えされたから一向に景色は目に入らなかった。



 橋の中央から総武線の鉄橋を見る。



 橋を渡り切る。
妹たちが毎朝、毎夕眺める河の景色なのだ。



 ふと河原に目を落とすと鳥が遊んでいた。



 妹は昨年、転んで腰の骨を折り、数カ月後足の小指を骨折していた事がわかり、リハビリの通院に明け暮れた。
今年に入り、家事はできるようになったらしいが、それでも体を動かすのは容易ではないらしい。
「大変だったろう。痛いのはつらいよ」
炊事・洗濯は夫がやってくれたという。
今でも、洗濯や掃除は夫が黙って手伝ってくれるらしい。
私より3つ上の旦那は小柄で、いつもニコニコしている柔和な人柄である。
怒ったり、大声を出すようなことはないそうである。
「すみませんねえ。迷惑かけます」そういって、何か場違いな言葉だったかなと公開した。
「いえいえ、何も出来ないから・・・」と、ニコッと照れ笑いする。

 小1時間後、沖縄から送った宅配便が届いた。
ダンボールに店頭に並べられたいた商品を取り上げて、包装もない姿で詰めたままである。
「おみやげじゃないぞ。美味しいと思った菓子を詰め込んだ。値札も付いている」
 年末、沖縄料理の出来合いの冷蔵、冷凍ものを送った。
温めるだけでいいからと沖縄そば、三枚肉、テビチなどだ。
ところが、気味が悪いとどの食品にも手をつけなかったらしい。冷凍庫に眠っているという。
「俺が行くから、一緒にたべよう」
と云ったものの、この日はすっかり忘れていた。

 「寿司でも取ろう」と妹。
「電話でいったとおり、お前たちが食べに行く店で食べよう。今夜は俺が奢る」
酒も飲めるこざっぱりした店で妹夫婦と他愛ない話題で過ごしたかった。
「この辺りはお店はないよ。そば屋かファミリーレストランだけ」という。
「居酒屋か小料理屋があるだろう」
「そんな店ないよね」と旦那の顔を見る。
「無いねえ」
さもありなんと、駅前の景色を思い出した
「府中駅はここからふた駅だろう。府中まで出よう」
ゆきあたりばったりはお手のものである。
「兄ちゃんに任せろ。取り敢えず、府中の中心街まで行こう」
と渋る妹の背を押す。
 歩いて5分足らずで府中駅行きのバス停に出た。
バスに乗る。
窓外の景色に見とれていると緑に囲まれた精悍な通りに出た。
「ここが府中競馬場」妹が言った。
「ずいぶん長い間、競馬場には行ってないな。小倉にいるときは小倉競馬場に場外馬券を買いに行った」
「6月頃は小倉競馬があったから子どもたちを連れてよく行ったよ」
幼稚園児の子どもたちを連れて行ったことを思い出した。
馬券を買うだけでレースを観ることもなく、子どもたちと遊んだものだ。
「きょう教えたストレッチを毎日やるんだぞ。やってるかどうか確認にまた来る」
「沖縄には競馬場はないからな。府中競馬場に来る。楽しみができた!」
本気でそう思った。

 バスは20分あまりで、府中の繁華街だというところで降りた。




看板を見て歩く。
手頃な店を探しながら歩く。
知らぬ土地で、大した情報もなくさまよい歩くことこそ旅の醍醐味であると信じているから苦にはならない。。
道々会話を交わしていてわかった。
この夫婦はお酒は一切受け付けないのだ。
これじゃ一緒に探すのは無理である。
 和風の一軒をみつけて入った。
座席は小部屋になっていて雰囲気もまあまあだった。
妹は肉料理。旦那はなかなか決まらない。
ふと、博多「もつ鍋」というメニューが目に止まった。
「博多料理だろう。こんなものが調布で食えるのかなあ?」とつぶやくと
「それにしましょう。何十年も食べてないから」と妹の旦那。
「え?食べたことあるの?」少々驚いた。
「博多で何度か食べました」
「そうか、じゃそれにしよう」と、私も数年ぶりだったから「もつ鍋」に決めた。
値段は博多の倍以上である。
こんなに出すくらいなら悪くはないだろうと思った。
これが大失敗だった。
まずいというだけではない。どこにも「もつ鍋」らしき味も材料もない。
半分食べ残して、もう一品とって退散した。
「ごめんね。次に調布競馬に来たとき、もっと美味いもの食いに行こう」何とも様にならぬ言い訳をした。

 それでも談笑はたのしかった。
帰りはタクシーを拾い、妹夫婦を途中で下ろしてホテルに帰った。


<余談>6月25日・26日
 きょう、初めてベランダ栽培したキュウリを2本収穫した。
30cmほどに大きく実が成った。
丸ごと塩で揉んで冷蔵庫に入れた。
明後日の夕食くらいまで「漬物」になる。ささやかなたのしみである。


 昨日収穫したのに、次の予定のものが大きく成長していた。

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行ってみたかった横浜・川崎 ~ はじめての京浜急行・総武線 ②

2019年06月17日 17時25分25秒 | Weblog
 過去の首都圏の行動は、飛行機を降りるとビルの外に出ることなくモノレールに直行した。
先年、妹を訪ねたときは妹の次男坊が来るまで出迎えてくれた。
空港ビルを出たとき、その変貌ぶりに驚嘆したものだった。
 今日は電車で行くと言ってある。
何時も通りなら、モノレールに乗り、浜松町で降り、山手線で新宿に向かい、中央線のなんとか駅で西武線に乗り換え府中の是政で下車。
何と乗り換えの多いことか。
ネットで調べるが、どれも面倒だ。
「京浜急行は便利だ」「横浜・川崎に行くのは京浜急行に限る」と幾度となく聞いた事がある。。
妹の住所で位置を地図で確認すると南武線の南多摩駅が近い。
最悪タクシーを使えばいいさ、と京浜急行で川崎まで行き、川崎から南武線で南多摩に決めた。
 東京の案内看板は実に分かりやすい。
迷うことなく京浜急行乗り場に出た。
相変わらず、東京は人、人。
昼過ぎの平日というのにこの混雑ぶりである。その混雑ぶりに懐かししい安堵感さへ覚えた。
程なく川崎駅に着いた。



 川崎駅からはJR川崎駅に行かねばならない。
改札口の駅員に道順を尋ねる。
「そこを左に曲がって真っすぐ行けばすぐJR川崎駅です」



 駅を出ると矢印でJR川崎駅と看板があった。





 何本もの大通りや小さな通りがある。この辺のはずだがと探すが、駅らしい建物はない。
スクランブル交差点を渡ってきたスーツ姿の似合う初老の男性をつかまえて訪ねた。
「眼の前のビルです。ぐるっと回れば駅の入口に出る」
この辺だと当たりはつけていたが、指差された大きなビルは駅舎らしくない十数階建てのファッショナブルな白いビルだった。
ビルを半分ほど回ると大きな階段がビルの奥に見えた。
これなら駅だ。
ビルの名前はどうみても商業施設らしい名前だった。
このような洒落たビルにJRの駅があるなんて、想像だにしていなかった。
京浜急行の川崎駅に着いたときも、「キュウポラのある町」をイメージしていたのに「工場」の影も、匂いもないのには驚いた。
駅を出た瞬間も、大都会に面食らったものだ。
 

 南武線に乗り混んだ。ここも満員状態である。
ずいぶん立たないとならないかなと思っていたら、斜め前から30過ぎと思われる女性から
「どうぞ」と席を譲られた。
この年になっても、席を譲られると嬉しいより、恥ずかしくなる。
だから、席近くには絶対立たないことにしている。
この日はゆ出してしまった。入口近くのポールに縋っていたのだ。
油断した。
「ありがとうございます」
できるだけ大きく、はっきりとお礼を言って座った。せめてもの、老人の若さのアピールである。
 電車が。川崎駅を出て10分ほど経つと尿意を催してきた。
飛行機を降りる前に用足しに行ったきりである。
車両にトイレがあったかどうか確かめてない。
満員状態だから身動きすら容易でない。
考えあぐねた結果、次の駅で降りて、次の電車に乗ろうと決めた。
電車が止まった。人をかき分けて降りる。
改札を出なければならないだろうと急ぎ足でホームを歩いていたら、あった。
「化粧室」のサイン。危機一髪だった。
感謝を込めて一枚撮った。



 この一枚が記憶に残すべき一枚になろうとは思いもしなかった。
この駅は、先日通学バス待ちの学童の列に刃物を持って切り込み、20人ほどの人を殺傷したあの忌まわしい事件。
事件ののあった登戸駅のひとつ手前の駅だった。
ホームの行き先案内で見た「登戸」の文字が妙に印象に残ったからでもある。
 10分も経たぬ内に次の電車が入ってきた。


 降り立った南多摩駅は電車の混雑ぶりとは打って変わって、静かな郊外の駅だった。
ここは府中市の外れである。
予約していたホテルは駅を出た左に見えた。
インターネットで探したけれど、予約のできるホテルはこの一軒だけであった。
駅の周囲を見回しても、他にホテルらしき建物は見当たらなかった。
時計は14時を回っていた。
チェックインを済ませ、妹の住むマンションに向かうことにした。


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行ってみたかった川崎・横浜 ~ ① 東京行の機中で

2019年06月13日 18時27分16秒 | Weblog
 東京にいる妹を訪ねてみようと思い立ったのは正月明けであった。
昨年、腰の骨を折ったが、順調に回復したということだった。
電話では快活な明るい声ではあったが、運動不足などで体力が衰えているだろうと気にかかっていた。

 2月には日程を決め、取り敢えず便だけ予約した。
東京には仕事で数えきれないほど行ったが、目的を達したら、とんぼ返りばかりだった。
 横浜には一度だけ立ち寄ったことがある。
列車を降りて、横浜駅前のレストランで娘と昼食を食べただけだった。
これじゃあ、横浜に行ったことにはならない。
そんなことで、妹の元気な顔をみたら横浜・川崎を歩いてみようと決めた。

 5月中旬。
那覇空港10時発の全日空機で那覇を発った。
薄めのジャケットに長袖のスポーツシャツ、所謂、春の気候に合わせた。
この頃、日本全土は冬になったり、夏になったりの不安定な気候だったので、バッグには半袖のポロシャツと長袖のアンダーシャツと長裾の下着を入れた。
お土産は数日前、沖縄の菓子類を買い込み、ダンボールに詰め込んで宅急便で送ってあったから身軽だった。
 沖縄を離れるのは5,6年振りだった。
5年前、免許証を自主返納したから、空港には出迎えも、見送りにも来ることがなかった。
久しぶりの筈なのに、以外に時の流れを感じることはなかった。
空港ロビーの賑わいも、売店の陳列も搭乗口で待つ人々の列も変わらなかった。
搭乗の際、機内に入るところで「新聞は・・・」と問うと、
「新聞は積んでおりません」と中年の女性スチュワーデス、否、客室乗務員から言われた。
席について、落ち着いて機内を見渡すと、通路を行き交う乗務員たちがほとんど中年だった。
やはり時代は変わっているのだと苦笑いした。

 窓外の景色を楽しもうと窓側の席を予約していた。
離陸するときは、ほぼ満席だったので助かった。






格納庫の前の駐機しているのは海上自衛隊の哨戒機P3Cだろう。
10数年前、あのP3Cに乗って、ここから尖閣列島上空を飛んだ事を思い出した。


 糸満上空。
曇りであったが、市街を見下ろすことが出来た。



 離陸後、直ぐに外界は雲海に一変した。
雲海をぼんやりと見下ろすのは嫌いではなかった。
遠くに盛り上がる雲は、時には雪を抱く高山の峰にも見えた。
ときには雲海が広く切れて、まるで湖のようにも感じた。
想像を逞しくしたものだった。
 きょうの空には魅力を感じなかった。
こういうときは機内で新聞を隅々まで読み、退屈な時間を過ごしたものだった。
その新聞のサービスはないという。
座席に取り付けられた袋から雑誌などを漁る。
イヤホーンを使ってみるがすぐに飽きた。

 隣席の中年男性から声をかけられた。うとうとしていたらしい。
通路にワゴンを押す乗務員がなにか言っている。
一段と耳が遠くなったらしい。
面倒だからコーヒーを頼んだ。
有料だったか、サービスだったか、一ヶ月を過ぎた今は記憶にない。
 隣席の男性の話が面白かった。
今年65歳になるという。
歳を聞いて驚いた。50代前半と思っていた。
今年、引退するつもりだという。
会社を経営しているという。
 「観光税というか沖縄観光に来る人から500円取ろうかという案が検討されているらしい」
とこの若々しい、エネルギーに満ちて、話し上手な彼に話題を投げかけてみた。
彼は知らなかった。
「新聞で一度見かけただけですから・・・」とことわりを入れた。
このことが契機となって、彼からとてつもなく面白い経験談を聞くことになる。
話の内容は割愛するが、彼のアイデアとその行動力には突き動かされるような衝動を感じた。
これほど心を動かされたことは10数年なかった。
「これからの沖縄を、沖縄観光をどうするか」というものであった。

 気が付いたら、機は着陸態勢に入っていた。
「その案は捨てないで、なにか方策があるかもしれませんよ」
別れ際、携帯番号を交換して別れた。
 30年前、沖縄に来たとき、驚いたことがふたつあった。
ひとつは、「日本で最後の大和撫子が残っている」ことと、
いまひとつは、地方なら、当然県外に出ていたであろう「才能ある素晴らしい先輩たちがいる」ことであった。
縁あって、その先輩たちの酒席に同席することになった。
ゴルフもした。旅行もした。
驢馬が駿馬の群れに紛れ込んだようなものだった。
彼と別れて、ふと、その事を思い出した。

 滑走路に入ったところで、この写真を撮るのが精一杯だった。


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