5月18日早朝。
ようやく、思い立って早朝散歩を2年振りに始めた。
最初の目的は浦添総合運動公園外周道路のガジュマルの並木だ。
そろそろ開花を始めたであろうと思ったからである。
久し振りの梅雨の晴間、久方ぶりの早朝の風も、動き出す前の新鮮な町の雰囲気も懐かしかった。目当てのデイゴの花は漸く咲き始めたところだった。
最初にデイゴの花に出会ったとき、毒々しい赤色と花らしくない肉厚の花びらが気味悪く嫌いだった。
ところが、暑い沖縄の夏を何度か過ごす内に、いつの間にか沖縄の初夏にはなくてはならぬ花になってしまった。痘痕も笑窪の類だろう。
ここ数年、県内のあちこちのデイゴの古木が抜き取られてしまった。
花が咲かなくなったからだという。
そういえば、これ等の木では数年も咲いた花を見ることがなかった。
この日のように、デイゴの花が元気よく咲いているのをみたのは何年振りだろう。
「糸満ハーリーの鉦が鳴ったら梅雨は明ける」という。
糸満ハーリーは旧暦5月4日に開催される。今年は6月1日だ。
6月に入れば夏の太陽に真紅の花を枝いっぱいに見せてくれるだろう。
がじゃんびら公園は那覇空港に近い丘の上にある小さな公園である。
道路から住宅地に入ると直ぐに丘の上にあった。
公園から那覇軍港が眼下に広がる。
58号線に沿ってある軍港だから見慣れていたはずが、その広大さには驚いた。
国場川の河口を挟んで手前が那覇軍港、向うの街並みが那覇市西町、東町一体である。
対岸の岸壁は那覇港だ。
50年ほど前、鹿児島港からひめゆり丸に乗って初めて沖縄を訪れた。
あの時上陸したところがあの岸壁だったのかと、当時を思い起こして胸を熱くさせたことどもが蘇ってきた。。
当時は復帰前で、身分証明書という旅券に替わるものを県庁で発行してもらい、入域許可証というビザをアメリカ領事館で取得しなければならなかった。
2ヶ月ほどかかったものだ。
1ドル360円の時代で外貨の持ち出しは厳しく制限されていた。500ドルだったろう。
上陸すると今のような活気はなく町はくすんでいた。
大きなビルはなく、モルタルの打ちっぱなしの灰色のビルが並び、看板はビルや建物の壁に直接描かれた粗末なものであった。
小学生の頃、食べることがやっとだった終戦直後のような錯覚を覚えた。
若い頃であったが、本土と30年の遅れがあると衝撃を覚えた。
表通りではあの当時の面影はなくなり、今はすっかり変ってはいる。
しかし、路地裏に入るとあの頃の姿を留めた家屋を目にすることがある。
昭和27年4月28日、日本はサンフランシスコ講和条約によって独立した。
その時、沖縄は日本から切り離され、米軍の施政下に入った。
沖縄の人々はこの日を「屈辱の日」として忘れることはない。置き去りにされた、身代わりにされたと感じている。
今年も東京で独立記念式典が行なわれることに沖縄のマスコミは挙って沖縄県民感情との意識に理解できぬ乖離感があると痛切に批判した。
いくつもの事例を挙げながら、沖縄の戦後は終ってないという。
左はるかに見える白いビルはロワジールホテルであろうか。
青い海、碧い空、燦々と降り注ぐ南国の太陽。
平和そのものに感じる沖縄にいて、ふと吹き抜ける風に寂寥を今日も感じた。
公園の目立つ場所に歌碑を見つけた。
美空ひばりが歌っていたという歌詞が刻まれていた。
作詞作曲も著名な人だが聞いたこともない「花風の港」だった。
早速、調べてみた。You Tubeでみつけた。
わかったことは美空ひばりが歌った唯一の沖縄の唄だということだ。
美空ひばり自身が歌ってないのが残念であるが、下記の「花風の港をクリックされたい。
題名は「花風(はなふう)の港」。
美空ひばり本人が歌う楽曲が日本コロンビアの有料ダウンロードにあった。
よろしかったらクリックおねがいします
ようやく、思い立って早朝散歩を2年振りに始めた。
最初の目的は浦添総合運動公園外周道路のガジュマルの並木だ。
そろそろ開花を始めたであろうと思ったからである。
久し振りの梅雨の晴間、久方ぶりの早朝の風も、動き出す前の新鮮な町の雰囲気も懐かしかった。目当てのデイゴの花は漸く咲き始めたところだった。
最初にデイゴの花に出会ったとき、毒々しい赤色と花らしくない肉厚の花びらが気味悪く嫌いだった。
ところが、暑い沖縄の夏を何度か過ごす内に、いつの間にか沖縄の初夏にはなくてはならぬ花になってしまった。痘痕も笑窪の類だろう。
ここ数年、県内のあちこちのデイゴの古木が抜き取られてしまった。
花が咲かなくなったからだという。
そういえば、これ等の木では数年も咲いた花を見ることがなかった。
この日のように、デイゴの花が元気よく咲いているのをみたのは何年振りだろう。
「糸満ハーリーの鉦が鳴ったら梅雨は明ける」という。
糸満ハーリーは旧暦5月4日に開催される。今年は6月1日だ。
6月に入れば夏の太陽に真紅の花を枝いっぱいに見せてくれるだろう。
がじゃんびら公園は那覇空港に近い丘の上にある小さな公園である。
道路から住宅地に入ると直ぐに丘の上にあった。
公園から那覇軍港が眼下に広がる。
58号線に沿ってある軍港だから見慣れていたはずが、その広大さには驚いた。
国場川の河口を挟んで手前が那覇軍港、向うの街並みが那覇市西町、東町一体である。
対岸の岸壁は那覇港だ。
50年ほど前、鹿児島港からひめゆり丸に乗って初めて沖縄を訪れた。
あの時上陸したところがあの岸壁だったのかと、当時を思い起こして胸を熱くさせたことどもが蘇ってきた。。
当時は復帰前で、身分証明書という旅券に替わるものを県庁で発行してもらい、入域許可証というビザをアメリカ領事館で取得しなければならなかった。
2ヶ月ほどかかったものだ。
1ドル360円の時代で外貨の持ち出しは厳しく制限されていた。500ドルだったろう。
上陸すると今のような活気はなく町はくすんでいた。
大きなビルはなく、モルタルの打ちっぱなしの灰色のビルが並び、看板はビルや建物の壁に直接描かれた粗末なものであった。
小学生の頃、食べることがやっとだった終戦直後のような錯覚を覚えた。
若い頃であったが、本土と30年の遅れがあると衝撃を覚えた。
表通りではあの当時の面影はなくなり、今はすっかり変ってはいる。
しかし、路地裏に入るとあの頃の姿を留めた家屋を目にすることがある。
昭和27年4月28日、日本はサンフランシスコ講和条約によって独立した。
その時、沖縄は日本から切り離され、米軍の施政下に入った。
沖縄の人々はこの日を「屈辱の日」として忘れることはない。置き去りにされた、身代わりにされたと感じている。
今年も東京で独立記念式典が行なわれることに沖縄のマスコミは挙って沖縄県民感情との意識に理解できぬ乖離感があると痛切に批判した。
いくつもの事例を挙げながら、沖縄の戦後は終ってないという。
左はるかに見える白いビルはロワジールホテルであろうか。
青い海、碧い空、燦々と降り注ぐ南国の太陽。
平和そのものに感じる沖縄にいて、ふと吹き抜ける風に寂寥を今日も感じた。
公園の目立つ場所に歌碑を見つけた。
美空ひばりが歌っていたという歌詞が刻まれていた。
作詞作曲も著名な人だが聞いたこともない「花風の港」だった。
早速、調べてみた。You Tubeでみつけた。
わかったことは美空ひばりが歌った唯一の沖縄の唄だということだ。
美空ひばり自身が歌ってないのが残念であるが、下記の「花風の港をクリックされたい。
題名は「花風(はなふう)の港」。
美空ひばり本人が歌う楽曲が日本コロンビアの有料ダウンロードにあった。
那覇軍港が一望できる[がじゃんびら公園]
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