牧港川河畔の道路脇に、いろいろな種類の木が植えられている。
管理板には3種類の木の名しかないところみると、近隣の住民が植えたらしい。
植えられた気を引っこ抜いたのではないだろうから、枯れた後に植えたらしい。
グアバやシークワサーらしき木もあれば、バナナも数本植えられている。
5月初旬、歯科の帰りに見つけたバナナの房が、
昨日の帰りに見た時にはかなり大きくなっていた。
写真の右手奥には大きな生協のスーパーがある。人も通れば車も通る。
2年前もそうだったが、食べ頃じゃないかと思うころまであった。
通常、スーパーで売られているフィリピン産のバナナの半分くらいの「島バナナ」で、
沖縄の人が好んで食べる。
写真の房も手の届く近さにあった、
昭和31年中学3年生だった。
初夏の頃だったと思う。
授業前の朝のホームルームの時間に、職員会議を終えた担任の先生が飛び込むように興奮して入ってきた。
「二日後、テレビが映される。玄関を入ったところで放送が見られるから、みんな見に行くように!」
というようなことだった。
「テレビの時代が来る。世の中は一変する。
今は、薬局に行かなければみることができない薬を映画のように実物を見ることが出来るぞ。
何に効く薬か、丸い薬か粉薬かを家庭に居て見ることが出来る」
そのようなことを言った。
今に思えば、何故薬と言ったのか、少々滑稽ではあるが、皆、驚いて聞き入ったものだった。
テレビが来たその日の映像は白黒で、画面には白い錠剤が薬瓶からコロコロ転がってテーブルに出てくる。
それだけだっt.ちょっとがっかりしたが、映画館が茶の間に来たように感じた。
テレビの興奮が学校中を覆っていた頃、国語の先生が国語とは無関係に話し始めた。
かなり長い話だった。
「アメリカでは土地が品物を買うように商品化し、流通している。日本がアメリカのようにモノを消費するという文化が浸透すれば
日本は良くなる」
当時、中学生にはチンプンカンプンの話だった。
土地が商品になり、流通化する、という言葉だけが残った。
今、パソコンを買い替え、操作に悪戦苦闘している。
マニアなら変わった操作や記号や言葉などは難なく熟してしまうだろう。
独学で必要なものだけを使ってきた者には、最初からやり直しみたいなものである。
何処がどうだと言われても枚挙に暇がない。
パソコンを替えて4ヶ月も経つが、一向に慣れない。
「XP」から「7」にしただけなのにこのざまである。
「XP]のドライブが壊れて右往左往していた時の事は前に触れた。
あの「多分、日本一安いパソコン修理屋」さんが言った。
「[10]も改善されたものが出てくるでしょう。XPに近いのは”7”です」と。
2,3年待てばいいのだと即座に決めた。その機種がこうなのだ。
同じような機能が形を変え、場所を変えているから、見つけ出すのに苦労する。根気が必要だ。
移動したファイルは20%も開けていない。
ソフトなどは全く使えないものもある。
「良いソフトです」と青色申告会から勧められたソフトも、使えないどころか観ることもできない。
メーカーに電話するが、いつも
「ただいま電話が非常に混み合ってます。そのままお待ちいただくか、ホームページでもご案内・・・」
これの繰り返し、一週間後にようやく繋がったら、
「そのソフトは終了しています。方法はありません。最新版に買い換えをお勧めします」
一事が万事、世の中の商品がみなそうであろう。
20年ほど前、ある電気屋がぼやいた。
「テレビの修理はお客さんの前では中は見せられません。小さなボックスがあるだけです。
これがこんなにするのか!と必ず言われます」と。
「また、下手に手を出すととんでもないことになります。ある箇所のセットだけを交換するだけです」とも。
生産は続く。在庫は貯まる。何処かで入れ替える必要が出てくる。
いつまでも使える商品は困るのである。
いつかそうした消費型資本主義の考えが日本の社会に浸透してしまった。
いや人間だって困るのだ。新しい事を教えるのも、引き継ぐのも同じ労力が要る。
それなら、人件費の安いほうがいい。一年前まで、日本の社会はそれで来た。
今頃になって、「高齢者の活用」だの「働き型改革」など言っているが、日本社会の底流は変わっていない。
「戦争は必要悪だ。兵器は開発され、古い兵器は必要なくなる。それを使わなければ、新しい兵器を製造することできなくなるし、
兵器メーカーも立ち行かなる」といった友人がいた。
「唐突もないことを言う奴だ」と皆、笑った。しかし、妙に頭に残った。
今思い起こしてみると、あいつの言葉が真実味を帯びてくる。
「戦争は最大の消費」だとも言っていた。
旅行会社にいた頃、20代後半から30代にかけてヨーロッパに3度ほど添乗で行ったことがある。
「一度はヨーロッパを見ときなさい」と料理教室の著名なO先生から言われた。
O先生の父上は外交官で大使を歴任されたということだった。
その頃、日本は外貨が乏しくて仕事以外での渡航は厳しく制限されていた。その規制もやわらぎ始めた頃でころである。
先生の指導で「ヨーロッパ食べ歩き」を企画した。26日間ほどの長旅である。
「今、日本はアメリカ、アメリカで沸き立っているけれど、ヨーロッパは違うよ」
「ヨーロッパは都市じゃなくて田舎がいいの。旅はみなそうだけれど、都市は何処も同じ。
田舎は違う。その国の歴史や文化がわかる」
「ウイーンのレースカーテンは素敵よ。一生使えるわ。家具だってそう、何代も使うしね」
この旅で多くの事を学んだ。
「嫁入り道具」なんて今は死語になってしまっているのじゃないか。
一番印象に残ったのは「レースカーテンも一生もの」といったO先生の言葉である。
ベートーベンの生家を訪ねた。
それらの家の家具は清楚なもので、華麗なものはなかった。
それでもきちんとしていて、今でも使えるものばかりだった。
この頃、日本でも「その頃の部品はありません」というようなことは、余程、古いものでない限りなかったような気がする。
その頃は日本中に、職人がいて、「ものを大切にする」「勿体ない」の考え方が社会通念としてあった。
社会通念として未だあったという方が正しいだろう。
「このままだと日本はおかしくなるわ。
アメリカとヨーロッパは同じように考えている日本人が多い。全く違うでしょう。
よくみておくのよ」
鉛筆や消しゴムのように全ては消耗品なのだ。
何十万藻出して買ったパソコンだって、何百万もした車だって消耗品。
軍艦も戦闘機も消耗品・・・・・人間だって消耗品になった。
「カメラの修理代は買った時の価格によって変わります。消耗品だと考えてください」
そう言ったカメラ専門店の店員は、一年後にはいなくなった。
パソコンショップでは、年配の店員は見なくなった。
消耗品のアフタフォローなんて構っていたら新商品は売れない。だから部品もない。
これが現在の普遍的な経営戦略なのだろう。
「商品は全て消耗品」の覚悟が必要なのだ。消耗品としてもとめることが出来る者のみが買えばいい。
そういう観点でみれば、世の中の出来事が変わった形でみえてくる。
パソコン買い替えで、体験したことを支離滅裂であるが思うままに書いてみた。
何かが間違っている。
どこか変だ。
「紙か髪か」などのSF作家の小松左京や司馬遼太郎などはどう言うだろう。
この十年、新刊物は全く読んでない。
古い書物の読み返しばかり。
自ら、消耗品みたいだなと笑った。
<余談>
この記事を書き始めて、丁度、一週間。
読み返す度に誤字脱字、更には意味不明の文など、やたらに多い。
2日ほど置いて読み返す。
沖縄での日記のつもりで書いているのだから体裁など無用だが、その書いた自分でさへ分からない箇所がある。
最近では口癖のようになってしまった「年のせいかなあ」とも言えなくなった。
そうした過日、整形外科で自主トレーニングを終え、帰りのバスに乗り、停留所をふたつほど通り越し「仲西」で降りた。
五時から空いている
「おでん恵美」。早くから開いている店は年寄りにはありがたい。
久し振りに司馬遼太郎」に心髄する恵美ママ(ここでも、皆さん、ママと呼ぶ。ママと読んだほうが華やぐからだろうか)
と「ゆんたく」(おしゃべり)するつもりだったが、先客があって話題はあらぬ方向に。
七時過ぎ、他愛ない話題で時を過ごして店を出た。
店は58号線にあり、夕焼けがきれいだった。若い頃の夕風の香りがした。
58号線、北に向かっての58号線。バス停「仲西」から。
昨年だったか一昨年だったか、一部変換された58号線沿い基地は道路拡張の工事が急ピッチで進められている。
白いフェンスは昔の金網の位置である。
新設された基地との境目は写真左手にみえる。現在の往復6車線が、8車線に拡張される。
58号線は海面より高くなっていて、夕日が沈む西海岸に向かって緩やかに海に落ちる。
海沿いの基地も、海岸線に沿って一部返還された。
この海岸線に沿って、58号線のバイパスとして「浦添西海岸道路」が数ヶ月前開通した。
立派な歩道があるが、今は立ち入り禁止になっている。来年の全面開通まで待たないとなるまい。
屋富祖交差点。南西の空は明るかった。
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