赤レンガ倉庫を出る。
目前に「海上保安庁資料館横浜館」の建物があった。
入ると管内は一艘の小型の船の残骸が展示してあった。
前もっての知識がなかったので、目前に現れた鋼鉄船の錆びた異様な光景に、一瞬、たじろいだ。
入り口近くにいた海上保安庁の制服が似合う50絡みの背の高い、品格のある保安官が説明してくれた。
平成13年12月22日、南西海域で不審船を発見。逃走する不審船を追尾する。
不審船に対する幾度もの停船命令を無視され、不審船からも銃撃されて巡視船は被弾する事態になった。
不審船からの銃撃で保安官3名が負傷した。
更に、威嚇射撃をするも逃走を続けたため巡視船が攻撃。
その後、自爆、沈没するという事件があった。
翌年平成14年10月、沈没した不審船を引き上げた。
ここに展示されていたのはその沈没船である。
奥に進むと階段があり、沈没船の看板を目線と平行に見ることができた。
鋼鉄の船腹を貫通した弾痕。
看板上にある14.5mm対空機関銃移動用レール。
無反動砲の台座か。
第一機関室。
見るからに小舟である。
漁船なら平底であるが、この小舟は船底は鋭利に尖っている。
明らかに戦闘用の軍船である。
この小舟に7人もの人間が乗っていた。
彼等は停船にも応じず、挙げ句は巡視船に体当りを喰らわし、遂には銃撃で反撃し、自爆した。
その凄まじさに身の毛がよだつ思いがした。
これらの人間に対峙した海上保安庁の隊員の思いは如何ほどであったろう。
3人もの負傷者を出して、ようやく反撃したのである。
死と隣合わせの、いや死に直面しても我が身を守ることに、世論を気にしないとならなかったのか。
国境を侵されてもか。
間違って侵犯したのなら、停戦命令に従い、釈明すれば良いことだ。
そうしなかったということは、別に重大な目的があったに違いない。
装備品などを見ると慄然とする。
自衛隊は軍隊、交戦は出来ない。自衛のための防衛だけである。
平和な横浜港を見ながら、釈然としない疑問に駆られた。
記念館の岸壁に停泊する巡視船。
そのスマートで明るい船体からは、生死をかけた壮絶な現場の陰は見えない。
死んでいった北朝鮮の工作員。
どんな使命を帯びていたのだろうか。
戦いの先には、悲しい、己の意思では選択できない強大な力がある。
あの暗い船の中で武器に囲まれながら荒海を渡ってきた。
前の晩、ごろ寝のテントの中で、許嫁の写真をみせてはしゃいでいた新兵が
「隊長殿、撃たれました」と背後から声を上げた。
振り向くと腹を撃たれ、真っ赤になっていた。
そして、最後に「おかあさ~ん」と叫んで息絶えたという。
「若い兵隊は死の間際には、おかあさんと呼ぶ」と涙を浮かべていた。
インパール作戦の事を、語ってくれた小隊長だった支店長は
「戦争は人間を獣にする。敵兵をみると憎しみ以外は湧いて来ない」
「こうした平和なときには、到底、人など殺せない」
それ以降、戦争の話はしなかった。
帰宅して、横浜館の関連記事をネットで探した。
その状況を詳述した記事を見つけた。(ここをクリック)
<余録>
宮崎に勤務していたときのこと。
入り口に2,3本の竹をあしらったスナックに、看板に惹かれて飛び込んだことがある。
そろそろ四十年近くになる三十数年前のこと。
夫婦ふたりでやっている小さなスナックだった。
マスターは明日が出撃という日に終戦になった特攻隊員の生き残り(ママ談)である。
物静かで、寡黙な男だった。
ママはほっこりした小太りの女性で、明るく開放的で、和服がよく似合う女性だった。
いい店で、馴染みになった。
「ノラさんが来ると、不思議にお客さんがみえるの。今日もね」
そんな時は、勘定が破格である。
「だから今日は300円」ときには「100円」と気ままである。
その当時の飲み代は、気^プガあるから3000円が相場であった。
千円札を出して、「釣りは要らない」と妙に格好つけて見せ、好意に甘えた。
ある日、ママが
「この人おかしいの。きのうテレビで人間魚雷のドキュメントをみて、涙を流すの」
「え?マスターも特攻隊にいたんでしょう」
そのとき、あの寡黙なマスターが苦笑いしながら口を開いた。
「我々は確かに死は覚悟していたよ。でも心の何処かで、ひょっとしたらと死ななくて済む、と思える瞬間があるんだ。
でも、人間魚雷は乗り込んで、外からパチンと蓋をされたら、もう出ることは出来ない。内からは開けることはできない。
運良く敵艦に体当り出来ればいいが、燃料が切れたりすれば、そのまま海の底で、ひとり死ぬ以外には道は無いんだ。
それを考えると人間魚雷に乗る彼等は、パチンッとハッチを閉められた時の気持ちを考えると・・・」
と、特攻隊の比じゃないと涙を拭おうともしなかった。
この店には、30前後の若い連中が多い。
飲みっぷりはいいし、紳士的で、惚れ惚れするほどスマートであった。
ある日、彼等3,4人とカウンターに並んだ。
どうも壁に飾っているゼロ戦の話をしている。
わたしが興味を示していることを察したのか、マスターが
「ノラさん、この人達は航空自衛隊のパイロット達。この人はノラさん」と紹介してくれた。
「はい、父は大将まで行きましたが、何故か皆さんは上等兵の父までしか知りません」
「というと?」
「はい、ノラクロと申します」
ノラクロをきっかけに彼等と会話をする機会が増えた。
それから数カ月後のこと。
「きょうのスクランブル」という言葉が耳に飛び込んできた。
「宮崎で、スクランブルなんか発生するのですか」ちょっと驚いて尋ねた。
殆ど、玄界灘に向かって飛び立つらしい。
国籍不明機や不審航空機が領空に近づけば自衛隊機は飛び立つという。
「一年で850回以上襲撃します」という。
その殆どがソ連の軍用機らしい。
この日もソ連機だったという。
機体で「国境を超えている。出るように」と指示する。万国共通の機体で通信できる方法があるらしい。
すると、領空すれすれに近づいて来ては離れるを繰り返すという。
そのうち、領空に侵入してきて、飛び去って行ったという。
「機上からソ連軍機の笑っているパイロットの顔が見えるんですよ。明らかにあざ笑っている」
「自衛隊は自分らが撃たない限り、先に打つことはないということを知っているのです」
30歳前後の若い自衛隊員は悔しそうに話す。
「国境を侵犯されても撃墜できないなんて法律は何処の国にもありませんよ」
「思わず機銃のボタンに手が行くことがあります。俺が犠牲になれば・・・なんて事を考えることもあります」
この言葉を聞いた時、日本の自衛隊は凄いと思った。
我慢できる強い意志がある。
相手が撃たない限り、自衛隊側から撃つことは禁じられている。
そんな馬鹿な!
それが専守防衛らしい。
我々は、平和を満喫しているが、死との瀬戸際で国防に当たっている人々がいることを忘れてはなるまい。
現在は、玄界灘より南西諸島へのスクランブルが圧倒的に増え、航空機だけでなく中国の艦船が出没し、危機的状況にあると聞く。
どちらかが発砲し、銃撃戦になったら戦争の危機が極限状態にまで高まるだろう。
どちらが先に撃ったかは、互いに譲らないことは明らかだ。
マスターから戦時中の多くの話も聞いた。
彼の最後の言葉は、いつも
「戦争だけはやっちゃいかん」だった。
上司や先輩や、近所の人たちからもたくさんの話を聞いた。
将校だろうが、軍曹だろうが、一兵卒だろうが、志願兵だろうが、徴兵だったろうが、異口同音に「戦争だけはやっちゃいかん」と言った。
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目前に「海上保安庁資料館横浜館」の建物があった。
入ると管内は一艘の小型の船の残骸が展示してあった。
前もっての知識がなかったので、目前に現れた鋼鉄船の錆びた異様な光景に、一瞬、たじろいだ。
入り口近くにいた海上保安庁の制服が似合う50絡みの背の高い、品格のある保安官が説明してくれた。
平成13年12月22日、南西海域で不審船を発見。逃走する不審船を追尾する。
不審船に対する幾度もの停船命令を無視され、不審船からも銃撃されて巡視船は被弾する事態になった。
不審船からの銃撃で保安官3名が負傷した。
更に、威嚇射撃をするも逃走を続けたため巡視船が攻撃。
その後、自爆、沈没するという事件があった。
翌年平成14年10月、沈没した不審船を引き上げた。
ここに展示されていたのはその沈没船である。
奥に進むと階段があり、沈没船の看板を目線と平行に見ることができた。
鋼鉄の船腹を貫通した弾痕。
看板上にある14.5mm対空機関銃移動用レール。
無反動砲の台座か。
第一機関室。
見るからに小舟である。
漁船なら平底であるが、この小舟は船底は鋭利に尖っている。
明らかに戦闘用の軍船である。
この小舟に7人もの人間が乗っていた。
彼等は停船にも応じず、挙げ句は巡視船に体当りを喰らわし、遂には銃撃で反撃し、自爆した。
その凄まじさに身の毛がよだつ思いがした。
これらの人間に対峙した海上保安庁の隊員の思いは如何ほどであったろう。
3人もの負傷者を出して、ようやく反撃したのである。
死と隣合わせの、いや死に直面しても我が身を守ることに、世論を気にしないとならなかったのか。
国境を侵されてもか。
間違って侵犯したのなら、停戦命令に従い、釈明すれば良いことだ。
そうしなかったということは、別に重大な目的があったに違いない。
装備品などを見ると慄然とする。
自衛隊は軍隊、交戦は出来ない。自衛のための防衛だけである。
平和な横浜港を見ながら、釈然としない疑問に駆られた。
記念館の岸壁に停泊する巡視船。
そのスマートで明るい船体からは、生死をかけた壮絶な現場の陰は見えない。
死んでいった北朝鮮の工作員。
どんな使命を帯びていたのだろうか。
戦いの先には、悲しい、己の意思では選択できない強大な力がある。
あの暗い船の中で武器に囲まれながら荒海を渡ってきた。
前の晩、ごろ寝のテントの中で、許嫁の写真をみせてはしゃいでいた新兵が
「隊長殿、撃たれました」と背後から声を上げた。
振り向くと腹を撃たれ、真っ赤になっていた。
そして、最後に「おかあさ~ん」と叫んで息絶えたという。
「若い兵隊は死の間際には、おかあさんと呼ぶ」と涙を浮かべていた。
インパール作戦の事を、語ってくれた小隊長だった支店長は
「戦争は人間を獣にする。敵兵をみると憎しみ以外は湧いて来ない」
「こうした平和なときには、到底、人など殺せない」
それ以降、戦争の話はしなかった。
帰宅して、横浜館の関連記事をネットで探した。
その状況を詳述した記事を見つけた。(ここをクリック)
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<余録>
宮崎に勤務していたときのこと。
入り口に2,3本の竹をあしらったスナックに、看板に惹かれて飛び込んだことがある。
そろそろ四十年近くになる三十数年前のこと。
夫婦ふたりでやっている小さなスナックだった。
マスターは明日が出撃という日に終戦になった特攻隊員の生き残り(ママ談)である。
物静かで、寡黙な男だった。
ママはほっこりした小太りの女性で、明るく開放的で、和服がよく似合う女性だった。
いい店で、馴染みになった。
「ノラさんが来ると、不思議にお客さんがみえるの。今日もね」
そんな時は、勘定が破格である。
「だから今日は300円」ときには「100円」と気ままである。
その当時の飲み代は、気^プガあるから3000円が相場であった。
千円札を出して、「釣りは要らない」と妙に格好つけて見せ、好意に甘えた。
ある日、ママが
「この人おかしいの。きのうテレビで人間魚雷のドキュメントをみて、涙を流すの」
「え?マスターも特攻隊にいたんでしょう」
そのとき、あの寡黙なマスターが苦笑いしながら口を開いた。
「我々は確かに死は覚悟していたよ。でも心の何処かで、ひょっとしたらと死ななくて済む、と思える瞬間があるんだ。
でも、人間魚雷は乗り込んで、外からパチンと蓋をされたら、もう出ることは出来ない。内からは開けることはできない。
運良く敵艦に体当り出来ればいいが、燃料が切れたりすれば、そのまま海の底で、ひとり死ぬ以外には道は無いんだ。
それを考えると人間魚雷に乗る彼等は、パチンッとハッチを閉められた時の気持ちを考えると・・・」
と、特攻隊の比じゃないと涙を拭おうともしなかった。
この店には、30前後の若い連中が多い。
飲みっぷりはいいし、紳士的で、惚れ惚れするほどスマートであった。
ある日、彼等3,4人とカウンターに並んだ。
どうも壁に飾っているゼロ戦の話をしている。
わたしが興味を示していることを察したのか、マスターが
「ノラさん、この人達は航空自衛隊のパイロット達。この人はノラさん」と紹介してくれた。
「はい、父は大将まで行きましたが、何故か皆さんは上等兵の父までしか知りません」
「というと?」
「はい、ノラクロと申します」
ノラクロをきっかけに彼等と会話をする機会が増えた。
それから数カ月後のこと。
「きょうのスクランブル」という言葉が耳に飛び込んできた。
「宮崎で、スクランブルなんか発生するのですか」ちょっと驚いて尋ねた。
殆ど、玄界灘に向かって飛び立つらしい。
国籍不明機や不審航空機が領空に近づけば自衛隊機は飛び立つという。
「一年で850回以上襲撃します」という。
その殆どがソ連の軍用機らしい。
この日もソ連機だったという。
機体で「国境を超えている。出るように」と指示する。万国共通の機体で通信できる方法があるらしい。
すると、領空すれすれに近づいて来ては離れるを繰り返すという。
そのうち、領空に侵入してきて、飛び去って行ったという。
「機上からソ連軍機の笑っているパイロットの顔が見えるんですよ。明らかにあざ笑っている」
「自衛隊は自分らが撃たない限り、先に打つことはないということを知っているのです」
30歳前後の若い自衛隊員は悔しそうに話す。
「国境を侵犯されても撃墜できないなんて法律は何処の国にもありませんよ」
「思わず機銃のボタンに手が行くことがあります。俺が犠牲になれば・・・なんて事を考えることもあります」
この言葉を聞いた時、日本の自衛隊は凄いと思った。
我慢できる強い意志がある。
相手が撃たない限り、自衛隊側から撃つことは禁じられている。
そんな馬鹿な!
それが専守防衛らしい。
我々は、平和を満喫しているが、死との瀬戸際で国防に当たっている人々がいることを忘れてはなるまい。
現在は、玄界灘より南西諸島へのスクランブルが圧倒的に増え、航空機だけでなく中国の艦船が出没し、危機的状況にあると聞く。
どちらかが発砲し、銃撃戦になったら戦争の危機が極限状態にまで高まるだろう。
どちらが先に撃ったかは、互いに譲らないことは明らかだ。
マスターから戦時中の多くの話も聞いた。
彼の最後の言葉は、いつも
「戦争だけはやっちゃいかん」だった。
上司や先輩や、近所の人たちからもたくさんの話を聞いた。
将校だろうが、軍曹だろうが、一兵卒だろうが、志願兵だろうが、徴兵だったろうが、異口同音に「戦争だけはやっちゃいかん」と言った。
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