あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の社会 ~ 「辺野古基地」県民投票に思う ~ 今こそ「寄り添う」てほしい

2019年04月19日 19時51分29秒 | Weblog

「沖縄海軍壕に掲示された「沖縄根拠地隊司令官大田實海軍少将 より 海軍次官に宛てた自決前の電文」

<電文> 左の電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度   沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ  沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ  然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集に捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下□□□風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ  而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ  所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ  看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ□□ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ  更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遙ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫  勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□□□□□□  一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ  県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

*□は判読できず、意味不詳ですが原文のままとした。   
電文は海軍壕に入る際に渡されるパンフレットから写した。
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 平成31年2月24日(日)、普天間基地返還に伴う代替基地として建設が進んでいる「辺野古基地建設の 賛否を問う」県民投票が実施された。

投票有資格者1,153,600人中 52.48%601,888人が投票した。投票に行かなかった人は47.48%551,712人だった。  投票結果は、基地建設「賛成」が114,933票(19.1%)、「反対」が434,273票(72.15%)、「どちらでもない」が52,685票(8.8%)だった。この数字をどう見るのか。 他県の人々からみたら、多分、「基地反対、基地反対」といつも叫んでいる沖縄県民という印象しか持たないだろう。

 30年前、沖縄に赴任した当時は自分もそう思った。 「沖縄戦の悲惨さを県外の人達はわかってない」 「どれだけひどいことが行われたか、知ろうともしない」 「日本軍は我々を助けなかった。そればかりか学徒動員とか行って中学生をも戦場に送った」 「逃げ隠れた壕の中で子供が泣くと言って日本兵は乳飲み子を殺した」 時には議論になることもあった。

 わたしは説いた。 「戦争とはそうしたものらしい。人間は狂気にならないと人は殺せない、戦争とはそうしたものだ」と 戦地帰りの先輩や上司の話を熱く語った。 「本土の小都市も爆撃で焦土化した」そんな事をどれだけ知っているのかともいった。 状況を共有する難しさを痛感したものだった。 「戦時中の検閲は厳しく、想像に絶する非人間的なことが本土でも行われていた」と、戦争の非情さは沖縄は例外ではないとも訴えた。 そして、このような事も云った。 「過去がどうあろうと、繰り返し云ったところで何の解決にもならない。 沖縄の基地を県外に持っていけ、という主張だけはすべきではない。 県外の人間が聞いたら、そんなに嫌なものを同胞に押し付けるのかと反感を買うだけだ。 27年間の代償は本土も担うべきであろう。 少なくとも本土並みの生活をと、要求するべきである」と。

 それから数年経った頃。 私の認識に変化が起こった。  先ず、県外の人達の行動や認識が非常に甘く、無知も甚だしいことだった。 その最たるものが 「沖縄は基地で成り立っているでしょう。何故、反対ばかり云うのか」 というものだった。 不認識も甚だしい。この言葉には正直腹が立った。 「あんたは沖繩の基地のことをどれだけ知っているのか。 今の東洋一と言われる嘉手納基地は、村落があり、田畑があった。 沖縄一の穀倉地帯だっという者もいる。 島は焦土化し、生きるための糧を育てる田畑さへなかったのだ」 「それを知って言っているのか」

 昭和20年3月。 米軍が沖縄に上陸し、日本軍も本土防衛の生命線として激しく戦った。 史上稀に見る地上戦が展開された。 米軍上陸直前には「鉄のカーテン」と云われるほどの艦砲射撃を受けた。 沿岸の会場はアメリカの軍艦で真っ黒になったという。 3ヶ月後には日本軍は壊滅した。  1945年6月23日、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)の自決を以って、組織的な戦闘は終結した。 (沖縄県では6月23日を慰霊の日と定め、休日としている)

 この間、200,000人が亡くなった。 そのうち、民間人が94,000人亡くなっている。 軍属も含めると沖縄出身者は122,328人となる。(詳細はここ)  戦場で荒れ地となった沖縄にどんな産業が、命の糧が残っているというのか。 終戦直後の悲惨な食糧難を本土の人々も経験しているはずだ。「沖繩は基地で成り立っているでしょう」絶対に口にするべきではない。 平然と嘯く本土の人間の多さには驚いた。

 

 終戦後27年間、沖縄は米軍政下にあった。 終戦当時生まれた子供は、小学校、中学校、高等学校へと進み、あるものは大学生となり、あるものは社会人となった。 そして成人となり、結婚し、子供も授かっている。 27年とはそんな月日だ。  終戦間もなく、1950年6月~1953年7月、米軍は国連軍として朝鮮戦争に参戦した。 沖縄の果たす役割は大きかったに違いない。

 そして、ベトナム戦争。(以下この記事を参考にした) ベトナム戦争は太平洋戦争末期から端を発している。 南北に分かれ、これに大国が関与し、泥沼化。混迷を深め、東西対立の代理戦争となった。 従って、ベトナム戦争勃発の日を特定するには諸説がある。 1965年3月26日、アメリカは遂に北爆を開始した。 1975年4月30日、サイゴン陥落を以って、ベトナム戦争集結となる。 ベトナム動乱から20年、沖縄が北爆の補給基地の役割を担う形となって10年。

 朝鮮戦争当時、私の生まれ育った北九州小倉は、補給基地の役割が大きかったと聞く。 弾薬庫をはじめ、キャンプがいくつもあっった。 様々な事件も身近に起こった。 朝鮮戦争の終結と同時にキャンプは自衛隊の駐屯地に変わっていく。 そして、次第に戦争の影が薄れていったのである。しかし、沖繩は延々と戦争の影が消えることはなかった。東西冷戦の重要前線基地として戦争の影からは逃れられなかった。。 朝鮮戦争は終わったのではない、休戦しているのである。

 更に、ベトナム動乱、北爆と続く。 軍用車は国道58号線を行き交い、B52爆撃機は嘉手納基地から飛び立つ。 出陣を前夜にした若い兵士は、明日の命は知れぬと場末のバーで酒をあおった。 口の重いお爺やお婆から偶に聞く話は、胸を打つ悲しいものであった。

 私が、沖繩の基地問題を考えるにあたり、大きな影響を受けたのは「屋良主席」、復帰後の県知事となった「屋良朝苗氏」の県民葬の実況を聞いたときからである。 北部での仕事を終え、那覇に向かって帰社する車の中で、偶然、屋良朝苗氏県民葬のラジオ中継を聴いた。 中継の中で語られることは、「本土復帰」だった。 ただひとつ、「本土並みになるため」の復帰だった。 その思いを語る屋良主席、後の屋良県知事の演説は悲痛で、胸を打たれた。 初めて沖繩の人々の願いを知ることが出来たように思った。 自分は「沖繩」を間違って捉えていたかも知れない、そうも思った。 衝撃を受けた。 「基地を本土並みに」・・・基地反対の底流に流れている県民の悲痛な声が聞こえるてくる。

 「県民投票」に不参加を表明した5市の市長がいた。 基地反対を叫ぶ人々の思いは様々だろう。 賛成を思う人々の思いも、又、様々だろう。 それを「賛成か反対か」の二者択一に問うのは県民の心の声にはならない。 復帰後、ひとつであった「本土並みの夢」が壊れた県民の歩んだ道は様々に変化した。

 「最低でも県外に」と云った某総理大臣は1年も経たずに投げ出した。 県民にとって、これほど無礼な話はない。 今まで辺野古移設は止むなしかと思っていた人達も、一気に怒りを爆発させた。 「本土は沖繩を馬鹿にしている」・・・誰もがそう思うようになった。 そして、復帰時の密約、沖繩に核が存在したことなどが表面化した。 連日、沖繩の新聞紙上を賑わした。 沖繩の世論は、益々態度を硬化した。

 翁長前知事は 自民党の幹事長まで務めた自民党の重鎮であった。その人が、前の仲井真知事の承認に真っ向から反対を唱えたのだ。 その胸中はどうであったか、真意はどこにあったのか、今は確かめる術はない。県民投票に不参加を表明していた5市長も「どちらでもない」という選択肢を設けることで県民投票に参加することになった。

 

 このブログを書くに当たり、何かを深く掘り下げたり、情報を集めたりしたわけではない。 新聞で読み、テレビで見、巷で見聞きした一老人の感じたところである。 酒場でも話を聞いた。多様な県民の思いを知った。 そうした中から、「県民投票」の愚かさと、将来に対するある種の不安を感じるのである。

 今、ふと感じた。 「安保反対」という言葉は聞かない。 「新基地反対」と云っているのである。「これ以上沖繩に基地をつくらないでくれ」と云っているのだ。「基地縮小」であり、 「地位協定の見直し」であったように思う。 勿論、その先には「平和」であり、「基地」のない社会を目指していることは自明のことであるだろうが・・・。

 沖繩は太平洋戦争では戦場となり、戦後は前線の補給基地となり、出撃基地ともなった。 戦争の影をひとときも忘れることは出来なかった。「全身全霊を以って沖繩戦を戰った県民をよろしく頼む」と悲痛な心の叫びを後世に託して死んだ太田中将の電文わ思い出し、考えてみるべきではないか。

 橋本総理時代、首相本人を初め、幾人もの大臣が度々沖繩に来た。 噂によると、民家に泊まり込んで、共に酒を飲み、説得に当たったという。この時こそ、沖縄県民に寄り添って欲しいと願うばかりである。

 参考までに日本復帰を列記した。

  伊豆諸島: 1946年(唱和21年)3月22日  トカラ列島:1952年(昭和27年)2月10日    

  奄美諸島: 1953年(昭和28年)12月25日 小笠原諸島:1968年(昭和43年)6月26日    

  沖縄:   1972年(昭和47年)5月15日  アメリカ統治からの復帰はこの項)

 

                              

 建設前の辺野古沖

 
辺野古の町の風景 

沖縄戦米軍上陸の地 比謝川河口で遊ぶ子ら

那覇空港に着陸 
 
辺野古基地反対の基地ゲート前のテント(昨年)

県民投票を呼びかける浦添市庁の垂れ幕

県民投票翌日2月25日 沖縄タイムスのトップ記事

キャンプ・キンザーの一部返還が決まり拡張工事前の国道58号線

キャンプキンザーの外れの海岸沿いの地元子供らの遊び場 カーミージー

<余録>

 どう書き残せばいいか、 思案しながら1ヶ月。 書き始めて1ヶ月。 どうもうまく表現できない。寄り添う」・・・難しいことだ。 相手の気持が、立場が理解できなければ出来ないことだろうと思う。  言葉が乱れすぎている。 言葉が軽すぎる。 日本語で言えなくなったらカタカナで誤魔化す。  そういう自分も、言葉が出て来ない。 取り敢えず、書いてみたが「これじゃない」と思う表現のなんと多いことか。 歳の所為だけではない、不勉強を思い知らされている。(ここも「不勉強という表現じゃないな)

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