1945年6月23日。
沖縄県糸満市の摩文仁の丘で沖縄防衛第32軍司令官「牛島 満」中将と参謀長「長 勇」中将が自決した。
沖縄県は、この日を節目とし沖縄戦の終戦として「慰霊の日」を設けた。休日である。
正午から摩文仁の丘にある平和祈念公園では「平和の礎」傍で戦没者追悼式が例年行なわれる。
今年も阿部総理が出席され、知事は平和宣言を行なった。
昨日22日、空を仰ぐとギラギラ照りつける真夏の光と夏雲が目に痛かった。
いよいよ梅雨明けか、とやりきれない蒸し暑さに耐えつつバスを待った。
この太陽と蒸し暑さは「慰霊に日」の頃の特有の気候である。
追悼式のテントの中では、右手の扇子を頻りに動かし、左手のハンカチで首筋を拭っている様子をテレビのニュースでみながら、これから続く長い夏を覚悟したものだ。
明日は雨・・・・・珍しいことだと、雨が降った慰霊の日はいつだったかと思いつつバスに乗った。
毎年5月15日の沖縄本土復帰記念日から6月いっぱい、沖縄の2紙(沖縄タイムス、琉球新報)そしてテレビは「沖縄戦」「基地」「平和」の文字や企画でいっぱいになる。
今年はテレビも新聞も「対馬丸」の話題が多かった。
1944年8月19日、那覇港を出港した児童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦に撃沈され、多くの学童と引率教師など1400余名の人々の命が奪われた。
5隻で船団を組んだのだが、対馬丸は古く、船足が最も遅かったらしい。
奇跡的に助かった人々や見送った人達の話が、ようやく語り継がれようとしているということだった。
6月23日、朝目覚めて沖縄タイムスの紙面に目を通す。
スポーツ、広告、外国版以外は戦争、平和、基地の記事がちりばめられていた。
窓を開けると土砂降りである。
きょうは雨か、と思いつつ机に向かった。
昼を告げる町のオルゴールで我に返り、窓外をみると雲足が速く、時折、薄雲の切れ間から青空が見え始めていた。
30分もすると雨の気配が吹っ飛んだ。
このブログを書き終える17時には、再び、黒い雲が空を覆った。
静かに物思いに耽っていると20数年前に沖縄に来たときの事を様々思い起こしていた。
あの頃は、沖縄の人たちと先の戦争や基地などの議論をしたものだった。
この10数年はそれらの事を論じ合うことはなくなった。
最近、気がついた。
沖縄の人達はわれわれ本土の人間が言い出さない限り、彼等から戦争やそれらを話題にすることは滅多にない。
話したくないのである。判ってもらえない、とあきらめているのだ。
そう云えば、北方領土に暮らしていた人たちはどうしているのだろうか。
全くと言っていいほど、我々には情報がない。
「北方領土返還!」と勇ましく叫んではいるが、住んでいた人たちのことはどうなっているんだろう。
満州や朝鮮に住んでいた人、引き上げた人達は・・・・・。
広島、長崎の原爆だって、あの痛みや悲しみ、苦しみを我々はどれだけ感じる事ができるのだろう。
東京大空襲だってある、地方の都市も悲惨だったときく。
結局、人間って奴は己の手が触れる範囲でしかわからないのだろうか。
3日もすると梅雨は明けるらしい。
沖縄県糸満市の摩文仁の丘で沖縄防衛第32軍司令官「牛島 満」中将と参謀長「長 勇」中将が自決した。
沖縄県は、この日を節目とし沖縄戦の終戦として「慰霊の日」を設けた。休日である。
正午から摩文仁の丘にある平和祈念公園では「平和の礎」傍で戦没者追悼式が例年行なわれる。
今年も阿部総理が出席され、知事は平和宣言を行なった。
昨日22日、空を仰ぐとギラギラ照りつける真夏の光と夏雲が目に痛かった。
いよいよ梅雨明けか、とやりきれない蒸し暑さに耐えつつバスを待った。
この太陽と蒸し暑さは「慰霊に日」の頃の特有の気候である。
追悼式のテントの中では、右手の扇子を頻りに動かし、左手のハンカチで首筋を拭っている様子をテレビのニュースでみながら、これから続く長い夏を覚悟したものだ。
明日は雨・・・・・珍しいことだと、雨が降った慰霊の日はいつだったかと思いつつバスに乗った。
慰霊の日前日の沖縄タイムスの記事
毎年5月15日の沖縄本土復帰記念日から6月いっぱい、沖縄の2紙(沖縄タイムス、琉球新報)そしてテレビは「沖縄戦」「基地」「平和」の文字や企画でいっぱいになる。
今年はテレビも新聞も「対馬丸」の話題が多かった。
1944年8月19日、那覇港を出港した児童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦に撃沈され、多くの学童と引率教師など1400余名の人々の命が奪われた。
5隻で船団を組んだのだが、対馬丸は古く、船足が最も遅かったらしい。
奇跡的に助かった人々や見送った人達の話が、ようやく語り継がれようとしているということだった。
慰霊の日当日の沖縄タイムス
6月23日、朝目覚めて沖縄タイムスの紙面に目を通す。
スポーツ、広告、外国版以外は戦争、平和、基地の記事がちりばめられていた。
窓を開けると土砂降りである。
きょうは雨か、と思いつつ机に向かった。
昼を告げる町のオルゴールで我に返り、窓外をみると雲足が速く、時折、薄雲の切れ間から青空が見え始めていた。
30分もすると雨の気配が吹っ飛んだ。
このブログを書き終える17時には、再び、黒い雲が空を覆った。
静かに物思いに耽っていると20数年前に沖縄に来たときの事を様々思い起こしていた。
あの頃は、沖縄の人たちと先の戦争や基地などの議論をしたものだった。
この10数年はそれらの事を論じ合うことはなくなった。
最近、気がついた。
沖縄の人達はわれわれ本土の人間が言い出さない限り、彼等から戦争やそれらを話題にすることは滅多にない。
話したくないのである。判ってもらえない、とあきらめているのだ。
そう云えば、北方領土に暮らしていた人たちはどうしているのだろうか。
全くと言っていいほど、我々には情報がない。
「北方領土返還!」と勇ましく叫んではいるが、住んでいた人たちのことはどうなっているんだろう。
満州や朝鮮に住んでいた人、引き上げた人達は・・・・・。
広島、長崎の原爆だって、あの痛みや悲しみ、苦しみを我々はどれだけ感じる事ができるのだろう。
東京大空襲だってある、地方の都市も悲惨だったときく。
結局、人間って奴は己の手が触れる範囲でしかわからないのだろうか。
3日もすると梅雨は明けるらしい。