昨日感想文を書いたドノーソの『三つのブルジョワ物語』の最後のお話「夜のガスパール」が忘れがたい余韻を残しているので、私はなんだか今日も落ち着きません。
「すべてを失って、そこではじめて…」という物語には、私は悲しみながらも魅かれてしまいます。私が読んできた物語には多かれ少なかれ「喪失」ということが描かれていたかと思うのですが、そのなかでもとりわけ「主人公が何もかも失ってしまう」お話というのは忘れられないような印象を残しています。
ドノーソの「夜のガスパール」を読んで思い出した物語が、他にいくつかあったので、忘れないように書いておこうと思います。
まずは、ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』。
次に、やはりホセ・ドノーソの短篇「閉じられたドア」。
それから、フロベールの『ジュリアン聖人伝』。
上の三つのお話を、一晩の間に私は連想したわけですが、並び順としては、それぞれの物語の結末において主人公が感じていただろう幸福感・充足感が低い方から並べてみました。あとへいくほど、主人公は幸福であっただろうと私は考えているということです。もっとも、いずれも「すべてを失ってしまった」3人の主人公ですが、『果てしなき逃走』のフランツは結末ではまだ生きていてその後もおそらく生き続けねばならず、一方で「閉じられたドア」のセバスティアンと『ジュリアン聖人伝』のジュリアンは結末にその最期(幸福な解放としての死)が描かれてあったので、そのように感じるだけかもしれません。
また、よくよく考えてみると、フランツ・トゥンダはいくぶん「奪われるようにして失った」のに対して、セバスティアンとジュリアンは「自覚的に、自発的に捨て去るようにして失った」という違いはあるかもしれません。この意識の違いは大きいのかもしれない。
3つの物語を挙げてみたものの、思ったより考えがまとまらないのでこれ以上何も書けませんが、ひとつ言えることには、私はたぶん「すべてを失って」しまっても「代わりに何かを得られる」のではないかと思いたいのだということです。
フランツ・トゥンダは名誉も地位も金も愛も希望も何もかもなくして呆然と立ち尽くしてしまいましたが、けれどもそこからこそ始まる何かがあるのではないか。そこからこそ、ようやく何かに近づけるのではないか。
と考えたい。私は「失う」ということを、もう少し肯定的に考えたいのかもしれません。
この、「失う」ことを肯定的に、というのがどこからくる発想なのかについて、ちょっとよく思い出してみると、大昔に習った漢文の教科書だか参考書に載っていたお話を思い出したのでした。詳細は忘れてしまいましたが、
「人は生きている限り失い続けるものだから、たとえば腕や脚を失ったとしても、まあ、たいしたことではない」とある老人が言った、というようなそんな感じのお話。
かなりおぼろげな記憶…。これが何のお話だったか、どなたかご存知でしたら教えてください。それともすっかり私の捏造でしょうか? とにかく古い記憶、かつてそれによってものすごく納得したというある記憶が、私の深いところに根付いているようです。
つねにじりじりと失いつづけていながら、私は失うことが恐ろしくてたまらない。いつか何もかも失ってしまう。そしてそれはほんのちょっと先のことかもしれない。
こういう人間のために、文学や、たとえば宗教やなんかも生まれてきたのかもしれないなぁ。と、当たり前の中途半端なところで、今日のところは考えるのを中断したいと思います。
たまには出かけないとね!
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