一瞬の触れ合いが、決定的に意味を与えてくれる。
その名とその姿を忘れてしまったとしても、触れ合ったという感触がわずかにでもあれば生きていける。
どうして私はいつまでも恥かしげもなく生きていられるのか分からなかったけれど、もしかしたらそれは私が忘れてしまっている何かの、誰かのおかげなのかもしれない。
そしてこのようなことを輝かしく美しいと思える心を自分の内側に発見した今、私はもう何者にもなれなくとも、全然、構わない。もう、そんなに怖れなくてもいいんだ、きっと。怖れるよりほかにできることがあるんじゃないのか。
『輪るピングドラム』という作品は、見る人によってさまざまな解釈や見方を取りうる作品であったかもしれません。あちらこちらの感想や分析、まとめを見て回りましたが、まさに人それぞれ。テーマは始めから終わりまでずっと変わらなかったと思うものの、あの流れ全体の中から何を選び取り出すかによって、物語の様相は違ってみえるようにできていました。そして私にとっては『輪るピングドラム』は上のような物語だったということです。
それにしても、最終回まで毎回ハラハラドキドキ、震えるほどに印象的な演出力の卓抜さは相変わらずで感心しましたね。
この2年間、ぴったりかっきり2年間、私は自分が「何者にもならないし、なれない、なりたくもない」という問題に地道に取り組んできたつもりです(2年前、ヨーゼフ・ロートの『果てしなき逃走』を読んだ頃からそれは始まりました)。ところが一向に進まない。泥沼の八方塞がりだった。苦しくてたまらなかった。もう何も考えることができなくなってしまった。私は求めている言葉を見出せず、すっかり放り捨てられたような気持ちでいたのです。私は自分を見限ってしまっていた。
そこへ、『輪るピングドラム』がやってきた。「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」が冠葉と晶馬に告げるあの言葉を聞いた時の私の衝撃がいかほどであったか、とても言葉では言い表すことができません。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる!」
この台詞が作品の上でほんとうはどういう意味を持っていたのかは、私にはまだ分かっていません。けれども、この台詞が放たれたその時、私には運命がとうとうやってきたとはっきり分かった。運命の物語との出会いだという実感が私を激しく貫いたのです。物語を最後まで観て、この時の実感は間違っていなかったと確認できました。すっかり説明できるほどにはまとまっていませんが、つまりこういうことです。
たとえ何者にもなれないとして、手になにひとつ持っていないとして、それでも誰かのためにこの手をただの手を差し出すくらいのことはできるのではないか。もし誰かが手を取ってくれたなら、そこから生まれ、はじまるものが確かにあるのではないだろうか。
何者にもなれない私には、誰からも何ものをももらえるはずがないとして、それにもかかわらず誰かが手を差し出してくれたなら、信じてその手を掴むくらいのことはできるのではないか。もしその手から何かを受けとることができたなら、そこから生まれ、はじまるものが確かにあるのではないだろうか。
ひとたび手を取り合ったら、その後永久に離ればなれになったとしても、繋がったという事実を消すことはできない。けして消えることのない輝きが私を、誰かを、暗がりのなかで照らしてくれる光となって、私たちはそうやって歩いて行けるのではないのだろうか。
まだまったくまとまりませんが、私にとっては『輪るピングドラム』は今のところこのような物語として受け止められました。いずれもっと深くまではいりこんでいくつもりですが、焦ることはありません。できるだけ長い時間をかけて考えていきたいです。村上春樹の「かえるくん、東京を救う」との関連性についても考えたいところですしね。誰も知らないところで、しかし確かに戦いは行なわれている。深手を負いながら、完全に結着をつけるまではいかなくとも、どうにかミミズくんをしばらくの間は大人しくさせることができた。けれども、そのことを誰も知らない。誰にも知られなくても、みんなから忘れられてしまったとしても、その人たちを守りたかった。そういう戦いが、『ピングドラム』でも描かれていましたよね。
『輪るピングドラム』は私に差し出された手です。私はそれをどうしても掴みたかったし、いくらか掴むことができたと思います。伝えたいと分かち合いたいと差し出されたものを、私は受けとりたいと分かり合いたいと願い手を伸ばし、欠片ほどの小さなものをしかし透明に輝きつづける美しいものを得られたのではないかと感じます。欲しかったものを、私は掴みましたよ。
もしも誰かに手を差し出したり誰かの手を掴んだりする価値や資格がこの私には備わっていないとしても、しかるべき時には勇気を奮って、おそるおそるでも自分の手を伸ばせるような人間になりたい。私はせめてそんな人間になりたい。闇雲に怯えて手を振り払うようなことは、もうしたくない。
私は自分がそれに値しないと思いながらも人からもらうばかりで、しかも浴びるほど、溺れるほどにもらうばかりで、時にはもらったものをその価値が分からずに投げ捨てさえしました。与えられたことの有難さをようやく分かるようになってみると今度は、何者でもなく何も持たない私には何一つ彼らに返せるものなんてないのではないかと、返せないまま生きてしまっていいのかと、そのことが本当に気がかりでした。けれどももしかしたら……私がまだこうして生きていられることには意味があって、いつかこの空っぽの手を誰かに差し出し差し出され、誰かの手を取り手を取られ、私たちは輪になってそこから何かを始められるかもしれないな。
『輪るピングドラム』。震えながら透明に輝き続ける美しい希望に満ちた、優しい物語でした。半年間、ほんとうに楽しかった。
ありがとう!
>ペンギンは見てるとかわいいけれど、どこかの水族館で、ペンギンの肌に触ったら、私はあまり好きじゃなかったです。
えっ!?
ペンギンに触れられる水族館があるのですか!?
いいなぁ~~、行ってみたい~!!
私はペンギンが大好きであります(^o^)
ペンギンが出てくる作品はいろいろありますが、どれも可愛いですよね。
たいていは可愛らしく描かれますが、『ウォレスとグルミット』では魅力的な悪役として登場したのが新鮮でしたね。
あと『ペンギンズ・フロム・マダガスカル』というアニメーションも最近のお気に入りです(^_^)
ペンギン、可愛いなぁ!
しかし、ピングドラムというのは、どうして「ピングドラム」だったんですかね? というより、結局のところ「ピングドラム」ってどこから出て来た言葉なんだろう。分からなかったなあ。うーん、うーん。。。…私も疲れますが、もうちょっと考えてみたいと思います♪
私はピングドラムというものを知りませんし、ペンギンドラムと書いて、ピングドラムと言うことも知りませんが、ペンギンって、ntmymさんも好きなようだし、エヴァンゲリオンでも、ペンペンでてきたし、ロシアの小説に、ペンギンを飼っている死亡記事を書く作家の話があったように思うけど、ペンギンって、人気が高いですね。それに、歌がうまく歌えないか、踊れないペンギンが主人公の映画もあったと記憶します。
ピングドラムでも、AKIRAでも、エヴァでも、東京は常に新東京というのが面白い。
ペンギンは見てるとかわいいけれど、どこかの水族館で、ペンギンの肌に触ったら、私はあまり好きじゃなかったです。
ピングドラムって、暗喩ですかね?最近は、考えると疲れるので、私は、あまり考えません。