2か月くらい漫画喫茶へ行っていなかったら、心がすっかり弱り果ててしまったので、昨日の夜から今朝まで浸かってきました。はー、すっきり。休みを取っておいてよかった。これで、はなばなしく4連休を過ごせます。あはははは。あまり寝てないのでハイになってまーす。
で、昨日10時間かけて読んできたのは、荒木飛呂彦先生の『スティール・ボール・ラン』の最新刊、ゆうきまさみ『鉄腕バーディー』の最新刊、荒川弘(ひろむさんと言うらしいことが判明)の『鋼の錬金術師』の最新刊、木葉功一『フルーツ』、ジョージ朝倉『溺れるナイフ』の最新刊、久保帯人『BLEACH』の最新刊、伊藤理佐『おいピータン!』、幸村誠『ヴィンランド・サガ』、そして竹宮恵子『風と木の詩』。
『スティール.ボール・ラン』はいまさら言うまでもなく、素敵でした。信じられないくらいに美麗な描写。それに神秘な物語までついているのだから、面白くないわけがありません。そろそろこれもコミックスを集めるかな。でもまずJOJOの第4部「杜王町」を揃えなきゃ。
『鉄腕バーディー』はSFです。これもかなり面白い。私は昔からゆうきまさみさんが好きですが、これは面白い。バーディーの上司(昆虫型の異星人)がお気に入りなのですが、あまり登場しない。この人のSFの面白さは、日常的リアル感があることですかね。舞台はいつも現代(もしくは「いかにもありそうな近未来」)。そこがいい。
『鋼の錬金術師』も順当に面白かった。
木葉功一という人は昔『クリオの男』という作品で知りましたが、絵の色気が半端ではありません。美しくて残虐。血みどろだけど全ての物語に官能と幻想があるのでちょっと目が離せません。
『溺れるナイフ』。これからどうなるんでしょう。私個人としては、ジョージ朝倉さんのもっと笑えるのが読みたいけれど、これはこれでこの人の持つ本質的なテーマなんだろうな。
『BLEACH』は久しぶりに読んだ。いつも誰かが最新刊周辺を借りているので、ずっと読めなかったのをついに読めた。石田雨竜くんにはトキメクでしょう。久々に復活してたのでトキメキました。
『おいピータン!』は、「腹の虫が討ち入り」の話を読み直した。やっぱり無茶苦茶に笑えた。はー、なんでこんなに笑えるんだろう。間とか視点がよいんですね。
『ヴィンランド・サガ』は、『プラネテス』がヒットした幸村誠の最新作。『プラネテス』は面白かったけど、私は実はそれも含めてこの人の作品はあまり好きではない…。なぜならば、意外性がないから。人物が登場するとすぐに、それがどういう役割の人間だかが分かってしまう。ストーリーの「真っ直ぐさ」も私とは合わない。だけど、絵もうまいし、構成力もあるし、やはりすごい才能であるようなので、読まずにはおれません。くやしー。
(ちなみに『プラネテス』はアニメにもなりましたが、そちらは作者とも原作とも関係なく私にはきっぱりと不快でした。タナベをあんな自己中ヒステリー偽善者に仕立てたのはどういうことなのだろう)
さあ、そして『風と木の詩』。名作の誉れ高い作品。前から一度は読まなくてはなるまいと思っていたのですが、昨日ついに読破。
ナ、ナンデスカ、コレハ………!
超ショックです。びっくりしました。「プチフラワー」という少女漫画誌に載ってたらしいですが、「ぷちふらわー」というほのぼのした響きの雑誌にこういうのが連載って……凄いな。連載開始は私が生まれた年でした。この時代に漫画はもうすごい領域にまで達していたんですね。というか、今では絶対に無理! 萩尾望都のときも驚いたけど、なんですか、この芸術性と文学性は。信じられない。いやー、びっくり。1巻のあとがきを寺山修司が書いていることにも、びっくり。凄い時代だったんだ…。
最近は詰まらない記事ばっか書いていた気がしますが、漫画の話をし出すといきいきしてきます。私はやっぱ漫画が好きなんだな。
あー、でもまだなんか読み足りない。あとは何を読まなくてはいけないんだっけ?
「これは読んどけ!」というのがあれば、教えてください。
で、昨日10時間かけて読んできたのは、荒木飛呂彦先生の『スティール・ボール・ラン』の最新刊、ゆうきまさみ『鉄腕バーディー』の最新刊、荒川弘(ひろむさんと言うらしいことが判明)の『鋼の錬金術師』の最新刊、木葉功一『フルーツ』、ジョージ朝倉『溺れるナイフ』の最新刊、久保帯人『BLEACH』の最新刊、伊藤理佐『おいピータン!』、幸村誠『ヴィンランド・サガ』、そして竹宮恵子『風と木の詩』。
『スティール.ボール・ラン』はいまさら言うまでもなく、素敵でした。信じられないくらいに美麗な描写。それに神秘な物語までついているのだから、面白くないわけがありません。そろそろこれもコミックスを集めるかな。でもまずJOJOの第4部「杜王町」を揃えなきゃ。
『鉄腕バーディー』はSFです。これもかなり面白い。私は昔からゆうきまさみさんが好きですが、これは面白い。バーディーの上司(昆虫型の異星人)がお気に入りなのですが、あまり登場しない。この人のSFの面白さは、日常的リアル感があることですかね。舞台はいつも現代(もしくは「いかにもありそうな近未来」)。そこがいい。
『鋼の錬金術師』も順当に面白かった。
木葉功一という人は昔『クリオの男』という作品で知りましたが、絵の色気が半端ではありません。美しくて残虐。血みどろだけど全ての物語に官能と幻想があるのでちょっと目が離せません。
『溺れるナイフ』。これからどうなるんでしょう。私個人としては、ジョージ朝倉さんのもっと笑えるのが読みたいけれど、これはこれでこの人の持つ本質的なテーマなんだろうな。
『BLEACH』は久しぶりに読んだ。いつも誰かが最新刊周辺を借りているので、ずっと読めなかったのをついに読めた。石田雨竜くんにはトキメクでしょう。久々に復活してたのでトキメキました。
『おいピータン!』は、「腹の虫が討ち入り」の話を読み直した。やっぱり無茶苦茶に笑えた。はー、なんでこんなに笑えるんだろう。間とか視点がよいんですね。
『ヴィンランド・サガ』は、『プラネテス』がヒットした幸村誠の最新作。『プラネテス』は面白かったけど、私は実はそれも含めてこの人の作品はあまり好きではない…。なぜならば、意外性がないから。人物が登場するとすぐに、それがどういう役割の人間だかが分かってしまう。ストーリーの「真っ直ぐさ」も私とは合わない。だけど、絵もうまいし、構成力もあるし、やはりすごい才能であるようなので、読まずにはおれません。くやしー。
(ちなみに『プラネテス』はアニメにもなりましたが、そちらは作者とも原作とも関係なく私にはきっぱりと不快でした。タナベをあんな自己中ヒステリー偽善者に仕立てたのはどういうことなのだろう)
さあ、そして『風と木の詩』。名作の誉れ高い作品。前から一度は読まなくてはなるまいと思っていたのですが、昨日ついに読破。
ナ、ナンデスカ、コレハ………!
超ショックです。びっくりしました。「プチフラワー」という少女漫画誌に載ってたらしいですが、「ぷちふらわー」というほのぼのした響きの雑誌にこういうのが連載って……凄いな。連載開始は私が生まれた年でした。この時代に漫画はもうすごい領域にまで達していたんですね。というか、今では絶対に無理! 萩尾望都のときも驚いたけど、なんですか、この芸術性と文学性は。信じられない。いやー、びっくり。1巻のあとがきを寺山修司が書いていることにも、びっくり。凄い時代だったんだ…。
最近は詰まらない記事ばっか書いていた気がしますが、漫画の話をし出すといきいきしてきます。私はやっぱ漫画が好きなんだな。
あー、でもまだなんか読み足りない。あとは何を読まなくてはいけないんだっけ?
「これは読んどけ!」というのがあれば、教えてください。
ドストエフスキー『鰐』
ロシアアニメ『チェブラーシカ』のゲーナ
ロシアアニメ『愛しの青いワニ』のワニ
さまざまなロシア作品に登場するワニ。
ロシアとワニ。
「ロシアにワニっているのだろうか。どうしてこんなにもワニが出てくるんですか?」とつぶやいたら、「君、それで何か書いてみたら?」とK氏が気軽に勧めてくる。君はいつもそうやって何でも気軽に勧めてくるが、簡単に言うなよ。とは言え、たしかに見過ごすのはもったいないテーマであります。
寒い国のひとたちの、南方への憧れでしょうか。
でも、なぜワニ。
今後しばらくは気にかけておくことにしよう、ということでメモ、メモ。
昨日は、午後からずっと大量の紙をシュレッダーにかけるという作業をしました。段ボール4箱分。でも2箱分しか終わりませんでした。
最初、積みあがった4つの段ボールを前に私がぼんやり立っていると、職場の優しいOさんが
「え? それひとりでやんの? 誰やねん!? こんな鬼みたいな仕事させんのは~」
(私はいまだに大阪弁がしゃべれませんが、ここはたしかに大阪)
と、憤って下さいました。(こんな非生産的な仕事をまかされるのは、私の無能のせいではない、と信じたい。むしろ有能過ぎて予定よりも早く仕事が終わりそうだったから、に違いない。…そうともさ。ねえ?)
実際すごい量でした。
ですけれども。
私は結構楽しかった…!
このところの気候のせいで、かなりむしゃくしゃしていた私は楽しかった。シュレッダーに負荷をかけないようによどみなく紙を送るための技をあみ出したりして、かなり楽しかった。この、達成感。廃棄のための作業だということも忘れるほどの、達成感。ああ、私のなかの破壊衝動が、いまこうしてなんの損害も出さずに解消されてゆく―――。
と、すがすがしささえ感じて作業をもくもくとこなしていましたが、結果としてゴミ袋が8個にもなり(ふくれあがる粉砕紙の恐怖)、それを4階から1階までおろさなければならず、舞い上がる粉塵にまみれて衣服も白くくすみ皮膚もむずむずしてくる段階になると、さすがに疲労を隠せませんでした。いやしかし、私はやった…! やったぞ……。(まだ2箱残っているけど。月曜には多分またやらねばならないけれど)
ところで、私は「紙を手で破る音」がたいそう苦手であります。「金属をひっかく音」は平気ですが、「紙を手で破る音」はいけません。のわー、ヤメテ。「毛玉を取る音」も同じように苦手です。
アンドレイ・タルコフスキー
《あらすじ》
詩人で作家のアンドレイは、ロシアの音楽家サスノフスキーについて書くためにイタリアを旅する。
温泉のある町で、彼はある男と出会う。7年間ものあいだ家族を家に閉じ込めたことのあるその男は、アンドレイに頼み事をする。
《この一言》
”重要なのは完成ではない
願いを持続することなのだ ”
家の中に降り注ぐ雨と父親。
草原に佇む母である女性のイメージ。
満ちあふれこぼれ落ちる詩情。
困惑。
詩的すぎるのか、筋はよく分からない。
「ソラリス」のときも不思議で仕方なかったのですが、今回もやはりよく分からない。一発で分かろうというのがそもそも無理、もしかしたら分かろうとすること自体が無茶なのかもしれません。タルコフスキーはそんなことを望んでないのかも。どうなんだろう。とにかくこの人の作品の前では、私はどうしようもなく弱気になります。
一番分かったような気になったのは、7年間家族を家に閉じ込めた男のさいごの演説。物語の終盤になって、はじめて少し理解できる文章のつながりに遭遇して感激しました。
一番分からなかったのは、アンドレイと同行していた美女がある晩突然にヒステリーを起こすところ。
分からないことはたくさんありましたが、映像は美しいです。文句のつけようがありません。どの場面もいちいち美しい。ホテルの部屋の開け放たれた窓の外に降る激しい雨。その雨の影が丸い鏡のある洗面所の壁に映っている。
そして、いろいろな場面でザーザー雨やちょろちょろ流れてゆく水の音がしています。
何度か観るうちに、ひょっとしたらもう少しは理解できるかもしれません。少なくとも、もうちょっとは感じることができそう。
《あらすじ》
詩人で作家のアンドレイは、ロシアの音楽家サスノフスキーについて書くためにイタリアを旅する。
温泉のある町で、彼はある男と出会う。7年間ものあいだ家族を家に閉じ込めたことのあるその男は、アンドレイに頼み事をする。
《この一言》
”重要なのは完成ではない
願いを持続することなのだ ”
家の中に降り注ぐ雨と父親。
草原に佇む母である女性のイメージ。
満ちあふれこぼれ落ちる詩情。
困惑。
詩的すぎるのか、筋はよく分からない。
「ソラリス」のときも不思議で仕方なかったのですが、今回もやはりよく分からない。一発で分かろうというのがそもそも無理、もしかしたら分かろうとすること自体が無茶なのかもしれません。タルコフスキーはそんなことを望んでないのかも。どうなんだろう。とにかくこの人の作品の前では、私はどうしようもなく弱気になります。
一番分かったような気になったのは、7年間家族を家に閉じ込めた男のさいごの演説。物語の終盤になって、はじめて少し理解できる文章のつながりに遭遇して感激しました。
一番分からなかったのは、アンドレイと同行していた美女がある晩突然にヒステリーを起こすところ。
分からないことはたくさんありましたが、映像は美しいです。文句のつけようがありません。どの場面もいちいち美しい。ホテルの部屋の開け放たれた窓の外に降る激しい雨。その雨の影が丸い鏡のある洗面所の壁に映っている。
そして、いろいろな場面でザーザー雨やちょろちょろ流れてゆく水の音がしています。
何度か観るうちに、ひょっとしたらもう少しは理解できるかもしれません。少なくとも、もうちょっとは感じることができそう。
ペドロ・アルモドバル
《あらすじ》
臓器移植コーディネータのマヌエラは、一人息子エステバンが17歳の誕生日を迎え、そのお祝いにずっと秘密にしてきた彼の父親のことを話す約束をする。しかしエステバンはそれを聞く前に交通事故で死んでしまう。
息子のことを伝えるため、マヌエラは18年前に逃げるように飛び出したバルセロナへとかつての夫を探しに行く。
《この一言》
”孤独を避けるためなら 女は何でもする ”
従兄のヨウちゃんがいつだったか「これまでに観たなかで一番面白かった映画」というようなことを言っていたので、ずっと観てみたかった作品。あらゆる女の物語。今までにどこかで会ったような、どこにでもいるはずの女たちの物語。それがアルモドバルらしい情熱的色彩のなかで展開します。
「どこにでもいるはず」とは言え、登場人物はやはり個性的です。皮肉な運命に翻弄されつつも自力でどうにか乗り越える主人公のマヌエラ、胸にシリコンを入れ女性となり客の男に殴られても商売をやめられない古馴染みのアグラード、自分を忘れた父親と自分を理解しない母親を持つ修道女ロサ、孤独な大女優ウマ。
私が、マヌエラのように生きることは可能だろうか。いや、私はロサだな。善良というよりも単純、やけっぱちとも言える衝動的行動に身をまかせる女。その先が破滅だとしても、それを「知らず」に選択せざるを得ない。ただ彼女の良いところは、起こってしまったことを泣きはしても結局は受け入れるところでしょうか。
それに対してマヌエラはしなやかに強い。ロサがすがりつきたくなるのも納得です。マヌエラは苦しみや悲しみを忘れてしまうことはなくても、そのままで前に進んでいきます。彼女の周辺で次々と人が死にまた生まれますが、彼女はつねに先に進むために必要ななにかを彼らに与え続けているようです。
マヌエラのような女性を、現実に私も知っています。人間の魅力とはこのようなものであったのかと私に初めて実感させたその人は、いまでも私の最高の憧れ。自由で豊かな美しい人。彼女の前では、私でさえ前を向かずにはいられません。
こんな風に、この映画を観れば今まで出会った誰かのことを思い出すかもしれません。ヨウちゃんもきっと誰かを思い出したに違いない。
「おとこ」だろうと「おんな」だろうと、生まれてくるのは結局はただ死ぬためだけなのかもしれなかろうと、生きているあいだはせめてちょっとでも前を向きたいものです。顔を上げたら、素敵な人(むろん、異性とは限らない)との出会いが待っているかもしれません。
と、思いました。
おなじようなテーマを扱った映画に、ロドリゴ・ガルシアの『彼女を見ればわかること』がありました。そちらがやや暗いトーンで語られていたのに対し、こちらの『オール アバウト…』はわりと明るいです。いずれの作品も、私には深くしみ込むというより突き刺さる。
これに続いて観たタルコフスキーの『ノスタルジア』も「母に捧げ」られていました。アルモドバルからタルコフスキーへは、それにしても凄い落差でした。以下、次回。
《あらすじ》
臓器移植コーディネータのマヌエラは、一人息子エステバンが17歳の誕生日を迎え、そのお祝いにずっと秘密にしてきた彼の父親のことを話す約束をする。しかしエステバンはそれを聞く前に交通事故で死んでしまう。
息子のことを伝えるため、マヌエラは18年前に逃げるように飛び出したバルセロナへとかつての夫を探しに行く。
《この一言》
”孤独を避けるためなら 女は何でもする ”
従兄のヨウちゃんがいつだったか「これまでに観たなかで一番面白かった映画」というようなことを言っていたので、ずっと観てみたかった作品。あらゆる女の物語。今までにどこかで会ったような、どこにでもいるはずの女たちの物語。それがアルモドバルらしい情熱的色彩のなかで展開します。
「どこにでもいるはず」とは言え、登場人物はやはり個性的です。皮肉な運命に翻弄されつつも自力でどうにか乗り越える主人公のマヌエラ、胸にシリコンを入れ女性となり客の男に殴られても商売をやめられない古馴染みのアグラード、自分を忘れた父親と自分を理解しない母親を持つ修道女ロサ、孤独な大女優ウマ。
私が、マヌエラのように生きることは可能だろうか。いや、私はロサだな。善良というよりも単純、やけっぱちとも言える衝動的行動に身をまかせる女。その先が破滅だとしても、それを「知らず」に選択せざるを得ない。ただ彼女の良いところは、起こってしまったことを泣きはしても結局は受け入れるところでしょうか。
それに対してマヌエラはしなやかに強い。ロサがすがりつきたくなるのも納得です。マヌエラは苦しみや悲しみを忘れてしまうことはなくても、そのままで前に進んでいきます。彼女の周辺で次々と人が死にまた生まれますが、彼女はつねに先に進むために必要ななにかを彼らに与え続けているようです。
マヌエラのような女性を、現実に私も知っています。人間の魅力とはこのようなものであったのかと私に初めて実感させたその人は、いまでも私の最高の憧れ。自由で豊かな美しい人。彼女の前では、私でさえ前を向かずにはいられません。
こんな風に、この映画を観れば今まで出会った誰かのことを思い出すかもしれません。ヨウちゃんもきっと誰かを思い出したに違いない。
「おとこ」だろうと「おんな」だろうと、生まれてくるのは結局はただ死ぬためだけなのかもしれなかろうと、生きているあいだはせめてちょっとでも前を向きたいものです。顔を上げたら、素敵な人(むろん、異性とは限らない)との出会いが待っているかもしれません。
と、思いました。
おなじようなテーマを扱った映画に、ロドリゴ・ガルシアの『彼女を見ればわかること』がありました。そちらがやや暗いトーンで語られていたのに対し、こちらの『オール アバウト…』はわりと明るいです。いずれの作品も、私には深くしみ込むというより突き刺さる。
これに続いて観たタルコフスキーの『ノスタルジア』も「母に捧げ」られていました。アルモドバルからタルコフスキーへは、それにしても凄い落差でした。以下、次回。
次ページ »