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『太陽の都』

2009年04月15日 | 読書日記ー実用

カンパネッラ著 近藤恒一訳(岩波文庫)



《内容》
スペイン支配下の南イタリア独立を企て挫折した自らの改革運動の理想化の試みとして、カンパネッラ(1568-1639)が獄中で執筆したユートピア論。教育改革をはじめ、学問、宗教、政治、社会、技術、農工業、性生活など人間の営為のすべてにわたる革新の基本的素描が対話の形で展開される。ルネサンス最後の巨人の思想を集約した作品。

《この一文》
“かれらの言いますには、およそ所有権というものは、自分だけの家をつくり、自分の妻や子どもを持つことから生じ、そこから利己心が生まれるのです。と言いますのも、息子をできるだけ資産家や高官にしてやろうとか、〔大きな資産の〕相続人にしてやろうとかするあまり、だれしもみな、権勢家で恐れを知らぬものであれば貪欲に公共のものを横領するようになるし、無力な者であればけちんぼや詐欺師や偽善者になるのです。しかし利己心がなくなれば、公共への愛だけが残るのです。
  ―――「3.政体・職務・教育・生活形態」より ”

“無をめざす傾向から悪と罪が生まれます。だから、罪を犯す人は自己を虚無化するものだといわれ、また罪は、実効性のない原因をもつだけで、実効性のある原因をもちません。実効性のないことは欠如とおなじで、力とか知とか意志とかの欠如にほかなりません。そして意志の欠如にこそ罪はあるとされます。なぜなら、善をなしうる力をもち、しかも善をなすすべを知っている者は、とうぜん善をなそうと欲するはずです。力と知とから意欲が生じるのであって、その逆ではないからです。
  ―――「9.宗教と世界観」より ”



解説によると、著者はトンマーゾ・カンパネッラ。1568年9月5日生れ。洗礼名はジョヴァン・ドメニコ。
カンパネッラ(カムパネルラ)とジョヴァン(ジョヴァンニ)……と言えば、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』ですね。ひょっとしたらと思い、新潮文庫版の『新編・銀河鉄道の夜』の解説のページを開いてみると、やはりこの『太陽の都』のことが書いてありました。へえ。

『銀河鉄道の夜』のふたりの名前が、ほんとうにこの『太陽の都』の著者の名から取られたものかどうかは分かりませんが、『太陽の都』に描かれた燦然と栄光が輝く堂々たる美しい世界と、『銀河鉄道の夜』の冷たく澄んだ夜空に星がまたたく静かな美しい世界の対比を思うと興味深いです。どちらも星を見上げる人の物語であり、どちらも地上には存在し得ないほどの美しさを描いた物語のように思えます。

それはさておき、『太陽の都』は面白かったです。世界一周の航海から帰ったジェノヴァ人が、聖ヨハネ騎士修道会の騎士に語って聞かせる不思議な都市のお話です。
ジェノヴァ人は、「太陽の都」という、優れた人々によって運営される都市の構造から、そこに暮らす人々の思想、生活風俗、宗教観など、あらゆることについて、事細かに語ります。どうでもいいことですが、「○○についてはどうだね?」と質問する騎士に対して、ジェノヴァ人がいちいち「それはさっき話しましたが…」とことわりを入れるのが笑えました。


「太陽の都」においては、人々は徹底的かつ高度な教育を受け、個人による一切の専有・所有を厳しく排し、公共への愛と愛国心をうたい、健康で美しい肉体を磨き、種族としての繁栄を目指し、比類なき幸福と豊かさにあふれた生活を実現しています。まるで夢のようです。

ここに描かれた都市も人々も、夢物語でしかないかもしれませんが、しかし私には美しく魅力的に思えます。また、決して実現不可能なことではないのではないかとも思えます。もしも、人間の精神のあり方が決定的に変わり得るなら、の話ですが。所有と専有がもたらす豊かさに疑問をもたない間には、おそらく到達できないでしょう。しかし、私たちが可能な限り多くを所有したいというこの気持ちを放棄するためには、どれほどの衝撃が必要なのでしょうか。また、どのような衝撃が必要なのでしょうか。人間が変わるためには、何が必要なのでしょうか。
こういう調和のとれた理想の世界を見せられると、その実現の困難さを思って「馬鹿げてる」と言って誤魔化したくなるけれど、美しいものの美しさにはやはり憧れずにはいられません。

意志の力が重要である。ということを痛感させられます。思慮深さと知性が求められます。すべての人間がそれを獲得したならば、ひょっとすると「太陽の都」はこの輝きのままに姿を現すかもしれません。まぶしすぎる光の都市。今は目に見えないということは、「無い」ということと同じではないですものね。


解説による著者のカンパネッラの生涯を見ると、この人の意志の強さには感服します。この人の生涯を物語にしたら、かなり読みごたえがありそうです。人生のほとんどを、その思想のために弾圧され獄中で過ごしたとか、ピンチを切り抜けるために逆さ吊りになったまま数日間狂人のふりをし通したとか、もう凄すぎます。
世の中には、時々こういう強固すぎる意志の持ち主が現れるのでしょうか。不屈の精神。そのために苦痛を伴う波乱の生涯を送らなければならなかったようですが、美しい人です。不可能の中の可能性を少しでも示してくれるすべての人は、美しい。





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アイロンがけ

2009年04月13日 | 手作り日記


家事のなかで、わりと好きなのが、アイロンがけ。
スチームがぶわっと出るのがいいですね。
しわしわ → ぱりっ となるのは、実に楽しく気持ちがいい!!


私ですか?
そうですね、私のアイロン歴は、だいたい17年くらいになると思います。
はい。まあ、なかなかのものですよ。実際。ははは。



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『大尉の娘』

2009年04月11日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

プーシキン作 神西 清訳(岩波文庫)


《内容》
プーシキン晩年の散文小説の最高峰。実直な大尉、その娘で、表面は控えめながら内に烈々たる献身愛と揺るがぬ聡明さを秘めた少女マリヤ、素朴で愛すべき老忠僕―――。おおらかな古典的風格をそなえたこの作品は、プガチョーフの叛乱に取材した歴史小説的側面と二つの家族の生活記録的な側面の渾然たる融合体を形づくっている。

《この一文》
“つまり犯人の自白というものが、その罪証を完全に示すために不可欠のものと考えられていた訳だが、この思想はただに根拠がないのみならず、法律の常識に全く矛盾するものなのである。なぜなら、もし被告の否認がその無罪の証明として認められないのなら、その自白に至っては益々その有罪の証拠とはなり得ぬ筈だからである。”






私の書棚は、私の背面に設置してあります。今日、ふと振り返るとこの本と目が合いました。そう言えば、このあいだ買ってあったのだっけ。本当は別の本を取ろうと思っていましたが、ついページを開いてしまったのです。


てっきり田舎の要塞へ任官された貴族の若様と、彼の上司である大尉のお嬢さんとの気楽なロマンスになるのかと思って油断していた私は、突然まさかの急展開となった驚きに、胸がドクっと打ったきり物も言わず考えず、2時間ほどで最後まで読み通してしまいました。びっくりした。あんまり面白くて。

面白い、というのは少し違うかもしれない。ただ、目が離せなかったのはたしかです。物語がぐんぐんと進行していくので、私は振り落とされないように必死でした。表書きに「プーシキン晩年の散文小説の最高峰」とありますが、なるほどと思います。幸福の瞬間も、恐怖の瞬間も、悲劇の瞬間も、なにもかもあまりに鮮やかに描かれているので、私はすっかり他のことは忘れてしまいました。

善良(しんせつ)と気位(きぐらい)、ということが、このお話を爽やかなものにしているのでしょうか。主人公の若い士官ピョートル・アンドレーイチ・グリニョフは、持ち前の親切心と貴族としての誇りでもって、次々と彼の前途に立ちふさがる絶体絶命のピンチを切り抜けていきます。このあたりは読んでいて清々しいものを感じますが、それにしても、このピョートルさんの坊ちゃんぶりにはハラハラさせられました。彼に忠実に付き従うじいやのサヴェーリイチの気苦労を思うと、可哀相でたまりません。サヴェーリイチは本当に愛すべき人物ですね。

あらすじを書くのはダルイのではしょりますが、まあとにかく、最初に年老いたピョートルが孫のペトルーシャに自身の過去の冒険を語り始めるところから、皇帝を名乗り叛乱を起こしているプガチョーフとの不思議な出会いとその後の因縁、そして最後の大団円に至るまで、息もつかせぬ迫力ある物語でした。
のんきな若様が、突如として動乱の最中に巻き込まれていく場面には震え上がりました。さらりと事も無げに人のいい大尉やその奥さん、部下が死んでいき、またしてもさらりと同僚が裏切り者として再登場したりします。もうびっくりですよ。
ついでに、謀叛者のプガチョーフも単なる悪人というよりは、むしろ愛嬌のある人物として描かれているところが興味深かったです。大尉の娘マリヤ・イヴァーノヴナを巡って争うことになるシヴァーブリンに対するピョートルの心情の描き方もよかった。怒りや憎しみよりも、最終的には気まずさというか憐れみの気持ちが勝ってしまうというか…善良と気位というのが随所に見えて、ピョートルもまたかなり愛すべき人物であると思わされました。

しかし、ピョートルが善良だったのと同じように大尉もまた実直で善良な人物であったのに、ピョートルは生きながらえた一方、大尉が無惨に殺されなければならなかった理由はなんだろう。彼等の行く末を分けたのは、何なのだろう。巡り合わせ、運の強さ、そういうものだろうか。こういうことを考えると、物語の結末はたしかに幸福に満ちているけれど、どこか心細さとかやり切れなさを感じずにはおれませんでした。人生は辛く悲しい。


ひとつひとつの描写がいきいきとして、なにか映画を観ているような感じでした。そのくらいに鮮明。恐ろしく良くできた物語です。とにかく驚きました。ほかに言うことはありません。プーシキンって、こんなに凄かったんだ。と、今日になって気がついた私は幸運ですね、きっと。ほかのも読みたいとずっと思っていたところだったので。実に、幸先がいいわい。



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『簡単に断れない』

2009年04月10日 | 読書日記ー実用

土屋賢二 (文春文庫)



《内容》
「お茶の水女子大の方から来ました」「妻と助手を養わなくてはならないんです」「読んでも読まなくても必ず笑えるから」などと言いながら、本書を売り歩いている哲学教授がいます。屁理屈をこねまわして簡単には断れませんので、ボランティアだと思って、ぜひ2~3冊まとめてお買い求めください。解説・三浦勇夫(精神科医)

《この一文》
“こんなにうれしそうに働いている姿に感銘を受けない者がいるだろうか。わたしはこの男のような純粋な喜びの気持ちを失っている自分を深く恥じた。
     ――「働く喜び」より ”




ブックオフの100円本のところで見つけたので、つい魔が差して買ってしまいました。土屋先生の本は、これまでにも何冊か買いましたが、本を手に取って買おうとするたびに「あれ……これ、もう買ったやつだったっけ?」と不安になります。中身をちらっと見ただけでは、既に買ったものかどうか判断できないので、いつも不安ながら「ままよ」という気持ちで買うのでした。どの本もだいたい内容が同じなので、咄嗟にそれが既に読んだものかどうかを判別できないのです。中身で区別がつかないならタイトルを覚えればいいことですが、タイトルも微妙に違うだけでほとんど同じものが付けられていたりして、全然区別が付きません。今回も心配しましたが、まだ買ってないやつでした。よかった。

しかし私の極度の忘れっぽさも手伝って、どれも似たような内容のエッセイにもかかわらず、毎度面白可笑しく読んでいます。なんか面白いんですよね。先生の周りにいる女性たち(奥さんや助手、同僚の女性教官などなど)とのやりとりを取り上げて、いかに女性が素晴らしい存在かを皮肉たっぷりに賛美しています。毎度お決まりのパターンなのですが、これがなぜかいつ読んでも笑えます。先生がお店などで空気のように無視されるパターンの話も面白いです。

ほとんどが人を馬鹿にしたような笑える話ばかりなのですが、唯一「働く喜び」だけは、例外的に真剣な語り口(わりと)だったので印象的でした。これは面白かった。働くとはどういうことかを、あらためて考えさせられます。

この文庫の表紙は、いしいひさいちさんが描いてらっしゃいますが、このあいだジュンク堂に行ったら、土屋先生の新刊(多分)の単行本が並べられていました。大胆なことに、表紙には「先生がどこかちゃんとした風の、大きなガラス窓越しに庭が見える立派な室内で、椅子に腰掛けて遠くを眺めておられる写真」が目一杯使われていました。何と言うか、すごい。


私はユーモアのある人を凄いと思うのですが、ユーモアのある人というのは頭が良さそうなので、凄いと同時に油断がならないな…とも思ってしまうのでした。でもうらやましい。笑える文章が書けるって、いいですよね。




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【GReeeeN】-キセキ

2009年04月08日 | 学習






旱魃と洪水。抑圧と解放。
気候のためなのか何なのか、泣きたいような、笑い出したいような、わくわくとした不安定な気持ちの私は今日もまたスイッチを踏む……。


近所のスーパーでこのところ執拗に流れている、ある曲。昨日は店員のおばちゃんが棚を整理しながら曲にあわせて口ずさんでいるのに遭遇しましたが、毎日しつこく流れています。だから今日だって別に受け流すことができたはずでした。ところが、これまでかかっていたのは男性ボーカルだったのですが、今日はオルゴールみたいな声の女の子が歌っているバージョンでした。なんとなく心に残る曲だったので、メロディはすっかり頭に入っていましたが、歌詞の内容は全然知りませんでした。気にもならなかった。それなのに、女の子の静かで綺麗な声が耳にすいすい入り込んできて、私はその歌詞が実はとても美しいものであることに、今日はじめて気が付いたのです。
こんなところで(←スーパー店内)、気が付かなければよかったのに……。アイスを買うかどうしようか悩んでいた私は溢れるものを抑えられなくなりそうで、買い物もそこそこに足早に帰宅しました。危なかった。

さて、聴き取った歌詞をもとに調べてみると、それは 【GReeeeN】というグループ(?)の『キセキ』という曲でした。あ、名前は聞いたことがあったけど、これがそうだったのか。

で、まあ、号泣。

そんな、なんてことない詞だと思うんですよ。「軌跡」と「奇跡」をかけてあって、うまいけど……べ、べ、別にね…そんな陳腐な言葉には騙されませ……ぶわっ!!
ああ、もう凄い直球です。参った。私は愛なんざ「へっ」って感じですが(強がり)、それでも色々と走馬灯でわなわなしてしまいました。なんてこった。なんかもう最初からやばい。メロディと詞がこんなにぴったりした曲だったなんて知らなかったよ。反則レベル。


 “僕らの出逢いがもし偶然ならば? 運命ならば?
  君に巡り合えた それって『奇跡』 ”



………。
…………!!

はあはあ。えぐえぐしてたらすっかり夜になってしまった。どうしてくれるんだ。へとへとじゃないか。うぅうぅ。
……ただ、ひとつだけ難をあげるなら、一番最後の「君を愛してる」というのはどうですか。「ありがとうや愛してるじゃ まだ足りない」って言ってたのに、2度も。いや、別にいいんですけどね……素敵な曲ですよ、ええ、ええ。えぐえぐ……


君に、歌ってあげたいと思ったけど、たぶん途中で泣いてしまうから無理だわ(それ以前に難しくて無理だわ)。こんな曲があると教えてあげるだけにしておくよ。もし気に入っても、私の前では歌わないでおくれ。たぶん私は、その衝撃に耐えられないから。



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私は大袈裟である

2009年04月07日 | もやもや日記
この感傷を伝えることはできるのだろうか





なぜ私はたびたび大袈裟だと言われるのか。


物心がついたころから、私はことあるごとに「言うことが大袈裟だ」と評価されてきた。どうしてだろう? それは、たしかに私の言葉がいちいち大袈裟だからなのだろう。たしかに大袈裟だと自分でも思う。物事の凄さを表すためなら、単位も何も無視することもある。30cm のところを 1m と目測する。たしかに私はいちいち大袈裟である。否定は出来ない。

自覚があるなら、もうそれで済む話だけれど、実はすべての場面において私は大袈裟であるつもりはなかったりもする。大きさや広さ、長さなど、測れる物に対して言う場合には私も「大袈裟だったかな」と過大さを自覚できる。そもそもにおいてそんな私がこんなことを言うのもためらわれるのだが、しかし、美しさや悲しさ、感情の激しさについては、どうやったら正確に表現できるのだろう。「とにかく凄い! もう滅茶苦茶に!」と言う以外にどんな表現があるのだろうか。適当な言葉が思い付かないので、私はひたすらにこれらを連発している。人と話している時もそうだし、文章でもそうだ。
私自身は「(満足したので)もう死んでもいいと思った」とか「それさえあれば、もうほかに何もいらない」と言う人の言葉にしばしば魅せられる。そして私はそういう表現を特に大袈裟だとは思わない。けれど、私がそれと同じように言うとたちまち「大袈裟だ」と言われてしまうのである。これはいったいどうしたことだろう。私を「大袈裟だ」と評価する人にしてみたら、私も、私が好きな人の言葉も、どちらも大袈裟なのだろうか。ここを考慮しないまま進むのは無意味な気もするけれど、いろいろと考えずにはいられない。

私が物事に感じたことをそうやって表現する場合、私の言うことは大袈裟でうるさいかもしれないけれど、嘘ではない。不正確ではあっても、まったくの嘘ということではない。私はそれを大きく見せたいのではなくて、その大きさを強い言葉でもって表したいだけである。

もちろん、私の言葉が嘘ではないからといって、何かそれの価値が上がるわけでもない。重要なのは、その言葉が嘘であるか真であるかよりも、相手にそれが伝わるか伝わらないか、伝わるとしてどのくらい深く確実に伝わるかということだ。「大袈裟だ」と言われてしまうのは、きっと私の言葉ではこの感情の大きさが伝わらないからだ。もっと的確に表さなければ、分かってもらえないだろう。
「凄い」とか「滅茶」とか言う以外に、あるいは「胸が痛む」とか「涙が止まらない」とか言う以外に、どういう言葉なら良いのだろう。もしかしたら強い感情を伝えるために必要なのは強い言葉ではなく、もっと静かで控えめな言葉なのかもしれない。激しさを伝えるのは、必ずしもそれ自体が激しさを持つ単語ではなく、もっと別なもの、別な表現なのかもしれない。考えてみれば、感情の大きさや激しさを「強さ」で表すのは不適当な気もする。だが、それはどういうものなのだろう。私は知らない。


もう黙っていた方がむしろ良いのかもしれない。
そう思ってしまって仕方がなかった。だけど言葉を尽くさなければ、きっともっと伝わらなくなるだろう。沈黙したままで、誰が私を顧みてくれるだろう。誰が分かってくれるだろう。だいいち、私が分かってもらいたいのだ。伝えたいのは私の方なのだ。

まずは日頃から正確さということを心掛けてみようか。普段から正確な物言いをしていれば、いざという時の言葉も信用してもらえるかもしれない。物事をなるべく正確に言い表そう。
それを心掛ければ、ひょっとすると私が興奮している時、そしてその興奮を誰かに伝えたい時にも、落ち着いて適当な言葉を選べるかもしれない。……だが、興奮の真っただ中にある時、落ち着いて言葉を選べるくらいなら最初から問題にはならないような気もする。それが出来ないから、困っているのだ。まあでも、とにかく心掛けるだけは心掛けてみよう。

それにしても私は言葉ということにこだわり過ぎているかもしれない。会って互いの顔を見ながらであれば簡単に伝わることだってあるはずだ。ところが私が「大袈裟だ」と言われてしまうのは、圧倒的に対面の場合が多い。生身の私から発せられる声による言葉は、その時、明らかに伝わっていない。ならば、私の文章の方は大袈裟でないかというと、そうとも言い切れない。わざわざ「君は大袈裟だ」というメールをくれる人がいないだけではないのか。私には、会える人にも会えない人にも、伝えたいことがある。なるべくその通りに伝えたいと思うことがある。そして、もしもそれが言葉によって伝わったら、どんなにいいだろうと思う。幻想か幻覚かもしれないが、私の伝えたいことが時々は誰かに伝わった手応えがあったし、その時の感激を忘れたり諦めたりすることはできそうにない。

言葉だけで足りないなら、「表情」とか「物腰」といったこともやはり重要なのかもしれない。そういった人間性とか品性とでも言うべき要素が大事かもしれない。そういうものは、つまるところその人の言葉や文章に影響を及ぼすだろう。信頼するに足る人間性。私に欠けているのは、まさにこのことかもしれない。なんだか気が遠くなってきた。私がそんな「ちゃんとした人間」になどなれるだろうか。努力はすべきとは思うけれども。努力はすべきと思うのだけれど……。


不正確とか不誠実ということを恐れていっそ黙っていたくなるけれど、諦めてしまうには惜しいほどに、伝えたい物事があり過ぎて、私は大袈裟と言われようとどうしようと、結局は何も考えずに「凄い!」「やばい!」と言わずにはいられないのだろうな、この先も当分。ああ。

というわけで、
あれこれ考えてみた末に………開き直った!! の巻。でした。



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地道

2009年04月06日 | もやもや日記


今週は「地道にやる」のが良いらしいんですよ。運勢占いによると。
私は気にしていないようでいて、実は運勢占いなどが少しばかり気になる性格です。ものすごく気にはしていませんが、ちょっと気になる……。少し心に留めておくか、というくらいの軽い気持ちで運勢を気にしています。

というわけで、とにかく「地道」を心掛けています。何事においても「計画的」ということが苦手な私にも、「地道」はほんのり優しい言葉です。地道に、地道に……。


というわけで、同人誌、ようやく4冊仕上がりました。
あとちょっと! あとちょっと!
今週中にもみなさまのお手元へお送りしたいと思いますので、よろしくどうぞ☆


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今朝の夢で

2009年04月04日 | 夢の記録





いくつかの体調不良がコンボしたおかげで、しばらく寝てました。寝まくり。

それで、その間中、夢ばかり見ていました。目が覚める前に、だいたい2本ずつくらいを夢見ているのですが、「ああ、もうすぐ覚めてしまいそうだから、ちゃんと覚えておこう」と気張っているにもかかわらず、起きた途端にさらさらと記憶が流れ落ちてしまうので残念。いやまあ、今のところはたいして面白い夢を見ていないからいいんですけど。

ゆうべはK氏が「朝まで Star Trek DS9!」とか言って、夜中から明け方まで第7シーズンを7話分くらい見るのに付き合ったら、またまたたいそう疲れました。というわけで、びっくりするほどの単純さに自分でも呆れてしまいますが、そのあとの夢で私は大好きなジャッジア・ダックス(←DS9の登場人物。美女)に向かって、「私があなたをどのくらい愛しているか、どんなふうに愛しているか、とても一言では説明できないですよ…」と泣きながら訴えていました(ちなみに、ゆうべ見た中にはジャッジアは登場しません…;)。

ジャッジア・ダックスに熱い想いをぶちまけながら、私は、「しかし私が愛しているのは、ジャッジアなのか、ダックスなのか……多分そのどちらも愛しているんだ」ということを伝えたいのに、うまく言えずに悶々としていたようです。ドラマを見ていない人には何のことだかサッパリですよね。スミマセン。
トリル人のジャッジアと、彼女の体内に共生するダックスとは、厳密には違う生命体です。ひとりだけど二人(もっと厳密には共生生物ダックスは寿命が長く、ホストを次々と変え、ジャッジアはその8番目のホスト。ダックスを共生させることで、ホストは歴代ホストの記憶を受け継ぐことになるらしい。なので、体はひとりだけど、人生は8人分。みたいな)。

第6シーズンと第7シーズンにかけては「ダックス・インパクト」とでも言うべき衝撃展開があって、私はここを乗り越えるのにかなりの年月を要したわけですが、こないだとうとう乗り切りました。予想どおり、数日間は立ち直れませんでした。もうだめだと思った……。だけど、あの夢を見たからには、もう大丈夫な気がする。もう大丈夫というサインだという気がした。

とにかく、どうにかDS9自体のクライマックスもいよいよ目前で、およそ10年がかりでようやく、私はこのドラマシリーズを見終えるということになりそうです。
さびしい。さびしい。たまらなく、さびしい。

うーむ。だけど、見れば見るほど、DS9は面白いドラマだと思う。面白いなあ。面白い。宇宙は広いのに、そこには未知への興味と果てしない冒険があるのに、どうして……という深い物語。どういうオチをつけるのか、楽しみでなりません。


あ、2本立てでもう一個夢を見ましたが、そちらはどこかの喫茶店兼貸本屋(?)かなんかのお店で、店主のおじさんが親切にも私に「この短編集には、こういう作品が入っていてね……」みたいに教えてくれるという内容でした。その短編集が異常に面白そうで、私はたいそう興奮しておりました。喫茶店の経営はやや厳しいらしく、色々と苦労がありそうな気配で……。あとは忘れた。


春にはどうして夢ばかり見るのでしょうね。



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今日から新年度

2009年04月01日 | もやもや日記
非公開中の自作アニメ「アネモネ」より
罠を仕掛けていた白い猫、告白の瞬間。
そう言えば、今日は……




最近のこと。

(その1)あ、気が付いたら新年度……。あれ……いつの間に?
     とりあえず、エイプリル・フール用のネタは思い付かず。
     私は騙される方でいるのが楽しい。

(その2)毛刈りに失敗。大変なことになっています。
     虎刈り☆状態(/o\;) 自家散髪の危険性を久々に認識。

(その3)寒くてやりきれない。春はいつ来るの?

(その4)同人誌の製本が……。もういい加減に……。でもあとちょっと。

(その5)筋トレでズボンがゆるくなった。唯一のポジティブ要素。
     やっぱ体が資本ですよね。


いろいろありますが、とにかく健やかに暮らしたいですね!
最近はやたらと焦る気持ちがせりだしているので、少し落ち着きたいです。気が立っているせいか、今朝もなんだかものすごく怒りながら目が覚めました。何かにとても腹が立ったらしいのですが、夢の内容は全然思い出せず……。私は春にはよく夢を見るので、精神生活をなるべく充実させたいのになぁ。全然充実してないや。ただ闇雲に焦っているだけで。これは反省すべきですね。
そう言えば、このあいだ、どこかの研究結果としての記事で見ましたが、集中状態での読書はストレス解消になるそうです。これは朗報。読みたい本なら、倒れそうなくらい(←本と私自身、両方の意味で)あるし! さて、そのためにもアレコレ片付けないと……。

それから、たまたまテレビで見ましたが、冬の雷鳥は雪に穴を掘って、頭だけ出してうずくまっていたりするみたいでした。真っ白ふかふか、足の先まで羽毛がふさふさしていて可愛かった。鳥類は可愛いから良い。


いつかきっと、こんな脈絡のない文章を書くのをすっかりやめてしまいたいのですが、いつぐらいになるかは、どうも判然としないまま新年度に突入したいと思います。今日も変わらず、もやもや日記。
あ、桜、咲きそうだ。
なのに、……雨!!



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