移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ
2017年10月の初メルボルン
4日目の朝は前日から
目を付けておいたココへ。
マーケットレーンカフェ
クイーンビクトリアマーケット
の目と鼻の先の店で
混み合っているのが
目立ちました。
レンガにペンキを塗っただけの
素朴にしてオシャレな店内
なんとか席を見つけました。
そうでなければ持ち帰り。
店の規模に比べて
スタッフが多く
忙しさがうかがえます。
学生のアルバイトかな
紙コップだったのは残念
コーヒーは断然マグ派
紙コップは紙というか
内側のコーティングの
臭いや舌触りが気になり
使い捨ては環境の敵
かと思うと、それだけで
美味しさが3割減
コーヒー好きの街で
コーヒーを淹れたい
オーストラリアでは年間
10億個の紙コップが
コーヒーに使われ、
1日にすると270万個
と言われるのを考えると、
コーヒーにこだわるなら
店も客もぜひマグに
こだわってほしい
その後は無料の路面電車に
乗りました。
これだけ公共交通機関が
発達していたら、クルマが
なくても大丈夫ですね。
公共交通機関が未整備のまま
クルマだけ締め出そうとする
今のオークランドは課題山積。
やってきたのは全面塗装中だった
フリンダースストリート駅
プラットホームは古色蒼然
色もレトロなままで
古き良き時代の趣。
でも発車標は見やすく
外の喧騒が嘘のような静かさ。
入って来る車両はモダンで
通勤通学の足なんでしょう。
さて、出発です
メルボルン博物館の後は、
周辺をぶらぶら散策
19世紀の建物が普通に現役
NZでは見かけないので
異国情緒を感じます
こんなにクラッシックな洋館が
タイ料理店
街路樹が美しいライゴンストリートは
リトルイタリーという面持ちで
イタリアンの店がいくつもあり
テラスでの食事も良さそう
その間にはアジア系の店もあり、
かつて洋食だった店がアジア系
の店に取って代わられている
という印象を受けました。
メルボルン大学も近い場所だし
アジア食のコスパ
は学生には
魅力だろうし~と、街の変遷に
想いを巡らしつつ・・・・
目星をつけたのが、ココ
キリニーコピティアム
2人で思わず、歓声をあげた
コピティアムという名称。
マレー語でコーヒーショップ
シンガポールでも普通に使われ
シンガポールで知り合い
結婚した私たちには
懐かしすぎる邂逅でした。
写真を見ただけで
夕食はココに決定
マレーシア料理は多々あれど
シンガポール料理の店は
ありそうでないのですわ。
この店は1919年創業の老舗。
シンガポールで3年も暮らしたのに
まったく記憶がありませんでした
イスラム教徒でなくても
ハラルに安心(笑)
フィッシュボールミー
チリクラブ
チキンサテ
カレーラクサ
テーブルの上が同窓会状態(笑)
ラクサの麺はもちろん2種類使い
店の人のシングリッシュも懐かしく
つい話し込んでしまいました。
メルボルンに来るときは
ぜひまた立ち寄りたいです
「博物館に行くには体力がいる」
と思っています。
まず、ずっと立っている。
説明を読んで理解する。
展示物を鑑賞する。
数時間はかかる
大学の講義を2コマ連続で
受けるどころではない
能動的な知的活動で、
数時間ほぼ静止状態での
読んだり見たりは
数時間散歩するよりも
疲れる気がします
それでも行く
そこに博物館がある限り
「今」を知るためには
来し方を知る必要がある
という考え方です。
王立展示館真裏の
メルボルン博物館
とにかく広いので
的を絞っていくことに。
先住民に敬意を払って
アボリジニ関連から。
私が永遠に郷愁を感じる
掘っ立て小屋の絵
アボリジニの画家
ジュディス・ヤング作
ポッサムの皮で作ったマント
誰もが一生これを持ち歩くそう。
これを被って寒さをしのぎ
赤ん坊を包んだり背負ったり
これもそれのよう。
(※ジュディス・ヤング作)
このひざ掛けもそうでしょう。
夜はこれを敷いて眠り、
亡くなればこれに包まれて
弔われる。
なんと簡素で高潔な生き方
現代人には真似できなくても
自然から奪うものを最小限に
自然を守り育んでいく
精神は受け継いでいきたい
これは太古に生息していた
史上最大の有袋類といわれる
ディプロトドンの顎の骨
こんな姿で「ウォンバットと
クマをかけ合わせサイの
大きさにしたような動物」
だったんだそうです。
人間が入れるような
袋を持っていたそうで
4万5,000年ぐらい前に
全滅してしまったそう
博物館内のカフェで一息入れ
さらに見学が続きます。
子連れの人が大勢いて
小さい時から博物館に
慣れ親しむって
素晴らしい環境
アボリジニにとって
オーストラリアは500以上の
ネーションから成り立ち
入植者には不毛に思えた
砂漠にもネーションが
場所が変われば文化も違い、
さまざまな道具や工芸品が。
ニャン
もいました(笑)
高度な技術と芸術性
洗練された装飾性も。
時代はグッと下って19世紀。
1854年の目抜き通りの
コリンズストリート
1885年に初の路面電車開通
メルボルンっ子のトラム好きは
その時からのものだそう。
私もNZ移住前の香港生活では
トラムを乗り倒していました。
バスと電車のいいとこ取りで
とにかく手軽で便利でした
19世紀末のフリンダースストリート
活気が伝わってくるよう。
1930年代の手袋製造工場
その頃から人気だった
(※1861年開始)
メルボルンカップ
今でも学校が休みに
なりますからねぇ
1950年代のバークストリート
クルマでなく人が大勢いるせいか
街の活気が目で見えるよう
ここにもあったメルボルンの
コートオブアームズ
1847~1960年まで市場に
あったものだそうです。
右上がクジラという
以前のエンブレム
と同じデザイン
ちなみにオーストラリアの
コートオブアームズ
その実写版
があって
コートオブアームズ好きには
(↑地味すぎる~
)
大ウケでした
2017年10月の初メルボルンは
レンタカーを1日も借りずに
歩くか公共交通機関を使って
見て回りました。
天気にも季節にも恵まれ
歩き回るには最高でした
クイーンビクトリアマーケット
から1キロあるかないかの
カールトン庭園
その中に建つ
王立展示館
2004年にオーストラリア初の
世界文化遺産に登録された
世界遺産のひとつ
1880年10月~1881年4月まで
開催されたメルボルン万博の
会場として建設されました。
入場者は延べ100万人以上
だったというから驚きです
当時のメルボルンの人口は
28万人。全国でも220万人(笑)
なのでやらたに大きくて
(※入口)
どうがんばっても
全体が撮れない(笑)
観光用パンフでも
何かしらんが欠けてます
大英帝国の威信をかけて
ありとあらゆるヨーロッパの
建築様式を盛りに盛って
ヨーロッパにはありそうでない、
オーストラリアらしい巨大な
建物を創り上げたんでしょうね。
万博は「工業の殿堂」として、
ピアノ、タイプライター、馬車
電灯、芝刈り機、家の装飾品等
ありとあらゆる工業製品が
一堂に展示され、これを機に
メルボルンっ子の生活様式は
一変してしまったそうです。
未完のビクトリア州議事堂には
付くことのなかったドームが
ここには付いています
庭園では新婚さんたちが
大撮影大会
花婿がレフ板を持って協力
広々とした庭園で
気兼ねなくとことん
撮影できそう
入口にあった簡易寝具一式
誰かが世界遺産を
棲み処にしているよう
彩を添えていた多肉園
すぐ裏手はメルボルン博物館
ここでガイドツアーを申し込めば
内部の見学もできるそうですが、
時間がなくて今回は断念
ぜひ、次回にでも
2017年10月の初メルボルンも
やっと3日目を迎えました(笑)
ホテルから徒歩圏内だった
メルボルンの台所といわれる
クイーンビクトリアマーケット
1878年の創業で140年以上
メルボルンっ子の食を支え
街のアイコンの一つとして
発展してきたそうです。
(※写真はHPより)
600店以上が出店しており
とにかく広い
どこからどこまでなのか
容易にはわからない大きさ
建物には「乳製品」とあっても
今はカフェになっていた一角
地元の人は馴染みの店へ
まっしぐらなんでしょうが
観光客はただウロウロ(笑)
アーティチョークが大きい
ブロック肉も大きい
どれも新鮮そのもの
やっぱりバナナが気になる
おサル夫婦
(※毎朝欠かせません)
湯船のように大きい段ボール
NZではこのリンゴ版
があり。
住んでいたら絶対買いに来そう
でも今回は部屋食の予定がなく
ただ見て回るばかり。
パスタ専門店
ハチミツも
肉類も
NZは持ち込み不可だし
シーフードはOKですが、
コレ、おみやげにする
エビはやっぱり
クイーンズランド産でした
シーフードの店はどこでも
アジア系が多い気がします。
衣類や日用品を売る店も多く
おみやげを買う観光客の姿も。
でも、この辺のコピーライト
大丈夫(笑)
適当に見繕ったもので
マーケットで朝食を
8月中にメルボルン旅行記を終え
次の旅行記に入るはずが、
まさかの夢日記の連載と中断で
9月も早半ば
がんばりましょう
2周回遅れが見えてきた
2017年10月の初メルボルン。
2日目の夜も再び中華街へ
いろいろ歩き回った結果、
今回はこジャレた店はパスして
アジア料理で行くことに
行列ができていた
ラーメン屋
和食の店も多数あります。
(※日本人経営かどうかは不明ながら)
昨日行列ができていた
こっちに並んでみました。
小街小籠館
昨日の店と中国語名がそっくり。
上海小籠館
でも別の店でした。
メニューの内容も料理も
こちらの方が本格的で
夫の大好物、小籠包も
こちらの方が上でした。
野菜はガイラン
感激だったのは陽春麺
ここまでシンプルに
そのまま出してくれる
店はそうそうないかも。
昨日の店がすべて3なら
ここはすべて3.5でした。
食の街メルボルンは
店の種類も数も多く
気合を入れて調べて
来ないと何がなんだか
これも飲食
まさか
街の雰囲気のせいか、
一度ホテルに戻って
着替えて繰り出すよりも、
出かけたままの恰好で
軽く食べて帰る方が
合っている気がしました。
ややご無沙汰していました。
多忙と
旅行で更新が疎かに
今日からいつものペースに
戻りたいと思います(祈)
=============
2回り年上で同じ寅年
今年81歳になる、
スー
彼女とは民族や年齢を超えた
理解と共感がありました。
その中でも一番の共通点は
本当の孤独を知っている
ことだと思っていましたが、
彼女は若い頃の辛い経験が
尾を引いているのか、
人付き合いには慎重で
なかなか心を開きません。
私たちはボランティアで
知り合いました。人の善い
優しい仲間が多い中でも、
スーは頑なな態度や発言で
孤立してしまいがちでした。
私はできる限り中立に
スーの人付き合いの悪さ、
というよりも未熟さを
受け流すようにしていました。
私たちはNZの美しさへの
愛と称賛では一家言を持ち、
海よりも山や湖が好き
(海派のキウイの中では少数派)
南島より北島が好き
(NZの観光地は南島に集中)
という共通点もあり、旅の
話が尽きませんでした。
「だから私は海外に行かないの。
前は行ったけれど、そのたびに
やっぱりNZが一番いい!
と思って帰って来るので、
もう行くのをやめたの。」
「そうね。私もそうだわ。」
深く考えずに、私は相槌を打ち
話を流してしまいました。
NZが一番いい!
というのは揺るぎなく、
その点は私の本心でした。
その会話は2015年頃の話で、
今に続く一連の海外旅行や
海外不動産投資を始める前で
私も日本や香港への里帰り
以外では、まったく海外に
行っていませんでした。
それが2016年に入るや、
夫が思いがけず
「旅行元年」宣言を出し
年に何回も海外に出かける
今の生活が始まりました。
ちょうどその頃からスーは
ボランティアを変わり、
私たちはなかなか会う
機会がありませんでした。
2017年に入ってみんなで
集まったときに、珍しく
スーもやってきました。
他愛もないおしゃべりの中で、
70代後半の仲間の1人が、
「知ってた?この子ったら
ハワイのホテルの1室を買って
これから毎年行くのよ
」
と、私を話の肴にすると、
スーは燃えるような瞳で
私を見つめ、無言でした。
失望を露わにした硬い表情に
私は取り返しのつかない事態に
なったことを悟りました。
人付き合いに慎重で、なかなか
心を開かなかったスーの心は
私に対してもピシャリと閉じ、
2度と開きませんでした。
スーは仲間の中から完全に消え、
誰が誘っても来なくなりました。
些細な誤解を解く機会もないまま
月日が流れ、スーはときどき
白い清楚な木綿のネグリジェで
夢に登場しては、彼女そのままの
声と仕草で声をかけてくれます。