ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

クイーンズタウン2回目行:3人行

2024年12月16日 | 南島:クイーンズタウン

2023年4月クイーンズタウン初日


丸2年ぶりに訪れたNZ随一の
リゾート地クイーンズタウン

青い鏡のようなワカティプ湖


この度は長男と一緒の3人行



18歳でNZを出たきり一度も
帰らず今回11年ぶりの里帰り



「だったらクイーンズタウン」
と親が決めて3人で来ました。

観光蒸気船アーンスロー号


3人で乗ってみよう



コロナ渦明けの2年前も4月に
訪れ紅葉が見事だったので今
回も迷わずここにしました。



4月は、主に第一次大戦の戦
没者を悼む戦没者慰霊記念日
アンザックデーがある月で、

この町から出兵した人の数だ
け十字架があるのでしょう。


アンザック兵とはAustralian&
New Zealand Army Corpsの
頭文字で、NZとオーストラリ
アの志願兵の総称だったため

ここにもオーストラリア政府
と民間人から贈られたオース
トラリア色の黄色の花輪が。


無謀な戦略として悪名高い第
一次大戦のトルコのガリポリ
上陸作戦ではNZ兵2,700人、
オーストラリア兵8,700人と
両国史上最大の犠牲者数とな
り毎年ともに弔っています。


ワカティプ湖畔のカフェは営
業時間の終了間近で入れず



チョコレート専門店パタゴニ
へ。いつも開いてて助かる



とりあえずコーヒーブレイク



甘いものがよりどりみどり



涼しくてもアイスは大人気



甘いのが苦手なのでシュガーレ
スのダークチョコ+マカダミア

3人であっという間に完食(笑)
長男がいるだけで倍速です。


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クイーンズタウン2回目行:南島のパノラマ

2024年12月15日 | 南島:クイーンズタウン

2022年8月以来のNZ南島



湖があって



山があって



川があって



その合間にぽつんぽつんと

人の営み


ワナカ湖



アオラキ/マウントクック



大きく蛇行する川は氾濫した
ら大変でも、より広くの大地
を潤してくれる恵みなのでは

自然と営みが織りなす美しさ


これはワナカに通じる道か?



マウンテンバイクコースかな
歩いてもいいんでしょうが

バックスキンのような山肌


偶然とはいえなんという配色

自然にはかないません。


地上でせっせと慈しみ育んで
いることが、上空からでもこ
んなにもきれいに見えるとは



大切にすることは意図せずと
も整然と美しく見えるよう



北島にはないパノラマです。



それでも家が増え続けている
のを感じる新興住宅地の家々



2023年4月。到着したのは

2年ぶりのクイーンズタウン


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夢見:結婚式と辛ラーメン

2024年12月14日 | 浅き夢見し

「私」は自分がビーチサンダ
ル履きなのに気づいて血が引
く思いでした。ご丁寧にスト
ッキングを履いており、それ
が鼻緒に食い込むという💦と
んでもない姿をしています。


「どうしよう、靴を忘れた」


「私」は実際に持っているラ
イトブルーのワンピースを着
ており、黒いハイヒールを合
わせるつもりでした。どうし
てビーチサンダルで来たのか


倒れそうなほど焦った理由は
もうすぐ次男の結婚式が始ま
るところだったからで、靴を
履き替えに行って間に合うか
どうか。まだ参列者の受付を
しているところで間に合う


場面は変わって「私」は夫と
ホテルらしい部屋にいます。


靴を履き替えに慌てて戻った
はずなのに、そこにいた長男
と3人で談笑しながら、なぜ
か寛いでいます。結婚式の事
も頭の片隅にはあるのですが
3人で辛ラーメンを食べるこ
とになり、カップ麺の封を開
けてまさにお湯を注ぐところ



しかし、カップは2つしかな
く、「もう1個あったっけ」
と呑気に思うところで終了。


=============


次男は実際、最近結婚しまし
た。資格を持った公認媒酌人
の立ち合いのもとで両家7人
だけの普段着青空家族婚(笑)


夢の中では着飾った参列者が
花で飾られた受付で次々に記
帳しているのを遠目に見ただ
けで式は無事終了したのか


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タスマニア備忘録:2023年3月

2024年12月13日 | 海外:オーストラリア備忘録

タスマニア7泊8日が52本に。
再びブログでの新記録樹立


今までの記録がグレートオー
シャンロード+アデレード

50本だったので、単独の場所
としてはハワイアデレード
の40本を抜いて断然トツプに


私にとりタスマニアの魅力は
オーストラリア近代史をギュ
ー詰めにしたような歴史、野
生動物の宝庫、島同志のせい
かNZを彷彿とさせる風景だっ
たのかな、と。タスマニアデ
ビルとの貴重な出会いも

 
何度も中断しつつ10ヵ月がか
りで書き終えたのも記録か💦



オーストラリア最南端の旅

いつか来たかった秘境の地


20世紀初頭からの風景

歴史的建造物に宿泊


街歩きはハト小屋から

ハト小屋という名のカフェ


ホバート最高峰クナニ/マウントウェリントン

標高1,271ⅿでホバート最高峰


充実のカフェカルチャー

地元産タコ入りスクランブル


デビルに恋して

一目で恋に落ちた野生の天使


非動物園の生き物たち

柵のない出入り自由な動物園


世界遺産囚人遺跡群の半分がある島

送り込まれた流刑囚16.5万人


世界遺産ポートアーサー史跡

1833年に始まる歴史


流刑囚の見た景色

船で来た彼らの見た風景


囚人がいれば看守もいる

彼らを管理する司令官執務室


分速6kmの通信手段

手旗信号機でホバートと交信


最も著名な流刑囚

それは国会議員の政治犯


流刑地の病院

フル回転だった矯正医官たち


アサイラム

古の「狂人病棟」


沈黙の隔離刑務所

監獄そのものの不気味さ


無事出所

閉館時間を過ぎて右往左往


ノースホバートからアーガイル通り

ホテルから海辺まで散策


青空市場サラマンカマーケット

今までで最高の青空市場


英国章のフランス語

こんなところにフランス語


移民のダイナミズム

同じ移民として成功が嬉しい


ホバート港散策

コロナ後を実感するクルーズ


ホバートの礎ハンター通り

ふらりと立ち寄った街の礎


ハンター通りの商人

マーチャントと呼ばれた人々


ジャム王の盛衰

ジャム王はクリスチャン


ヘンリー・ジョーンズ帝国の萌芽

12歳から叩き上げ帝国構築


ジャム缶男爵

タスマニアのサクセス物語


エリザベス通り

目抜き通りでイタリアの夕べ


コーヒーからビールへ

カフェからブリュワリーへ


カスケードブリュワリー

まるで「お化け屋敷」(笑)


バッテリーポイント

砲台岬は高級住宅地


タスマニア王立植物園

焼津市と姉妹都市で日本庭園


夜中華と朝カフェ

地方によくあるホっとする店


ミニチュア村オールドホバートタウン

ここはいつかまた再訪したい


古の町リッチモンド

名前からして古風な町


野生動物病院ボノロング野生動物保護区

野生動物園ではなく動物病院


デビルに再会

もっと近くてもっとたくさん


デビルは回るよいつまでも

クルクル回るのは本当だった


取り組みに感謝

自分ではできない努力に感謝


キャンベルタウンの新オーストラリア人

なぜこんな道路端に漢字が


ローンセストン入り

タスマニア第2の都市へ


雨の日には最高のQVMAG

雨の日には博物館がある


土管の街

経済発展を担った意外なモノ


オーストラリアTop10の中華料理店

全国Top10の店がココに


ペニーロイヤル・ローンセストン

古くて新しいテーマパーク


カタラクト渓谷

風光明媚な街一番の観光地


窯焼きのパン屋ロスビレッジ・ベーカリー

1860年以来窯焼きのパン屋


キキのパン屋

『魔女の宅急便』のあのパン屋


南緯42度の見えない対立

島を二分する見えない対立


対立から統合、そして対立へ

政治的な対立、統合。そして


南緯42度の見える境界線

対立が「見える可」


カスケード再訪

やっぱり「お化け屋敷」(笑)


さて、今回の記録が破られる
ことはあるのか?それはいつ
でどこだろうか~なり先か


長い間お付き合い
ありがとうございました



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タスマニア行:カスケード再訪

2024年12月12日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア7日目


イギリスからの流刑囚が初期
のオーストラリア植民地建設
に大きく貢献したことは動か
しようのない史実ですが、そ
の多くは都市部に集中したた
め、ロスのような農村部での
貢献は珍しかったようです。


背景には、タスマニアの植民
地化が全国で2番目と早く、
ロスが交通の要所だったため
流刑囚の貢献が制度の運用と
同時に始まったからのよう。


囚人がいればその収容施設が
あるのはポートアーサー同様


村のはずれにぽつんとある、

『ロス女子工場』とだけある
更地になった女囚刑務所跡地


女囚刑務所としてはサウスホ
バートの世界遺産カスケーズ
女子工場が知られています。


ここの歴史は1833年にロス橋
建設
のために送り込まれた流
刑囚が藁ぶき屋根の小屋に収
容された時から始まります。


1840年代には重犯罪者の刑罰
施設(punishment station)と
なり、刑の一環に辺鄙な場所
で重労働を課しました。囚人
は逃亡予防と刑罰のため重い
金鎖を足に巻き道路建設に駆
り出されました。その数300
人以上と今の村民とほぼ同数

(※囚人の足かせ、パース)


1848‐55年の7年間は高い塀に
囲まれた女囚刑務所となり、
それ以降は警察署や民家とな
って1980年以降は指定史跡に

今は看守小屋が残るばかり


個性的な塗装の外壁。19世紀
の建物を丁寧に改装した民家



歴史に抱(いだ)かれるこんな
家に住むのが長年の夢です。



でも、もう時間切れかなぁ(笑)



「最後に食べておきたい
と夫が買いに行って来たのが

タスマニア産バルハラアイス


アメリカのハーゲンダッツ創
業者は「簡単には読めない名
前は美味しそうで売れる
として社名を決めたと、昔ど
こかで読んだ気がしますが、

バルハラもそれに近いかも(笑)
英語ではないのがカギなのか


いよいよロスを出て、一路南下



エルムの街路樹に覆われた村

またいつか


延々と続いていたミッドラン
ドハイウェイの道路工事。鉄
分なのか不思議な色の赤土



ホバート着。再びリッジス

今度は2階の角部屋でした


予定どおり予約し舞い戻った

カスケードブリュワリー


この日はクイズナイトの日で
(※イギリス系はクイズ好き)



参加しない私たちはやや奥に
参加者は参加費用があるよう

いつか参戦してみたいけれど
「バリの空港所在地の名前は」
ぐらいしか判らなかったかな
(👆たまたまこれは聞いてた)


非常に丹精されたガーデンで



外でも飲食可ですが3月の夜
はかなり寒くて、みんな中で



こんな場所でもワインな私💦



この試飲セットがどんどん出る



えっ

ネズミがいる



でも餌が用意されているから

ネズミじゃない。キミは誰


調べたらネズミカンガルーで
ポトルーと呼ばれているよう

こんなに小さくても有袋類


夫はバー飯の王道バーガーで



初めてみた時「お化け屋敷」
と思ったとおりの夜の眺め



絶対なにかいそうですよね(笑)



最後の夜が更け、タスマニア
旅行記これにて終了します


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タスマニア行:南緯42度の見える境界線

2024年12月11日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア7日目


対立か統合かにかかわらず、
南北の往来が増えるにつけ中
継地ロスの重要性は高まり、
1824‐54年の30年間は英陸軍
の駐屯地として、軍隊の村に

(※1929年に建設された兵舎
流刑囚導入以前の労働力がほ
とんどなかった時代の建物。
兵士自ら建てたのだろうか)


いくつもの軍の建物が歴史的
建造物として残っています。



1833年に本国からタスマニ
アへの流刑囚移送が始まるや
囚人たちはロスにも送り込ま
れ、マッコーリー川の石橋建
設に従事させられました。橋
は1836年完成。サンドスト
ーン製のロス橋は国内で3番目
に古い現役の橋だそうです。



橋には186ヵ所の彫刻があり
これらは囚人の中の石工たち
により掘られたものでした。

この功績により石工たちは恩
赦を受けたという質の高さ。


橋の上の壁の内側には左右に
ホバートまで69マイル(111km)



ローンセストンまで48マイル

(78km)と彫られています。


一見古の道標ですが、この橋
こそが南緯42度の存在を確定
する場となり、見えない42度
を「見える化」したことで南
北の心理的対立を恒久化した
境界線だと言われています。


1812年に南北2州は統合され
全島が1州になったにもかか
わらず、その24年後に見える
境界線ができたことで、人々
は石を積み、生垣を植えて橋
からの境界線をずっと先にま
で伸ばしていったそうです。

(※橋周辺の石の塀)


かなり古い石。橋と同時代の
ものではないかと思います。



1830年代までの南北の対立
は、ホバートが植民地政府の
議席を持ち中央とのパイプを
築くことで、土地や労働力と
しての流刑囚の分配により発
言権を持っていた点でした。


しかし、1834年にローンセス
トンの民間人ヘンティー一家
が現在のビクトリア州に移り
住むや、状況が一変します。


対岸の開発が急速に進むこと
で北部は恩恵を受け、1850
年代にはビクトリアでゴール
ドラッシュが巻き起こり、そ
の後タスマニア北部でも鉱山
ブームが起きたことで、ロー
ンセストンはホバートをしの
ぐ経済成長を実現しました。


ローンセストン万博(1891~
92年)がホバート万博(1894
~95年)に先駆けたことに、
『北』の意地を見るようです。


万博当時の『北』は鉱山ブー
ムの終焉で景気停滞に見舞わ
れ、万博での景気梃入れに一
縷の望みを託していました。

(※会場のアルバートホール)


時代は下り第2次大戦後の19
59年に双方の代表が『南北対
話』に臨みましたが、対話は
「対立はなく違いがあるのみ」
と締めくくられ関係は平行線


展示には「ライバル意識は消
滅しても今も緊張は続く」と
あり、これが『北』の本音か



ちなみにロスは『北』です


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タスマニア行:対立から統合、そして対立へ

2024年12月10日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア7日目


1804年に政治的な理由で爆誕
したタスマニアの2州。北の
コーンウォール州と南のバッ
キンガムシャー州は当初より
南緯42度を境界線に双方とも
没交渉に存在していました。


しかし、1807年に北部で食料
不足が起きると南部へのアク
セスの重要性が浮上します。


今なら対岸のビクトリア州か
ら支援を受ければいいという
話なのですが当時は島内頼り


対岸は1803年にコリンズが
流刑植民地建設を放棄し、ホ
バートに移って行ったばかり

(※コリンズ海軍中佐1804年)


当時は近くて遠かった本土
(※出所:ウィキペディア)

対岸にローンセストンからの
最初の入植者が定住するまで
さらに25年が費やされます。


食料不足の同年、植民地政策
の大本営ニューサウスウェー
ルズの初代測量監督チャール
ズ・グライムズは、島の縦断
ルート開発と南緯42度地点確
定を目的に、ホバートからロ
ーンセストンに出発します。


一行は12日間でローンセスト
ンに到着。行程は肥沃な平原
や谷を行く容易なもので、測
量や地図を制作しつつ北上。

(※今も大半が平原のままです)


これが今のミッドランドハイ
ウェイの雛形になりました。

(※出所:ウィキペディア)


今では一帯がミッドランズと
呼ばれ行けども行けども平野

(※ミッドランドハイウェイ)


グライムズらは今のロスにも
到達し、南緯42度近くで現在
のマッコーリー川を渡りまし
た。これが後年、ここを境界
線にすることの布石だったの
かは定かになっていません。

(※マッコーリー川)


3年後の1810年、当時の測量
監督ジョン・オクスリーは、
「2州を維持することは負担
が大きく必要性もない」とし


「(北の)パターソンの帰任と
(南の)コリンズの急逝は2州
を統合するまたとない機会」

と報告し、これを受け2年後
には全島を統括するトーマス
・デイビー副総督がイギリス
から送り込まれてきました。


これで南北対立は解消された
かに見えますが、あくまでも
政治面だけで、地域感情はむ
しろこれからライバル意識を
高めていくことになります。


植民地時代の最も著名な総督
とされる第5代総督ラクラン
・マッコーリー(任期1810‐21
年)は任期最後の年にこの地
を訪れロスと命名しました。
その間なんと呼ばれてた

(※マッコーリー総督)


同年彼の名を冠したマッコー
リー川に掛かる木造橋が建設
され、後年橋は石橋に掛け替
えられ、心理的な南緯42度を
恒久化することになります。



うぇ~ん😭またまた書き終
えられず、さらに続きます。


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タスマニア行:南緯42度の見えない対立

2024年12月09日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア7日目


正直な話、ロスに立ち寄った
のは"キキのパン屋"で一休み
ぐらいな感覚でした。オース
トラリアの農村によくある風
光明媚だけれどなにもない場
所だと思い込んでいました。


なにもないようでいてロスに
は特異な歴史がありました。



英海軍のキャプテン・ジェー
ムス・クックは1770年にオー
ストラリアに到達し、東海岸
をニューサウスウェールズと
称し英領として宣言します。


当時のタスマニアはヴァン・
ディーメンズランドと呼ばれ
(※1642年に西洋人として初
めてタスマニアに到達したオ
ランダ人探検家タスマン命名)

大陸と認識されていました。


1799年に英海軍のキャプテン
・マシュー・フリンダーズと
ジョージ・バスはタスマニア
が島であることを発見し、大
陸との間の海はバス海峡に。

(※青い部分がバス海峡。
出所:ウィキペディア)


当時の英仏はナポレオン戦争
の真っ最中で植民地獲得でも
しのぎを削っていたため、タ
スマニアをフランスから守る
ためにも、島だけでなく海峡
の死守が急務になりました。


1803年にイギリス本国はデイ
ビッド・コリンズ海軍中佐を
バス海峡に面した本土側のポ
ートフィリップ(現ビクトリ
ア州)に送り込み、新たな流
刑植民地建設を命じました。

(※コリンズ海軍中佐1804年)


しかし、4ヵ月にわたる山火
事、水不足、軍隊の反抗に苦
慮し、コリンズは駐屯地をホ
バートに移してしまいます。


ポートフィリップが放棄され
たことを懸念したフィリップ
・キング第3代植民地総督(任
期1800‐06年)はウィリアム・
パターソン陸軍中佐を今のロ
ーンセストンに送り込み島の
安全保障に乗り出しました。

(※パターソン陸軍中佐1800年)


北の陸軍中佐と南の海軍中佐
が狭い島で相まみえることに
なり、キングは衝突を回避す
べく一計を案じました。島を
南北で二分し、それぞれ独立
した同等の州としたのです。


その境界線となったのがロス
が位置する南緯42度でした。


キング自身海軍の軍人で、世
界のみならずタスマニアのよ
うな小島さえ、緯度経度で見
ていたのかと思うと興味深い



その結果、1804年に北のコー
ンウォール州(キングは本国の
コーンウォール州ローンセス
トン出身で上司の故郷を地名
にする忖度)、南のバッキ
ンガムシャー州2州が爆誕(笑)

(※ロスの南緯42度に関する展
示。これで史実を知りました)


南北の見えない対立は、キン
グの在任期間どころか独立国
となった今も続いているらし
く、部外者の目線では多分に
州都にならず金鉱や錫鉱の歴
史に幕を閉じた北のライバル
意識のように感じられます。


メルボルンとシドニーのよう
な間柄か?どちらも首都には
なりませんでしたが、ゴール
ドラッシュの都と商都の争い
の後の発展の違いは明らか


しかもこの南緯42度は地球儀
上にのみ存在する概念ではな
く「見える」境界線でした。




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タスマニア行: キキのパン屋

2024年12月08日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア7日目


ハートの島のほぼ中央に位置
する、ロスという小さな村の



ロスビレッジ・ベーカリー



1860年以来、薪で温めたレン
ガ製の窯でパンを焼いている
という19世紀ながらのパン屋



実はこの店、映画「魔女の宅
急便」に出て来る"キキのパ
ン屋"のモデルになった店と
いわれ、遠路はるばるジブリ
ファンがやって来るんだとか



試しに"キキのパン屋"で検索
すると、出てくる出てくる、
"タスマニア"とか"ロス"とか


日本人の間だけの話なのかと
思い英語でも検索してみると
ABC(オーストラリア放送協会)
の記事で、こんなのを発見


タスマニアの農村のパン屋が
日本のアニメファンのホット
スポットなのは、なぜなのか


(※記事は日本人を念頭にして
いますが、ゲストブックの写
真は中国語。ファン層広し)


現地だけでなく全国放送(NHK
のようなもの)も把握してる
タスマニア大学からはこの件
に関する論文も出ているとか


2018年のやや古い記事ですが
1989年に映画が公開されて以
降、日本人ファンが来店する
ようになり、中にはキキを真
似赤いリボンに黒いワンピー
スでほうきを持ってくる人も


店主はファンたちに「原作者
はここに滞在してパン屋の話
を書く着想を得た」と言われ
店の裏手の屋根裏には宿泊で
きる部屋も設けたそうです。

(※写真は公式サイトから)


キキと猫のジジが住んでいた
パン屋の屋根裏という発想

店の隣も宿泊施設で宿泊可


ロスベーカリーイン

ジョージアン様式の石造り


脇に広いテラスもあります。



映画の舞台はスウェーデンと
いう説もあるらしく「パン屋
だけタスマニア?」なのか


夢とロマンの謎かけにジブリ
パーク
という答えが出てきて
キキがいたグーチョキパン屋
は、やっぱりスウェーデン


建物の造りがヨーロッパ風🏡
(※ロスビレッジは英国風)
パンリースやバゲットの習慣
(※伝統的な英国風ではない)


とまれ所詮は想像と創造。訪
れる人が自由に思い描ければ
いい架空の場。ここはそんな
夢とロマンを共同幻想にまで
膨らませてくれる優しい思い
やりに満ちた店に感じます。

そしてホッとする美味しさ


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タスマニア行:窯焼きのパン屋ロスビレッジ・ベーカリー

2024年12月07日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア7日目


カタラクト渓谷を出た後は国
道1号線でもあるミッドラン
ドハイウェイを南下し州都ホ
バートへ。途中で立ち寄った


ロスビレッジ・ベーカリー
(👆店同様に素朴なサイト)



ここはロスという小さな村。



ハート型のタスマニアのほぼ
真ん中に位置する交通の要所

(※地図は店の公式サイトから)


ローンセストンから1時間、
ホバートまで1時間半の距離



このベーカリーでは1860年
以来レンガ製オーブンを薪で
温めてパンを焼いています。
つまり、窯焼きのパン屋です

(※写真は公式サイトから)


オーブンを朝370度以上に温
め、温度が下がっていくのに
合わせ、パイ⇒ペイストリー
⇒パン⇒バンズ⇒ケーキの順
で焼いていくそう。レンガじ
ゃ温度調整ができませんから
時間の経過がすべてのよう

(※まずは硬くて重いショー
トクラスト地のパイから)


一度に最大300個のパンが焼
け忙しい日には午前中に再び
薪を足して、窯の温度を上げ
て焼き続けるのだそうです。

(※デビルパイなるものも)


1回に必要な薪は一輪車1杯ほ
どだそうで、昔ながらの方法
は財布にも環境にも優しい


薪焼きは炭火焼きよりも水分
が保たれるらしく、それもパ
ン作りにはいいのか?窯で焼
くパンは最高で、変わらぬ作
り方にこだわっているそう。

(※ラクサがラスカになってい
るご愛敬。このオールドファ
ッションさがなんともイイ)


人気No1はタスマニア産ホタ
テを使ったホタテパイだそう



早速遅いランチにしました。

夫はラスカパイ😉


私はパン添えの今日のスープ



秀逸なのはこのパンドウを
型に入れずオーブンにそのま
ま置いて焼くので全体がクラ
ストに包まれています。「パ
ンは耳だけでいい」と心底望
む私にこれ以上のパンはない



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タスマニア行:カタラクト渓谷

2024年12月06日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア7日目


ペニーロイヤルを出た後は、

崖が続く対岸に向かいます。


岩壁に沿って遊歩道が整備さ
れ、ずっと奥まで行けます。



橋を渡って、さぁ行こう
サウスエスク川(全長252km)

タスマニア最長の川。この橋
以降はテイマー川に注ぎ、最
後は本土との間のバス海峡へ


ここからローンセストン随一
の観光名所カタラクト渓谷へ

1890年に遊歩道の建設を開始
し完成まで3年をかけたそう。


英語でカタラクトと言えば、
まず白内障のことなので(笑)
滝の意を初めて知りました。


すぐに現れたレトロ色の小屋

これは1891年に渓谷入場料を
徴収するために建てられた、
かつての料金所のレプリカ。


料金は渓谷開発の継続のため
に任意の徴収でしたが、払う
者がほとんどおらず強制に


1人1ペニーで、コインを入れ
ると差し出したハンカチにラ
ベンダーかチョコレートの香
りが噴射される機械が設置さ
れ市民の理解を促したそう。


渡って来た橋はキングス橋

1864年完成。元はサウスエス
ク橋としてイギリスのマンチ
ェスターで製造され、ここで
組み立てて設置されたもの。


40年後の1904年に当時のエ
ドワード7世にちなんで改名
幾度もの洪水を乗り越えて、
160年後の今日も現役です


キングス橋管理人小屋

遊歩道の建設に先駆け1890
年に建設された管理人小屋
現在のものは1981年に再築


川下りの遊覧船。岩の濡れ具
合を見ると前日の大雨で水位
があそこまで上がったのか?



ピクニックポイントの岩

遊歩道が完成するまでは両岸
を部分的に歩くことができ、
舟で来たらここで下船して岩
の上でピクニックができたそ
う。今もアザラシが来るとか


1926年完成のダッチェスハット

この頃も両岸が歩けたよう


今はなにもなくなり岩壁のみ



人が立っているかのような石



川幅が急に狭くなり渓谷近し



切り立った岩も増え長い年月
とその間の水量がしのばれる

渓谷の歴史は6,500万年前に
さかのぼるそうで、オースト
ラリアの悠久の歴史たるや


ゴンドワナ大陸に最も近い姿
を残すと言われるのが判る

こうなるともう彫刻かと


急に開けた場所になり観光施
設のあるクリフグラウンズに



過ぎていくチェアリフトは支
柱間の距離が308ⅿ(全長457
ⅿ)あり世界最長なんだとか

いろいろな記録があるもの


遊歩道の最後は難工事となり
水辺へのアクセスを確保する
ために階段や梯子も設けられ
数千トンの岩を人力で移動さ
せるという途方もない工事に

(※撮影時期不明の遊歩道)


かつて遊歩道にあったキノコ
型のクルーソーハット。ロビ
ンソン・クルーソーから命名

ハットはいくつもあったとか


木造で強風に弱く1943年撤去

ここがハットのあった場所


1904年完成のアレキサンドラ
吊り橋。クリフグラウンズか
ら対岸に渡れるハイライト



元の橋は1929年の洪水で流さ
れ現在の橋は1931年に再建。

長く、人が多いので揺れる(笑)


対岸は宿泊施設?とプールかな



この先まで行けるようでした
が、時間がなくまた次回に



今に続く19世紀の自然公園。
ローンセストン一の名所とし
て市民に愛されているよう。


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タスマニア行:ペニーロイヤル・ローンセストン

2024年12月05日 | オーストラリア:タスマニア

タスマニア旅行記もとうとう
45本目


今までは2017年人生初ハワイ
10泊11日
と、2018年の初アデ
レード5泊6日
の44本がタイ記
録で歴代2位だったので、そ
れらを抜き記録更新中です。


さて、どこまで行くんだろう?


=============


2023年3月のタスマニア7日目


タスマニア第2の都市ローン
セストン最終日。気に入ると
ひつこい夫婦で最後の朝食も

アーシーイーツ


数少ないアジア人客が2日連
続でやって来てインパクト大
(だったと思う)



しかも、頼むものまで一緒(笑)

サラダは日替わりで微妙な差
自分にとり最高なら連続も可


サーバーから出てくる牛乳の
ボトル売り。マイボトルも可

グラス売りがあればな~🥛


前日に見つけた不思議な場所

ペニーロイヤル・ローンセストン


なんでロイヤルなんだろう

お城っぽい造りではあっても


古そうで新しいレプリカか



でも使われていない引き込み
線があり古くからある場所



古そうで新しいここはなに

引き込み線の先は車庫かな
今はクルマが止まってるけど


ペニーロイヤルビレッジとか
パウダーミル(火薬工場)アパー
トメントともあり、住める



重厚な石造りが古色を醸して
も経年劣化がなく、建設時期
が不詳な見たことのない造り

窓もサッシだし


イギリスというよりヨーロッ
パ大陸のどこかのようです。


門をくぐって中に入ると絶壁
に囲まれて、滝と中央は池

往年の石切り場だったのか


小さな池に豪華な帆船



やりすぎなほどチューダー朝



奥は白壁にバルコニーときた

それがつながっているという
ことは改装ではなくレプリカ


無料砂金すくい練習場



絶壁には吊り橋のような網付
遊歩道が張り巡らされており



ハッシュタグ付きの晒し台

宿泊施設付き観光地なのか


たくさんの の答えとは


ここの発祥は1972年でした。

不動産開発業者のロジャー・
スミスは島中央部の家の敷地
に流刑囚レンガと呼ばれる古
レンガの瓦礫を見つけます。

(※流刑囚が製造したレンガ
@ポートアーサー)


そこは1823年にイギリスから
入植したゲートンビー家がペ
ニーロイヤル川という小川の
淵に家と製粉所を建てて暮ら
していた所だと判りました。


スミスはその時の家主から瓦
礫を買い取り、観光施設を造
ろうと、ローンセストンきっ
ての観光地カタラクト渓谷の
入口に位置する、かつての石
切り場に目星を付けました。


レンガを1つずつ外して瓦礫を
解体し、ここまで運び込んで
再建・拡張という過程を経て
計画から7年後の1979年開園


ペニーロイヤルはタスマニア
唯一のテーマパーク、アドベ
ンチャーパークでした。池に
舟を浮かべ、空砲が鳴り響き
1980年代初には人気絶頂に


しかし、1990年代以降はブー
ムが去り、8年間放置された
後、現オーナーが2年をかけ
て新たな観光施設に造り替え
2016年に再開し今に至る、と

(※アトラクションメニュー)


古くて新しく、引き込み線が
あったりアトラクションがあ
ったりする訳が判りました。

(※あそこも歩けるんだろうか)


開園から50年も経っている上
資金と時間をかけて丁寧に造
られた小さな施設のせいかテ
ーマパークのあざとさが消え
緑多い落ち着いた所でした。

商業繁盛にはダメなのでしょ
うが個人的には静かでいい


この時はまだコロナ明けで、宿
泊はできても片肺開園でした。
いつか飲食に再訪できるかな



しかし、写真をじっくり見て
も石造りばかりで、流刑囚レ
ンガはどこにあるんだろう

まさか真っ白に塗られたコレ
ではないだろうし。今や100
年前のレンガは非常に高価


再訪したらよく見てこよう


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タスマニア行:オーストラリアTop10の中華料理店

2024年12月04日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア6日目


博物館巡りで脳をブイブイい
わせて情報処理をした後は、
とかく体力を消耗するもの


アルバートホールの向かいに
あるこぢんまりしたカフェへ

オークツリーカフェ


夫は迷わず甘いもの系

素朴な手作りが際立つタルト


年配の女性が1人で切り盛り
していて、まさに家庭の味
ながら種類も豊富。私はトマ
ト味のスープにしました。ミ
ネストローネだったか?寒い
雨の日に心身温まる美味しさ
で心からお礼を言いました。


その後はテイマー川の河畔へ
大雨が降り続いていました。



リバークルーズもありました
がまったくお呼びでない天気



桟橋も無人で歩き回る物好き
は私たちぐらいなものです



川辺にぽつんと立つホテル

ペッパーズ・サイロ
・ローンセストン



すぐそばにも別のペッパーズ

ペッパーズ・シーポート
・ローンセストン

(※この時はマントラではなか
ったか?この後アップグレー
ドしてペッパーズになった)


対岸も雨に煙り、あちらから
こちらを見ても同じことかと



山際に古い邸宅が樹木に抱か
れるように建っているのは、
NZの首都ウェリントンのよう

建設された時期が同じだと植
民地時代の建物は違う場所で
もよく似ているものです。当
時の認識では国内ですからね


ホテルへの帰り道で見つけた

不思議な場所


宿泊施設?レプリカ?でも本
当に古そうな建物と立地で、
ここは出直すことにします。



ローンセストン2日目の最後
の夜は中華料理にしました。

ミワ(美華)レストラン


ホバートとローンセストンの
両方に店がありますが、確か
ローンセストン発祥というの
をどこかで目にしたような



ここの驚きは数々の受賞歴🏆



通常、店を選ぶときにこの手
のものは気にしないのですが
オーストラリアTop10中華料
理店に3回(2008年、15年、
16年)も入っているのには驚き


シドニーやメルボルンなど大
都市の店ならいざ知らず、ア
ジア人人口も観光客も少ない
タスマニアとなると偉業かと


日本なら旭川にある中華料理
店が全国Top10に入る感覚か


タスマニアのBESTアジア食
は1999~2018年19年連続。
ワインのセレクションでも国
内トップクラスで、タスマニ
アでは殿堂入りしています。


アジア食でそこまでワインを
取り揃えている店は珍しく、
食事やもてなし以上に完璧を
追求しているのを感じます。


店はオーナーシェフのゴード
ン・ツァオと息子のスティー
ブン・ツァオの2代で経営す
るファミリービジネスです。



カニ小籠包



酸辣湯

銀器のカバーが香港風


鶏の甘辛炒め



タスマニア産アワビ



ベジタリアンの羅漢齋粉絲煲

野菜と春雨鍋


元は香港人なのではないかな
香港の高級店を彷彿とさせる
もてなしやテーブルセッティ
ング。そして上品な広東料理


香港居住歴が長い私たちには
懐かしいことばかりで、いつ
かホバートの店にも行こう


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タスマニア行:土管の街

2024年12月03日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア6日目


タスマニア州第2の都市ロー
ンセストンの博物館QVMAG

旅行中の大雨の博物館巡りは
それなりに充実して助かる


ローンセストンが位置するタ
スマニア北部は良質な粘土を
産出するため、1870年代前半
より窯業で栄えたそうです。

(※蒸気陶業工場を描いた手
描きの1876年製造のタイル)


業界の後ろ盾となったのが、
ローンセストン市の下水整備
で、より衛生的という理由か
らコンクリートより素焼土管
への移行が進められました。

(※積んであるのが素焼土管)


1880年以降はマックヒュー
社とキャンベル社の2社で土
管市場を2分し、前者はホバ
ート、後者はローンセストン
に納品し、複占体制は第2次
大戦後まで続いたそうです。


最盛期のキャンベル社は1時
間に120個以上(毎分2個)
の土管を生産していたそう。


製造は土管から、レンガ、タ
イル、下水管などへ広がり窯
業全体が発展し続けました。



2社とも陶磁器製造にも力を
入れ、中小の工房も誕生し、
多数の日用品陶磁器が生産さ
れ窯業全体が発展しました。




芸術性の高い作品も多く生産
され人気を博しました。時代
を映してアールヌーボー風も



当時の流行りなのか工房の特
徴なのか、重厚な艶のある緑



一度埋めたらまず掘り返さな
い土管への需要が続いたこと
こそ街の発展が続いていた証


しかし、発展は一本調子では
なく錫鉱や金鉱の発見と枯渇
などかなり波があったよう。


その中で景気てこ入れの1つ
となったのが、1891~92年の
ローンセストン万博でした。


19世紀には万博が持てはやさ
れ、植民地もこぞって開催し
ては地元産品を紹介し、輸出
機会を模索しました。同時に
経済成長を誇示する狙いもあ
り、会場はそのシンボルに。


我がNZでは1865年にゴール
ドラッシュで沸いたダニーデ
ンで万博
が開催され、今はな
きこんな立派な建物が会場に

残っていたら世界遺産


ローンセストン万博会場とな
ったアルバートホール。ビク
トリア女王の夫のアルバート
公の名を冠した壮麗な建物。



木の陰の左右には会場になっ
た長いウィングがあります。



万博は欧米豪NZ等から1,372
社の出展者を集め、4ヵ月間
開催されたそう。地元窯業も
こぞって参加し、キャンベル
社は家庭用から工業用まであ
らゆる製品を出品しました。

(※キャンベル社のブース)


そもそもキャンベル社には、
アルバートホールの建設に必
要な75万個のレンガ供給とい
う万博特需が転がり込んでき
ており、1日当たりの生産量
を4千個から1万個に引き上げ
てフル稼働で納品したそう。


1880年のメルボルン万博の11
年後とはいえ、州都ホバート
万博(1894~95年)に先駆け、
ローンセストンっ子はさぞや
鼻高々だったことでしょう。

(※メルボルンの王立展示館)


1891年に完成したアルバート
ホールの総工費が1万4,000ポ
ンド。 タスマニアに1887年よ
り導入された中国人の入国に
際する人頭税が1人当たり10
ポンド。中国人1,400人が入
国したら、アルバートホール
がもう1つできたのかと思う
と額の重みが実感できます。


これらが同時に起きていたの
が19世紀という激動の時代


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タスマニア行:雨の日には最高のQVMAG

2024年12月02日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア6日目


タスマニア州第2の都市ロー
ンセストンの夜が明け朝食へ

アーシーイーツ
直訳すれば『大地の食』


木目と緑がなんとも温かい



街路樹を借景にした窓際席



宿の無料の朝ごはんを諦めて
やってきただけある充実度

サラダもここまで凝ると家で
1人分を作るのはほぼ無理


挟み物系大好き夫は完璧なト
ースティー(ホットサンド)で



食事も居心地ももてなしもす
べてが素晴らしい店でした。



あんな所に猫がいる







この日はこの旅行中初めてか
つ唯一の大雨となり博物館へ

QVMAGことビクトリア女王
博物館&アートギャラリー



アートギャラリーと博物館と
プラネタリウムが1つになっ
た文化施設。雨の日の救い

アートギャラリーでは写真展


博物館ではタスマニアの移動
手段についての興味深い展示


植民地としての黎明期1800年
前半、靴は全て輸入品で大変
高価なものでした。皮革品を
製造するための十分な動物が
おらず職人もおらず、皮が扱
える流刑囚は即靴製造に従事



実業家ヘンリー・リードは簡
単なモカシンをワラビーから
製造して靴代を節約したそう
で、それが今に続くワラビー
シューズかと思うと感慨深い


1830年代にポートアーサー
流刑囚が送り込まれるや人力
による流刑囚トラムが登場。

(※1852年の流刑囚トラム)


切り出した丸太も同じ方法で
長らく運び出されていたとか


動物を育てて飼うより流刑囚
を使う方が安上がりな上、彼
らへの罰則でもあったそう。


後に輸送手段に牛や馬が登場



しかし、飼料代などの費用ゆ
え個人には高嶺の花でした。



その後は自転車



クルマ

アルファロメオです


ローンセストンでは市営トラ
ムが1911~52年まで運行し

(※ホバートは1893~1960年)


今も愛好家により観光目的で
運行され博物館もあります。

大雨の中でも整備のためなの
か数人で走らせていました。


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