一昨日、『剣豪商人』の載っていた本を探してまして、司馬遼太郎氏の歴史エッセイ本の目次を、次々にめくって見ていたんです。そうしましたら、『余話として』(文春文庫)に、「普仏戦争」という項目がありました。
一度は読んだはずなのですが、さっぱり内容を覚えていなくて、読み返してみました。
驚きです! モンブラン伯が明治2年に駐仏日本公使代理としてパリへ帰ったとき、薩摩出身の医者の息子で、留学生の前田正名を助手にして連れて行ったことは、モンブラン伯に関する記述にはたいてい出てきまして、知っていました。
本によっては、「偶然知り合った」というような書き方をしているものもあるのですが、モンブラン伯の駐仏日本公使代理就任が薩摩藩がらみであり、前田正名が薩摩藩出身である以上、それはありえないことです。
『余話として』収録の「普仏戦争」は、この前田正名のお話だったんですね。
前田一歩園財団
上のサイトの前田一歩園の成り立ちに、創設者・前田正名の略歴が載っているのですが、年表によれば、「大久保利通・大隈重信の計らいでフランス留学」とあります。
大久保がモンブラン伯にかかわった可能性は、
モンブラン伯の明治維新
に書きましたように高いですし、前田正名をモンブラン伯に預けたのは、大久保でしょう。
で、これにはさっぱり、坂本龍馬の名がないんですが、司馬遼太郎氏の「普仏戦争」によれば、海援隊と薩摩藩をつなぐ連絡係として龍馬のもとにいて、正名はまだ少年だったもので、「のう、前田のにいさんよ」と、かわいがった、というのです。
えーと、かわいがられたのは、事実でしょう。
正名は後に、「自分の生涯のうち龍馬からうけた影響がもっとも大きい」と語ったそうなのですが、どうなのでしょう。
ここらへんは、前田正名の自叙伝があるそうですから、それでも読んでみないことには、はっきりとはわからないんですけれども、こういう書き方だと、龍馬の影響で前田正名が海外留学を望んだような、なにやら本末転倒な感じがするんですよね。
すでに薩摩は密航留学生を送り出していますし、五代友厚は欧州でモンブラン伯に近づいて商社設立とともに、対フランス工作をなしつつあり、幕府に次いで薩摩藩が、もっとも海外情報を握っています。
人間的な影響、という意味で書いているのはわかるのですが、それこそ印象操作で、龍馬から海外知識を得たような感じに、読めなくもないのです。
とはいうものの、これは初出が『オール読物』だったようですし、最初に坂本龍馬の名でも出さなければ、前田正名という現在ではあまり知られていない人物に、読者の興味を引きつけることが難しいので、キャッチ効果を狙ったのだと、それは、わからなくはないのですが。
山梨のワインの歴史 6: 国産推進者の前田正名
上の山梨ワインのサイトさんにもありますように、現在では「代理公使のモンブラン伯に随行」が正しいのですが、司馬氏の書き方では、「日本通のモンブラン伯のもとに寄宿」です。
モンブラン伯と五代友厚については、あんまりにも知られなさすぎ、という気がします。幕末薩摩の政治動向を見る上で、かなり大きなウェートを占めているんですけどね。
それで、司馬氏の話は、前田正名が、幕末の留学生と同じく、人種差別とコンプレックスでフランス人を憎悪した、と続くのですが、どーなのでしょう。うーん。
五代友厚や渋沢栄一や、他の留学生にしても、みんながみんなコンプレックスと憎悪の固まりになった、ということはないと思うのですが。
これも自叙伝を読んでみないと、なんともいえないんですけど。
といいますか、公使館で働いているわけですし、文学修行の夏目漱石じゃないんですから、山県有朋と西郷従道の欧州兵制視察もこの時期ですし、いろいろと忙しくて、鬱々とする暇はなさそうなものなのですが。
ちなみに、明治になっての第2次軍事顧問団の編成には、函館戦争に参加したブリュネ大尉が関係しているようでして、パリを訪れた山県有朋と西郷従道は、このときブリュネ大尉に逢った可能性が高いのです。
参照
函館戦争のフランス人vol1
山県有朋と西郷従道が帰国して間もなく、前田正名は普仏戦争のパリ籠城戦にまきこまれます。
函館戦争参加のフランス人、ブリュネ大尉もニコールもコラッシュも参戦していて、パリ籠城の時点では、ニコールはすでに戦死しています。
参照
函館戦争のフランス人vol3
この時期、モンブラン伯がどうしていたか知りたい、と思っていたのですが、これはますます、正名の自叙伝を読んでみないといけないですねえ。写真に見るように、なかなかいい男、ですし。
ともかく、司馬氏によれば、正名は市民軍に志願して最前線まで飛び出したんだそうで、勇敢であることによって、コンプレックスを解消したのだというのですが。
そこまで理屈をつけることかなあ、という気がしないでもないんです。
じゃあニコールやコラッシュたちは、なんで、なんの関係もない函館戦争に参加したのか、という話にもなりますし。
たしかに、「戦いにあってはフランスでも日本でも勇敢であること一つが人間の値打ちを決めた時代だった」とは書いておられるんですけど、それはまた、参加動機とは、ちがうことですよね。
公使館で働いていた正名は、ブリュネ大尉と逢っていた可能性が高い、ですしね。
司馬氏も書いておられますが、同じ時期にパリにいた芸洲出身の留学生、渡正元は、『パリ籠城日誌』を書き残していて、こちらは読んでいる途中ですが、彼は志願しておりません。
ともかく、読むべし自叙伝、なのですが、正田健一郎編『明治中期産業運動資料』第2集19巻(昭和54年・日本経済評論社発行)に収録されているそうなのです。古書サイトでさがしたのですが、売りに出てないですねえ。図書館、ですかしらねえ。
なお、前田正名の写真は、山梨日々新聞社発行の『ぶどう酒物語』(絶版)からの転載です。山梨日々新聞社さまより、転載許可をいただきました。
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驚きです! モンブラン伯が明治2年に駐仏日本公使代理としてパリへ帰ったとき、薩摩出身の医者の息子で、留学生の前田正名を助手にして連れて行ったことは、モンブラン伯に関する記述にはたいてい出てきまして、知っていました。
本によっては、「偶然知り合った」というような書き方をしているものもあるのですが、モンブラン伯の駐仏日本公使代理就任が薩摩藩がらみであり、前田正名が薩摩藩出身である以上、それはありえないことです。
『余話として』収録の「普仏戦争」は、この前田正名のお話だったんですね。
前田一歩園財団
上のサイトの前田一歩園の成り立ちに、創設者・前田正名の略歴が載っているのですが、年表によれば、「大久保利通・大隈重信の計らいでフランス留学」とあります。
大久保がモンブラン伯にかかわった可能性は、
モンブラン伯の明治維新
に書きましたように高いですし、前田正名をモンブラン伯に預けたのは、大久保でしょう。
で、これにはさっぱり、坂本龍馬の名がないんですが、司馬遼太郎氏の「普仏戦争」によれば、海援隊と薩摩藩をつなぐ連絡係として龍馬のもとにいて、正名はまだ少年だったもので、「のう、前田のにいさんよ」と、かわいがった、というのです。
えーと、かわいがられたのは、事実でしょう。
正名は後に、「自分の生涯のうち龍馬からうけた影響がもっとも大きい」と語ったそうなのですが、どうなのでしょう。
ここらへんは、前田正名の自叙伝があるそうですから、それでも読んでみないことには、はっきりとはわからないんですけれども、こういう書き方だと、龍馬の影響で前田正名が海外留学を望んだような、なにやら本末転倒な感じがするんですよね。
すでに薩摩は密航留学生を送り出していますし、五代友厚は欧州でモンブラン伯に近づいて商社設立とともに、対フランス工作をなしつつあり、幕府に次いで薩摩藩が、もっとも海外情報を握っています。
人間的な影響、という意味で書いているのはわかるのですが、それこそ印象操作で、龍馬から海外知識を得たような感じに、読めなくもないのです。
とはいうものの、これは初出が『オール読物』だったようですし、最初に坂本龍馬の名でも出さなければ、前田正名という現在ではあまり知られていない人物に、読者の興味を引きつけることが難しいので、キャッチ効果を狙ったのだと、それは、わからなくはないのですが。
山梨のワインの歴史 6: 国産推進者の前田正名
上の山梨ワインのサイトさんにもありますように、現在では「代理公使のモンブラン伯に随行」が正しいのですが、司馬氏の書き方では、「日本通のモンブラン伯のもとに寄宿」です。
モンブラン伯と五代友厚については、あんまりにも知られなさすぎ、という気がします。幕末薩摩の政治動向を見る上で、かなり大きなウェートを占めているんですけどね。
それで、司馬氏の話は、前田正名が、幕末の留学生と同じく、人種差別とコンプレックスでフランス人を憎悪した、と続くのですが、どーなのでしょう。うーん。
五代友厚や渋沢栄一や、他の留学生にしても、みんながみんなコンプレックスと憎悪の固まりになった、ということはないと思うのですが。
これも自叙伝を読んでみないと、なんともいえないんですけど。
といいますか、公使館で働いているわけですし、文学修行の夏目漱石じゃないんですから、山県有朋と西郷従道の欧州兵制視察もこの時期ですし、いろいろと忙しくて、鬱々とする暇はなさそうなものなのですが。
ちなみに、明治になっての第2次軍事顧問団の編成には、函館戦争に参加したブリュネ大尉が関係しているようでして、パリを訪れた山県有朋と西郷従道は、このときブリュネ大尉に逢った可能性が高いのです。
参照
函館戦争のフランス人vol1
山県有朋と西郷従道が帰国して間もなく、前田正名は普仏戦争のパリ籠城戦にまきこまれます。
函館戦争参加のフランス人、ブリュネ大尉もニコールもコラッシュも参戦していて、パリ籠城の時点では、ニコールはすでに戦死しています。
参照
函館戦争のフランス人vol3
この時期、モンブラン伯がどうしていたか知りたい、と思っていたのですが、これはますます、正名の自叙伝を読んでみないといけないですねえ。写真に見るように、なかなかいい男、ですし。
ともかく、司馬氏によれば、正名は市民軍に志願して最前線まで飛び出したんだそうで、勇敢であることによって、コンプレックスを解消したのだというのですが。
そこまで理屈をつけることかなあ、という気がしないでもないんです。
じゃあニコールやコラッシュたちは、なんで、なんの関係もない函館戦争に参加したのか、という話にもなりますし。
たしかに、「戦いにあってはフランスでも日本でも勇敢であること一つが人間の値打ちを決めた時代だった」とは書いておられるんですけど、それはまた、参加動機とは、ちがうことですよね。
公使館で働いていた正名は、ブリュネ大尉と逢っていた可能性が高い、ですしね。
司馬氏も書いておられますが、同じ時期にパリにいた芸洲出身の留学生、渡正元は、『パリ籠城日誌』を書き残していて、こちらは読んでいる途中ですが、彼は志願しておりません。
ともかく、読むべし自叙伝、なのですが、正田健一郎編『明治中期産業運動資料』第2集19巻(昭和54年・日本経済評論社発行)に収録されているそうなのです。古書サイトでさがしたのですが、売りに出てないですねえ。図書館、ですかしらねえ。
なお、前田正名の写真は、山梨日々新聞社発行の『ぶどう酒物語』(絶版)からの転載です。山梨日々新聞社さまより、転載許可をいただきました。
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