郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族

2006年02月18日 | 幕末雑話
明治大帝の父君、孝明天皇の御代、宮廷の女官長は、先帝の御代から引き続いて仕えた大典侍中山績子でした。
弘化三年(1846)、孝明天皇即位の時点で、すでに52歳です。
慶応二年(1866)、孝明天皇崩御のときにも、72歳の高齢で女官長を務めていました。
中山績子は、倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族 で書きました、尊号事件の伝説のヒーロー、中山愛親の娘です。
明治大帝の母、中山慶子にとっては、大叔母にあたります。
孝明天皇の女官長の座に、終始、反幕のヒーローの娘が座っていた、ということには、それなりに意味のあることではないでしょうか。

幕末の中山家に、反幕感情が流れ続けていたのではないか、ということの傍証は、出石出身の尊攘志士、田中河内介が、家司としてかかえられていたことに見られると思います。
田中河内介は、嘉永6年(1853)ペリー来航以降、主人である中山忠能卿に、さまざまな献策をしますが、後に「中山の狂人」といわれるようになった忠光卿をはじめとする子息も、彼の影響を強く受けて育ったようです。
河内介は、筑前の平野国臣や薩摩の尊攘檄派と親しく、忠光卿の長兄で、中山家の後継者・忠愛卿も、薩摩の志士たちと出歩いていた資料がありますし、後に書きます寺田屋事件では、田中河内介の要請を受けて、志士たちへの檄文を書くことまでしていたりするんです。
しかし、父親の忠能卿は、しだいに河内介を遠ざけるようになりました。
これはおそらく、井伊大老が決行した安政の大獄による朝廷弾圧と、万延元年(1860)、中山慶子の生んだ祐宮が、九歳で親王宣下を受け、儲君(もうけのきみ)となったことに、関係しているでしょう。

江戸時代の朝廷は、現在の皇室とは、まったく制度が異なります。直系の皇子が誕生したからといって、ただちに親王になるわけではありません。
そして、親王でなければ、皇位継承の資格として不十分なのです。
安政の大獄の中で、孝明天皇は譲位を表明しますが、そのとき位を譲ろうとしたのは、まだ親王となっていなかった祐宮ではなく、伏見宮家や有栖川宮家の皇子たちのうち、先代、先生代の天皇の猶子となり、親王宣下を受けていた三人でした。
朝廷が、将軍家の後継に英明な年長者を求めた関係もあって、幼い祐宮の名を出せなかったこともあるのですが、親王宣下を受けるということには、けっこう重要な意味があったのです。

話をもとにもどしますと、祐宮が儲君となり、皇位継承がほぼ約束された以上、外戚である忠能卿は、あまり危ない橋を渡ることはできなくなった、ということでしょう。
田中河内介は、中山家を辞し、薩摩の尊攘檄派とともに、島津久光の上京を迎えて、倒幕の義挙を志しました。
しかし、久光はそれを望まず、自藩の檄派を伏見寺田屋で上意討ちにします。寺田屋事件です。河内介は捕らえられ、海路薩摩へ護送される途中、播磨灘で斬殺されました。
続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族 で書きました忠光卿の「狂人」ぶりは、田中河内介の志を受け継いだものであったと、いえるかもしれません。

さらに、忠光卿が参加した天誅組の大和義挙には、もう一人、中山忠伊卿という、中山家の公子がかかわっていた、という伝説があります。
いえ……、忠伊卿は表面上、忠能卿の兄で、忠光卿には伯父、ということになていますが、実は尊号事件の中心となった光格天皇の皇子で、中山家に養子に入ったのだというのです。
尊号事件で屈辱を呑んだ光格天皇は、晩年に儲けた皇子を、ともに幕府と戦ってくれた中山愛親の孫の養子に入れ、倒幕の志を託した、というこの筋書きは、物語としか思えないのですが、一応、史家も検討を加えている話なんです。
『幕末・京大坂 歴史の旅』、「平野卿に消えた謎の皇子」において、松浦玲氏は、忠伊卿にまつわる伝説について、資料が不確かであることを指摘なさって疑問符をつけつつ、「天誅組壊滅の翌年二月十日に中山忠伊、号を道春という人物が平野郷で没したという事実は、動かし難いようである」とされています。

もう一つ、伝説があります。今度は、中山三屋(みや)という女性です。
楠戸義昭著『維新の女』』(毎日新聞社発行)に収録されていますお話なのですが、中山三屋は、幕末の女流歌人です。
父親の実家は、山口県徳山市中山の豪農・戸倉家で、三屋の父は戸倉の名を捨て、中山を名乗ります。
一見、公家の中山家とはなんのかかわりもなさそうなのですが、三屋が父親の実家に、「私は何者の子か、先祖さえはっきりしらない」と書いて出した書簡が、残っていたのだそうなのです。
この中山三屋に、女性史を研究する柴桂子氏が、大胆な光をあてました。
三屋(みや)は14歳の若さで出家し、多くの公家とまじわり、藩主や神官、豪商、学者、歌人など、四百人にあまる人名を、覚え書きに残しているのですが、これは、三屋がスパイだったからだ、というのです。
だれのスパイかといえば、公家・中山家のスパイなんだそうで、というのも、『中山忠能履歴資料』にある二十通を超える某女からの手紙が、三屋にそっくりな文体なのだとか。三屋の母の民子は、京都の出身なので、忠能卿の手がついて三屋をみごもったのではないか、とまで、推測は進みます。

ここまできますと、さすがに眉唾なのですが、ともかく、それほどに中山家には反幕伝説がつきまとっていたわけでして、いえ……、忠光卿の事跡など、伝説より劇的ですし、いくらもてあましていたとはいえ、若くして殺された一族の公子を、中山家の人々が悼まないわけもないでしょう。
倒幕の密勅に名を連ねるだけの素地は、それまでに、十分に積み重ねられていた、というべきではないでしょうか。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 トラックバックテーマ 歴史人物、人物、人物評伝へ歴史人物、人物、人物評伝


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする