郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

プリンス昭武、動乱の京からパリへ。

2006年02月02日 | 日仏関係
これまでいく度も書いてきました慶応三年(1967)、パリ万国博覧会。
すでに、須見裕氏著の中公新書『徳川昭武―万博殿様一代記』を持っていますので、いらないかな、と思っていたのですが、宮永孝氏なら読むべきだろうと、『プリンス昭武の欧州紀行―慶応3年パリ万博使節』を買いました。

正解! でした。モノクロながら、写真が多く入っていて、内容も充実しています。私にとりましては、なんといっても、モンブラン伯が薩摩で撮った和装の写真が載っていて、満足!です。鹿島茂氏が『妖人白山伯』で、この写真のことに触れておられて、どうしても見たい! と思っていたのです。
そんなに山師面ですかねえ。ひいき目なのか、私には、けっこう品よく見えます。

モンブラン伯爵は大山師か

これまでに、帝政最後のパリ万博について書いた記事は、主に以下です。

『オペラ座の怪人』と第二帝政
帝政パリの『ドン・カルロス』
喜歌劇が結ぶ東西
花の都で平仮名ノ説
無敗で凱旋門賞挑戦の夢破る

一橋慶喜の弟だった水戸民部公子・徳川昭武は、このときわずか14歳。かわいいプリンスです。
プリンス一行の会計係だった渋沢栄一と、イギリスに留学していて挨拶にパリを訪れた林董、民間から参加した清水卯三郎についてはすでに述べましたが、プリンス一行には、函館戦争で医者として幕軍に加わっていた高松凌雲もいます。
彼の兄が、旧幕衝鋒隊を率いた古屋佐久左衛門で、五稜郭で重傷を負い、死去しました。
渋沢栄一は京で、慶応2年の10月ですから、パリへ旅立つ3ヶ月前、幕臣大沢源次郎捕縛事件で新選組の協力を得ました。そのときのことを後年に語って、「近藤の次ぎにいた土方歳三というのが、なかなか相当の人物で」と述べていたりします。
一橋慶喜が将軍となり、孝明天皇が崩御して、暗雲のうちに暮れた慶応2年。明けて一月、プリンス一行は旅立つのです。
王侯貴族がつどい、連夜の舞踏会に競馬と、華やぎに満ちていたパリ。
『プリンス昭武の欧州紀行―慶応3年パリ万博使節』は、細かくプリンスの日程を追い、また博覧会での薩摩との軋轢も、詳しく記しています。
で、もちろん、モンブラン伯の登場、となるわけですね。

もう一冊、ちょっとこれに関係のある本を買いました。
『ジュエリーの歩み100年―近代日本の装身具一八五〇‐一九五〇』なんですが、カラーページが多く、幕末以降の、実に美しい日本の宝飾品の数々を見ることができます。
それで、全面カラーの見開き、左ページにプリンス昭武がスイス大統領から贈られた金の懐中時計、右ページにモンブラン伯が薩摩のために作った薩摩琉球国の七宝の勲章が、載っていたりするんですね。
プリンスの金時計が、なんともいえず美しく、かわいいんですよねえ。なにがって、外蓋の内側に、エナメルで、衣冠束帯姿のプリンスの肖像が描かれているんですが、ちょっぴり美化されてもいて、ため息がでるほど。

このときの薩摩の代表は、家老の岩下方平ですが、彼はプリンス一行よりも先にパリに乗り込み、プリンス到着まで、日本の代表のような扱いを受けるんです。
モンブラン伯の活躍で、薩摩琉球国王の勲章はくばってまわるは、新聞でも独立国であるかのような情報は流すはで、結局、幕府がフランスに申し込んでいた借款を、つぶすんですね。これは幕府にとって、相当な痛手だったでしょう。
しかも岩下方平は、目的を達すると、万博が終わらないうちにパリを去り、慶応3年の9月には、京に姿を現します。
実は、ウェッブ上で、岩下方平がパリで撮した写真を見つけたんですけどねえ。
このとき彼は、ちょうど40歳くらいで、私の想像では、どっしりと太めの重厚なおじさん、だったんですけど、それが。あー、まったくもって予想ははずれ、うっそ! って感じでした。あー、美しい、というわけではないです。
さっさとDLしたんですが、その後、そのページがわからなくなってしまいまして、掲載許可の求め先が、不明です。

京からパリへ、パリから京へ。動乱二都物語、とでも言いたくなります。


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コメント (4)
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