郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

『源氏物語』は江戸の国民文学

2006年02月15日 | 幕末文化
昨日、庄屋さんの幕末大奥見物ツアー でご紹介しました幕末の過激な女性。

多数の妾を認める中国の儒教を非難し、中国を淫国と罵り、夫(おそらく幕臣)にむかって、「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」と主張しったってお話、なんだかすごくないですか? 
幕末の女性たちへの国学の影響が、なんですけど。
幕末の国学といえば、過激な攘夷感情とのみ結びつけられてしまいがちなのですが、こういった形での浸透にも、注目すべきだと思うのですよね。
江戸時代における王朝文学の見直しは、儒教の価値観から解き放たれることでもあったんですね。
江戸時代における源氏物語の大衆的な享受については、『源氏物語の変奏曲―江戸の調べ』や、野口武彦氏の『源氏物語を江戸から読む』に詳しいのですが、やはり、本居宣長の果たした役割は大きいでしょう。
『源氏物語の変奏曲―江戸の調べ』収録、田中康二著「宣長以後の物語研究」から、以下、引用します。

本居宣長の「もののあはれを知る」説は、『源氏物語』のみならず、文学全般にも適用され得る文学理論である。仏教的教戒説や儒教的勧善懲悪説がコンテンポラリーの共通認識であった江戸時代にあって、文学そのものの自立性と自律性を謳いあげた「もののあはれを知る」説は、画期的なものであった。

野口武彦氏の『源氏物語を江戸から読む』には、さらにそこから発展して、より近代的な物語論に至った萩原広道が取り上げられていますが、ともかく、江戸も後期になってきますと、王朝文学を近代的にとらえるようになった、ということなんですね。つまり、国学的な王朝文学とは、中華文明圏離れであり、近代西洋における国民文学のようであったと、いえるのではないでしょうか。
ネイション・ステイトの模索は、江戸期、すでにはじまっていたのですね。

『江戸の女の底力 大奥随筆』に出てきます川路聖謨の妻・高子さんにしろ、さらに過激な女性にしろ、です。『源氏物語』だけではなく、おそらくは『蜻蛉日記』などの王朝女流文学を、儒教道徳の価値観からは離れて、読んでいたわけですよね。
だとするならば、女の嫉妬は責められるべきことではなく、自然な感情だと当然思うでしょうし、嫉妬の苦しみを生む妾の存在が道徳的にすぐれたものだというのは、「蛮国の淫風」にすぎないと、儒教道徳は相対化されるわけなのでしょう。

『源氏物語』を漢詩に詠んだ江戸後期の女流詩人、江馬細香。頼山陽の愛人であった彼女のことは、野口武彦氏の楽しい「ゴシップ史観」 でご紹介しました『大江戸曲者列伝―太平の巻』に出てきます。
頼山陽については、「鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく)夜河を渡る……」うたわれる漢詩の作者であり、幕末の歴史書ベストセラー『日本外史』の著者です。儒者の家に生まれましたが、若い頃には放蕩、家出を重ね、放浪癖のあった変わり者であった、といわれます。
細香女史は、大垣藩の藩医の長女です。遊び人、頼山陽との結婚を、父親が許さなかったのだ、といわれているようですが、ともかく、結婚することなく、頼山陽と文通し、京都に訪ねて人目もかまわず二人で歩き、野口先生もいわれておりますが、妾ではなく、愛人でいたのです。
父親の元にいて、藩医のお嬢さまという安定は得ていたのですから、今でいえばパラサイトですね。
しかしおそらく、彼女にとっても、実家にいて自由な愛人の立場、というのは、望ましいものであったのではないのでしょうか。夫としての頼山陽は、疲れる相手であるように思えますし。
細香女史の生き方にもまた、近代的、ともいえる雰囲気を感じたりします。


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コメント
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