郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

幕末の大奥と島津家vol2

2005年12月21日 | 幕末の大奥と薩摩
大奥というのは、不思議なところです。
昨日、十一代将軍家斉の大奥が乱れに乱れていたことを書きましたが、しかし、女たちには女たちの言い分が、あったようなのです。
この家斉公、ともかく子供の数が多かったものですから、養子に、嫁にと、あちこちの大名家に子供たちを押しつけました。
有名なのは、加賀前田藩に嫁いだ溶姫でしょうか。将軍御息女が大名家に下れば、専用御殿を建て、御守殿さまと奉らなければなりません。加賀屋敷の溶姫のための専用御殿の門が、現在の東大の赤門なのです。
この溶姫のご生母、お美代の方は、一応、旗本の娘であることになっているのですが、実は日啓という坊さんの隠し子で、家斉にねだって、実父のためにりっぱな寺を建ててもらっているのですね。
この日啓のお寺は、日啓の息子でお美代の方の兄、日尚に引き継がれ、ここで大奥女中たちが、密通をくりひろげていました。家斉死去後の幕府の調べでは、正室・広大院茂姫つきの老女(高級奥女中)の名もあがっていますから、お美代の方周辺だけではなく、大奥総ぐるみで遊んでいた、としか思えないのです。
まあ、お美代の方が大奥で勢力を培うための接待であった、のでしょうけれども。
しかも、真偽のほどはさだかではないのですが、お美代の方は、家斉の世継ぎに、加賀に嫁にいった溶姫の息子、つまり自身の孫を据えようとしたといわれ、そんなこともあって、幕府は家斉の死去後、お美代の方がらみの寺に、捜査の手を入れたのですが、結局、将軍家の権威にかかわる問題ですので、寺側はきびしく罰しても、大奥には手をつけませんでした。

ところで、島津家にも、家斉公の御息女は入っています。
今回話題にしている島津斉彬の正室、英姫です。
しかし島津家は、大奥に正室・広大院茂姫を送り込んでいますし、勝手がきいたのでしょう。英姫を、将軍の息女としてではなく、一橋家の養女としてもらった上で正妻に迎えていますので、前田家のような大騒ぎはしないですんでいるんです。

実は、家斉公の御息女は、水戸藩にも天下っています。
これも今回話題にしている水戸烈公・斉昭の兄にあたる、前藩主・斉修の正室、峰姫さまがその人です。
こちらは、大騒ぎだったようです。水戸屋敷と加賀屋敷は近く、峰姫さまは姉妹の溶姫さまに張り合って、あれこれと贅沢な要求をなさる。貧乏な水戸藩としては、たまったものではありません。
水戸烈公は、兄の養子となって藩主となりましたので、峰姫さまは義母です。
ところが水戸烈公は、大奥から峰姫さまについてきた最高級の奥女中・唐橋に手をつけたというのです。嫌がるのを無理矢理犯した、といわれています。
大奥というところには、独特の決まりがあったようでして、例え将軍といえども、お清、つまり生涯処女、と決まっている最高級の奥女中には手をつけないもの、だったそうなのですね。したがって、乱れに乱れていたはずの家斉の大奥なんですが、家斉は唐橋の美貌に目をつけながらも、手は出せなかった、と。
つまり、将軍でさえ手をつけなかった唐橋を、水戸藩主ごときが犯した、というのが、大奥の水戸烈公に対する反感の最たるもの、であったかもしれません。
峰姫さまは怒って、唐橋は公家の娘でしたから、京の実家に返したそうなのですが、烈公は手をまわして……、って、貧乏公家の唐橋の実家に金を払った、ということなのでしょうけれど、唐橋を側室にし、水戸に置いて、つまりお国御前として遇し、寵愛したそうです。
ああ……、江戸には義母の峰姫さまがおられますしね。ここらへんの意地くらべも、大奥の反感を募らせたのでしょう。

さらに水戸烈公は、息子の正室に手を出したとの噂もありました。
息子とは、慶喜の兄で、水戸藩主となった慶篤で、正室は、有栖川宮家の娘・線姫なのですが、このお方は、12代家慶将軍の養女となって慶篤に嫁いでいますので、京から江戸へ下り水戸屋敷へ輿入れするわずかな期間ですが、大奥にいたことがあるんです。
といいますのも、家慶と水戸烈公の正妻は、ともに有栖川宮家の娘で姉妹なのです。
家慶の正妻・楽宮は世継ぎを生みませんでしたが、烈公の正妻・登美宮は、慶篤、慶喜と男子をもうけました。楽宮は甥たちをかわいがり、親族の有栖川の娘を慶篤の妻にと、配慮したわけです。
家慶も妻の甥たちに親しみを見せ、そんな縁から、慶喜は、家定に男子がない場合の将軍家世継ぎ候補として、一橋家に養子に入りました。
で、話は慶篤の正室・線宮にもどりますが、烈公は無理矢理、この美しい嫁を犯し、線宮はそれを恥じて自害した、というのですね。烈公の妻の親族ではありますし、ちょっと信じられない話なのですが、そういう噂が流れていたことは確かで、またそれとは別に、烈公が息子の側室となにかあったというようなほのめかしが、島津斉彬が松平春嶽に送った手紙にあるといいますから、まあ、烈公の女性関係が、行儀のいいものではなかったのは事実でしょう。艶福であるだけならいいのですが、ルール違反なんですね。

家慶の正妻・楽宮は、ペリー来航より十年以上前に亡くなっていましたし、家定が将軍となった当時の大奥の女性たちは、家定の生母・本寿院を筆頭に、水戸烈公を嫌いぬいていました。
そんな中へ、烈公の七男、一橋慶喜を将軍世継とするために、島津斉彬は養女を送り込みます。
それが、大奥の最後をしめくくった、天璋院篤姫だったのです。

で、次回、ようやっと本題に入れそうです。

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幕末の大奥と島津家vol1

2005年12月20日 | 幕末の大奥と薩摩
いったいいつからを幕末というか、については、いろいろな解釈があり、「幕末」という言葉もさまざまな使われ方をするのですが、とりあえず、嘉永6年(1853)、ペリーの黒船浦賀来航で火がついてからが、もっとも「幕末」という言葉のイメージにふさわしい時代、とはいえるでしょう。

この黒船来航のときの将軍は、十二代家慶なんですが、騒ぎの最中に、六十歳で死去します。跡継ぎの男子は、30歳になろうとする家定一人しかいませんでした。
この家定は、病弱な上にお菓子作りが趣味で、政治向きには関心がなく、子孫を残す能力のない方であった、といわれます。
事実だったかどうか、しかとはわかりませんが、政治は老中たちがするものでしたし、それまでの平和な時代であれば、おそらく、なんの問題もなかったのです。跡継ぎは、養子をもらえばすむことですしね。

変革期には、無数の政治的決断が必要になってきます。
しかし大方の場合、大変革の決断には、大多数の人々が反対します。だれだって、慣れ親しんだこれまでの暮らしを、突然大きく変えられたくないですよね。
攘夷ができるならば、それにこしたことはないのですが、黒船と戦争になれば、あきらかに江戸は戦火にあい、負け戦の末に、幕府は大きな変革を迫られます。
開国すれば……、結局、幕府はこちらを選んだのですが、それはそれで、とりあえずはその場しのぎの対応を続けていても、実際にそうなったように、大変革なくしては立ちいかなくなります。

大多数の人々が反対する中で、大変革に取り組むには、いままでお飾りでしかなかった将軍に、政治的決断を求めるしかありません。権威と権力を一致させなければ、大きな変革は不可能です。
かといって、家定公にはなにも望めません。
そこで浮上してきたのが、子がなく、病がちな家定公の世継ぎ問題です。
幕末、賢侯といわれた大名数名が、危機意識を持って、この将軍家お世継ぎ問題に取り組みました。
その先頭にいたのは、ご三家のひとつ、水戸徳川家の烈公、斉昭でした。黄門さまのご子孫、です。
この人は、頑迷な攘夷主義者のようにいわれることがありますが、かならずしもそうではありません。
当時の幕府主流派、といいますか、井伊大老を中心とする幕府守旧派の方針というのは、「とりあえず開国して外国をぶらかしておいて、国力を蓄えてまた鎖国をしよう」ということです。
それに対して、水戸烈公の言い分は、「ぶらかしなんぞというその場しのぎで姑息なことをして、それでも国力を蓄えることができるならばいいが、危機意識など喉元すぎればすぐ忘れるものなのだから、何年たっても国力増強などできまい」
というのですから、後に、長州が攘夷戦争をしてみて、はじめて大変革の必要性が飲み込めたように、予言的なお言葉ではあるのです。
あるいは、江戸を焼け野が原にする覚悟で、幕府が攘夷を実行していたならば、幕府も大変革をなし得て、ちがう形の維新があったかもしれません。
しかし、長州や薩摩という藩ではなく、幕府は一国の統治者であったのですから、無謀な攘夷が、大火傷になってしまった可能性もあります。

そして、因果なことに、公方様は征夷大将軍なのです。
水戸烈公は「攘夷をしない征夷大将軍はそれだけで権威をなくす」というようなことをおっしゃっていて、これもまた、おっしゃる通りなんです。
つまり、守旧派は幕藩体制を守るためにぶらかし開国を選びますが、そんなその場しのぎで幕藩体制は守れないだろう、というのですから、これもまた予言的なお言葉なのです。
そうなんです。賢侯たちはけっして反幕だったのではありません。むしろ、幕藩体制を守りたかったし、またこの時点では、体制を根本的にはくずさないままの変革の方が、現実的で、諸外国につけこまれるすきが少ないだろう選択だったでしょう。

賢侯の中でも、越前の松平春嶽は徳川家の親藩ですからそれでいいとして、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城は外様で、ほんとうに反幕の意図がなかったのか? と思われるかもしれませんが、幕府の倒壊は、幕藩体制の倒壊でもあるのです。さらに、維新まで生きた容堂も宗城も、けっして倒幕を望んではいませんでしたしね。
で、島津家です。もしも維新まで斉彬が生きていたらどうなんだろう、という仮定には、ちょっとうなってしまいます。ただ、斉彬公もまた、倒幕は望まなかったとは、いえると思います。

島津家は外様ですが、長州の毛利家などとちがい、徳川家に対して、身内の感覚を持っていました。
なぜかといえば……、ということで、話はようやく大奥につながります。

大奥というのは、いうまでもなく、将軍の正妻、御台所が君臨する将軍の家庭なんですが、将軍の世継ぎ問題というのは政治ですし、世継ぎを決めるにあたっては、大奥の意向も強く響きます。
そういう意味では、表の政治の介在する場所でもあります。
で、徳川幕府の基礎が固まったのち、三代将軍家光からは、諸大名を外戚にしないために、正妻はかならず京の五摂家か宮家から、という不文律ができあがるんですね。
結果、正妻の御台所はお飾りで終わり、しかも、偶然かどうなのか、三代将軍以来、将軍の正妻が将軍の生母となることは、いっさいありませんでした。男子が生まれたこともあるんですが、幼児のうちに亡くなっています。
で、将軍は世継ぎを得るために数多の側室を持つことが普通で、歴代将軍の母親は、三代以降、幕末まですべて、側室腹でした。

ところが十一代家斉、つまり、今話題にしている幕末の子無し将軍・家定の祖父ですが、その家斉の正妻は、それまでの不文律を破って、外様の大藩である島津家の姫君だったんです。
これは、家斉公が、御三卿、一橋家から将軍家への養子であったから、なんですが、島津家の徳川家食い込み策が幸運を呼んだ、わけでもありました。
将軍家斉の夫人・広大院茂姫は、薩摩の島津斉彬公の曾祖父・島津重豪の娘ですから、斉彬には大叔母、にあたります。

島津重豪は、海外通で、さまざまな文化事業を興した賢君として知られていますが、10歳という若さで藩主となりました。このときにちょうど、長良川の治水工事が完成しています。
天領岐阜にある長良川の治水工事は、幕府が薩摩の力を弱めるために押しつけたものだといわれます。巨額の費用がかかった難工事で、千名近い薩摩藩士が工事に従い、病に倒れたほか、はかどらない工事の責任を感じて多数の藩士が自刃し、苦難の果てに完成させたあげく、工事の責任者だった家老も切腹して果てます。
家老をはじめ薩摩藩士たちの自刃には、幕府への抗議の意志も込められていたのですが、薩摩藩は幕府への遠慮から、すべて病死としました。
この工事はおそらく、薩摩藩士たちに、根深い反幕感情を植えつけたでしょう。
自藩の治水工事ならば、苦難も納得がいくでしょうけれども、苦労して多くの仲間を死なせたあげくに、藩は多額の借金を背負い、自藩領にはなんの益もなく、暮らしは苦しくなるばかり、だったのです。

重豪の父、重年は、いわば藩士たちに負わせてしまった苦難に心を痛め、若くして死んだようなものでして、幼い重豪の後見には、祖父の継豊が立ちますが、父を、そして息子を亡くした孫と祖父は、二度とこんな理不尽な要求を幕府にさせないために、徳川家への接近をはかるのです。
実は、そのためのいいパイプ役がいたのです。
継豊公の正妻で、重豪公には義理の祖母にあたる竹姫です。

さて、ここでお話は大奥にもどります。
現在、フジテレビで放映中の大奥ドラマ、たしか明後日が最終回ですが、五代将軍綱吉公の大奥のお話です。生類憐れみの令で有名な将軍ですね。
ドラマにも出てきますが、この将軍の側室に、大典侍(おおすけ)の局といわれる京の公家の娘がおりました。子供が生まれず、京から兄の娘をもらって養女にします。これが竹姫なのですが、綱吉公の養女にもしてもらって、血筋は公家ながら将軍家の姫君、ということで、会津藩の嫡子と婚約しましたところが先立たれ、今度は有栖川宮家の親王と婚約。親王がまた早死にされます。

綱吉公死去の後、甥の六代将軍家宣公は、わずか三年の在世で終わり、その子の幼将軍家継公も三年で夭折。その後に、紀州徳川家から八代将軍吉宗公が入ります。
つまり、六年間の間にめまぐるしく将軍が入れ替わったわけでして、売れ残り状態になっていた竹姫は、江戸城で、ひっそりと八代将軍を迎えました。
将軍となったとき、すでに吉宗公は、宮家の出だった正妻を亡くしていて、側室腹の世継ぎはいますし、後妻を娶る気はなかったようなのですね。
こういう場合、前代将軍の正室が大奥の主となるのですが、前代は幼くて正妻がいませんでしたし、吉宗公は、六代家宣公の正妻・天英院熙子を、大奥の主として遇します。
天英院は近衛家の出で、近衛家は五摂家の一つですが、戦国時代から島津家と関係があり、非常に親しいのです。
吉宗公は、江戸城に入ってみたところ、将軍家の娘として遇されている竹姫が売れ残っていると知り、自分の養女にして、嫁ぎ先をさがします。
しかし、婚約者が二人も死んでいるのは不吉で、縁起が悪いと評判がたち、適当なところがなかったので、自分の後妻に据えようとしたともいわれますが、真偽のほどはわかりません。
ともかく、吉宗が相談したのでしょう。竹姫の嫁ぎ先に心をくだいたのは、天英院だったようです。実家の関係から、島津家へ話を持ちかけるのですが、当初、島津家は警戒しました。
養女とはいえ将軍の娘ですから、物入りです。さらには、当主継豊公にはすでに側室腹の世継ぎがいて、竹姫が後妻に入り男子を生んだ場合、お家騒動の種になりかねません。
しかし、竹姫を案じる吉宗公が、「竹姫に男子誕生の場合も世継ぎにはしない」など、島津家側の言い分を全部のんだため、無事、竹姫は島津家に輿入れしたといいます。

竹姫は、嫁いだとき、すでに24歳になっていて、当時としては晩婚です。結局、継豊との間に生まれたのは姫君一人でしたが、側室が生んだ男子、宗信、重年を養子にし、義理の孫の重豪公養育にもあたり、島津家と徳川家の融和に心をくだく、賢夫人であったようです。
夫とともに、でしょうけれど、竹姫は徳川家と島津家の婚姻をはかるのです。
重豪の正妻として、吉宗の孫になる一橋家の姫君を迎えたのが第一歩とすれば、さらに竹姫は遺言で、重豪の娘・茂姫を、早々と一橋家の世継ぎ・家斉と婚約させます。
竹姫の遺言は、あるいは重豪の遺志の補強であったかもしれません。
徳川将軍家は、八代吉宗から九代家重 十代家治と、父子関係が三代続きましたが、直系世継ぎがなくなった場合、養子に入る可能性がもっとも高かったのが、九代家重の弟の血筋である一橋家だったのです。

十代将軍家治には、家基という世継ぎがいたのですが、十七歳で急死したため、毒殺説もあります。
あー、余談ですが、昔、家斉の父・一橋治済と島津重豪が共闘して、将軍家世継ぎを毒殺するという短編小説を書こうか、と思ったことがあるのですが、資料調べがめんどうになって、やめました。治済の妹が重豪の正妻ですしね、あってもおかしくない話ではあるんです。
ともかく、家基は急死し、家斉はわずか六歳で将軍家の養子となります。十代家治の死去にともない、十四歳で十一代将軍となりますが、幼い頃の婚約を守って、島津重豪の娘、茂姫を正室にしました。茂姫は、一応、公家の近衛家の養女の形をとりますが、重豪は将軍の岳父として、さまざまな便宜を手に入れるのです。
そのかわり、大奥にもかなりの金銭をばらまいたでしょう。

十一代将軍家斉は、歴代将軍の中でも、もっとも子供の数が多い艶福家です。
側室数十名、子供も数十人。手をつけた女の数は、数え切れていません。
『偽紫田舎源氏』という源氏物語のパロディ読み物は、この将軍の大奥をモデルにしたといわれます。
将軍が将軍ならば、側室も側室で、後に、この時代の大奥の女人たちが、寺院でくりひろげた密通を幕府は調べ上げるのですが、さしさわりがありすぎて、大奥には手をつけませんでした。
そんな大奥の主であった正室の広大院茂姫は、不幸だったでしょうか。
かならずしも、そうではなかったのではないでしょうか。
これまでの正室だった公家の姫君たちは、京都から嫁いできます。
大奥も、歴代御台所が公家ですし、その御台所に京から公家の高級女中もついてきますので、公家の礼法を取り入れないではなかったのですが、やはり将軍家は武家ですし、奥女中たちも多くは旗本の娘です。側室も、旗本の娘が一番多いわけでして、なんといっても江戸の武家風が基本、なんです。
京から嫁いで、なじむのには努力がいったでしょう。

大名の妻子は、江戸住まいが基本です。お国御前と呼ばれる国元の側室やその子供たちは、地方にいたりもするのですが、女の子は、他の大名家の正室、になることが多いですし、となれば、嫁ぐのは江戸の他藩の屋敷、ですので、江戸住まいが多いのです。
広大院茂姫も、江戸屋敷で生まれ育ち、実家の屋敷はすぐそこですし、父親は惜しみなく援助をしてくれます。
その父親の重豪も、家斉とどっちこっちないほどの艶福家でしたし、そういうことは慣れっこで、絢爛豪華な大奥の主であることに、けっこう満足していたのでは、ないでしょうか。
ともかく、広大院茂姫は世継ぎこそ残せませんでしたけれども、長命を保ち、長く大奥に君臨して、黒船来航の十年ほど前に世を去りました。

それで、ようやく、黒船来航騒ぎの最中に将軍となった十三代家定に、話がもどります。
30歳で将軍になった家定は、すでに二人の妻を亡くしていました。
最初の妻は鷹司家の娘で、次は一条家の娘です。どちらも伝統通り、五摂家の娘なのですが、後妻の一条家の娘には養女であったという噂があり、しかも、人並みはずれて小さく、四、五歳の幼女並みの背丈で、おまけに病弱だったといわれます。
これに懲りたのか、将軍家では実は、三人目の正妻を、島津家から迎えようとしていたのです。
黒船が来る三年前、家定の父、十二代家慶将軍が生きていたころのことで、「島津家から」という要望は、家慶の側室で家定の生母である本寿院から出たことが、書簡に見るそうです。本寿院は旗本の娘で、奥女中から側室となり、広大院茂姫の権勢を目の当たりにしていましたし、嫁は公家の娘よりは武家、という気分もあったようです。

島津家の側に、適齢の娘がいなかったためか、あるいは将軍家への輿入れに莫大な費用がかかることを嫌ってか、この話は進んでいなかったようなのですが、嘉永4年(1851)、藩主になった斉彬は、俄然、この話に注目したようなのです。
斉彬自身に適齢期の娘がいればそれにこしたことはないのですが、分家から養女を迎え、多少強引でも、実子で押し通す手があります。
斉彬が、実際にはいつ、分家の篤姫を養女に迎えたかは、はっきりとわからないのですが、黒船騒動が起こり、家定が将軍となるにいたって、将軍家への輿入れは、具体化しました。
家定が世継ぎを作ることは、不可能でしょう。養子を迎えることになるでしょうし、そしてその養子には、政治的決断のできる英明な人物が望ましいのです。
となれば、世継ぎ問題に発言権を持つ大奥へ、島津家の娘を送り込むことは、大きな意味を持ちます。

さて、このとき、斉彬をはじめとする賢侯たちが、将軍世継ぎに、と望んでいたのは、水戸烈公の七男で、一橋家に養子に入っていた一橋慶喜なのですが、大奥は、これを嫌っていたのですね。
なぜか……、というお話は、明日にいたします。

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TVが描く幕末の大奥

2005年12月19日 | 幕末の大奥と薩摩
うちはケーブルTVです。
母は最近、時代劇チャンネルばかりを見ています。昔はけっしてそんなことはなかったのですが、年をとると小難しいものは見たくなくなるのだと、本人が言っています。
いや、まあ、いいんですけどねえ。大昔の時代劇ばかりくり返し見せられたのでは、こちらまで、今がいつやらわからなくなりそうなので、母が怒るのもかまわず、食事のときくらい、と、NHKニュースにかえます。
でも、時に見入ってしまうのですが、先日は、幕末の『大奥』でした。

一番新しい大奥のTVドラマは、今もフジテレビで元禄あたりをやっています。これの幕末版は、以前にやっていましたが、天璋院篤姫が「じゃっどん」とか薩摩弁だったりするものですから、あまりのばかばかしさにいやになって、途中で見るのをやめました。
いえ、『大奥』は笑うために見るものですから、大まじめなギャグだったらそれもおもしろいのですが、そういう軽快な乗りが感じられませんで。

時代劇チャンネルで放映している大奥シリーズは、私の知っているだけで、二つあります。昨日、ちらっと見たのは新しい方です。
新しい方といってもかなり古いもので、1983年のものです。もう一つ古いのは、1968年版だそうです。
ともかく、その1983年版の最終章です。
何回も放送されていますので、これ、以前にも偶然見て、どびっくりしたのですが、中村半次郎、つまり後の桐野利秋が出ているんです。
なんで京都にいるはずの桐野が江戸に????? なんですが、江戸薩摩屋敷でくりひろげられた挑発の指揮をとっているような感じ、だったと思います。
まあ、ともかく、栗原小巻演じる大奥最後の総取締役、滝山殿が、春日局の墓参りだったかで松方弘樹演じる中村半次郎と出会って、その後、倒幕軍の江戸先遣隊長だったかに桐野がなっていて、また出会う。
いや、ばかばかしいことこの上ないんですが、ラストがなかなかよくって、これは母もお気に入りです。
最後の最後、見事に大奥の後始末を終え、江戸城を背にする滝山。「滝山どんに敬礼!」と、桐野率いる薩摩藩兵は敬意を表し、ヤッパンマルスの演奏で見送るんですね。
そこに森山良子だったかの歌がセフィニとかぶさって……、あの歌はやめてほしくはあるんですが。

まあ、ともかく、なにしろ桐野が出ていますから、さらっと見てはいるのですが、細かいことはさっぱり覚えてません。先日見かけたのは、その最終回のひとつ前です。
最後の将軍慶喜公が、鳥羽伏見の直前に「江戸から京へ進軍されて」って、そんな馬鹿なあ~! もう無茶苦茶です。

で、なにが言いたかったって、とりあえず、薩摩の島津家から徳川家へ輿入れして、皮肉にも、実家の藩兵から攻撃される役回りとなった最後の御台所、天璋院篤姫と最後の将軍慶喜公、について語りたかったのですが、また明日にします。

最後の御台所は将軍慶喜の妻、のはずなんですが、この方は大奥に入っていません。
では皇妹和宮ではないか、と思われるかもしれませんが、和宮は御台所と呼ばれるのを嫌っていたというお話で、実質的に、大奥最後の総取締役(いわば女官長で、表の老中にも匹敵するといわれたほどです)・滝山の信頼を得ていたのが天璋院であり、最後を締めくくったのが天璋院と滝山であったことは、事実のようなんです。
で、詳しくは明日にします。

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影が薄いTVの極東ニュース

2005年12月18日 | 時事感想
昨日、フォーサイトが届き、今日、週刊新潮を買いまして、久しぶりに、詳しい極東のニュースに触れました。ここのところ、ろくにネットでニュースを見ていなかったんですよね。
テレビだけだと、ほんとうにニュースが偏りますね。

一つは、週刊新潮の櫻井よしこ氏のコラムで、つい先日ソウルで、北朝鮮の人権問題を問う国際会議がひらかれ、それは韓国のニューライトの主宰であった、ということです。日本からも、駐ノルウェー大使が人権大使として出席したそうですが、こんなこと、テレビで報道されましたっけ? 私が見ていないだけかもしれませんが。
日本の整理回収機構が、朝鮮総連などを相手取り、在日系信用組合の貸付金返還を要求して訴訟を起こした件は、さすがに、短くですが、NHK総合のニュースでもやっていましたね。なぜ、もっと掘り起こして報道しないのか、と思った覚えがあります。

フォーサイトの方は、中国関係のニュースが興味深かったですね。
胡国家主席が、二十年後を睨んで、実質的な連邦制をめざして舵をきった、というのですが、まだちょっと先は読めないという、中国政界現状話です。
もうひとつは、胡国家主席の訪英です。中国の人権問題がらみで英国の対応が冷ややかなものであった、という記事なんですが、アメリカ大統領がデモに迎えられた、という話は大きく報じられても、中国の国家主席へのデモって、あまり日本では報じられませんね。まあ、アメリカ大統領の方が、注目度が高いといってしまえば、それまでなんですけれども。

で、久しぶりに思い立って、某所から朝鮮日報のサイトへとびましたが、

【News Blog】「誰のお金で香港まで遠征?」  韓国政府、農民デモ関与疑われる

って記事、笑いました。どうやら、ほんとうに半分は官製、みたいなデモですね。

香港のWTO閣僚会議に、韓国農民が1400人も押し寄せ、かなり暴力的なデモをしている、というのは、短くNHKでもやってましたが、説明もつっこみもなかったので、なんのことやら、インパクトに欠けていました。
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極東の攘夷と漢文

2005年12月17日 | 読書感想
村田雄二郎 C・ラマール編 『漢字圏の近代 ことばと国家』 東京大学出版会

今日届いた本です。先日TBいただいたところで紹介されていまして、ちょっと興味を持ちました。
これもまだざっととばし読みです。とりあえず、私が多少知っているのは韓国の部分だけですので、そこだけはきっちり読みました。
簡略なガイドブックで、全体に要領よくまとめられてはいるのですが、詳しくなってくるとイデオロギー色が濃くなるような感じですね。
韓国に関しては、ごく短い文章です。これで細かく解説するのは無理だろうな、とは思ったのですが、よく知られたことばかり、でした。
ただ一つ、教えられたことがあります。
解放後すぐに、軍制をしいた米軍が漢字廃止令を出したということです。教科書はハングル専用、横書きで、ということだったそうなのですが、これは知らなかったことで、笑いました。
アメリカのすることって、昔からこうなんですね。

日本の敗戦で解放され、朝鮮半島でなにがはじまったかといいますと、さびれていた村の漢文私塾に、入門する子供が激増し、素読の声が響き渡ったんですね。これは、尹学準氏が『韓国両班騒動記』で書かれていまして、氏は、現実にその状況を体験なさったんです。
これは、なにで読んだか忘れましたが、台湾でも同じことが起こったそうです。
日本の朝鮮半島、台湾支配は、近代化の押しつけでした。朝鮮の解放闘争というのは、主に両班に担われていまして、ずっと攘夷運動の趣が強かったんですね。
漢文私塾というのは、郷班、村に住む貧乏な貴族階級が、私塾を開いていたのですが、これに、解放運動をした層が重なるというわけです。
つまり庶民層は次第に近代化を歓迎するようになっていて、攘夷感情を暖め続けたのは土着の知識層であり、漢文教育は解放闘争のシンボルとなっていたんです。

米軍の漢字廃止令から5年後、教科書は漢字ハングル混用にもどったというのは、当然のなりゆきでしょう。

どうもいけません。ほんっとにいいです、ギャルドの軍艦マーチ。
くり返し聞き続けてしまって、本が読めません。
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フランスの軍艦マーチ

2005年12月16日 | 日仏関係
昨日、アマゾンに注文していた本やCDがまとめて届きました。
まずは、これから。

鹿島茂著『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』講談社発行

まだとばし読みしかしてないのですが、図版が多いし、熱のこもった記述で、おもしろく、お買い得な本でした。
一番ありがたかったのは、ナポレオン三世の外交や戦争についても章がさかれていることで、アマゾンでさがしたんですが、普墺(プロイセン・オウストリイ)戦争や普仏戦争を解説してくれている日本語の本って、いま、ほとんど出てないんですよね。

もう、なんといいますか、あきれました。
なににって、弟2帝政期のフランスの脳天気に、です。戦争に関する限り、幕末の幕府に、ほんとうによく似ています。
普仏戦争って、フランスの方から、宣戦布告したんです。
以前にも書きましたが、スペインの王位継承問題、という、直接フランスには関係のないお話で、たしかに、プロイセンのビスマルクが策を弄して、フランス人を怒らせるような記事をわざと流したのですが、はっきりいって、他人が見たらどーでもよかろうに、と思うようなことです。おまけにナポレオン三世は、戦争なんかしたくなかったわけですのに、なんで国を挙げて燃え上がるかな、と。
で、当然、なんの準備もできてないわけでして、ピクニック気分で戦争をはじめて、兵站がまるでなってない。
このフランス軍の兵站がなってなかったのは、クリミア戦争のときからわかっていたことだそうで、すでにクリミア戦争で、計画性のなさ、兵站の悪さにより多大な戦病死者を出しながら、経済発展にかまけて、まったく軍政の改革に手をつけられないまま時間はたち、普仏戦争です。
……って、あら、現在のどこかの国にもちょっと似てますね。
以前に、戊辰戦争の幕府伝習隊のシャスポー銃に触れて、「弾薬切れだったんじゃないのか」と書きましたが、どうやら正解のようです。伝習を授けてくれたフランス陸軍自体が、普仏戦争でシャスポーの弾切れに泣いたそうで。

はあ、それにしても、当時のフランス軍って、上着が青でズボンが赤って……、将校もそんな派手な軍服なんでしょうか。明治初期の軍服はフランス軍をまねたので、とても派手だったような話を、以前になにかで読んだような気がするんですが、いくら桐野でも、青と赤の軍服なんて、きれいに着こなせていたのかどうか、ちょっと不安です。

当時のフランス軍の行進曲ってどんなんだろうと、とりあえず、下のCDも注文していました。

ギャルド/軍艦マーチ(日本、アメリカ、フランス名行進曲集)

ギャルド・レビュブリケーヌ吹奏楽団というのは、フランスの陸軍参謀本部に所属する世界有数の吹奏楽団なのだそうです。団員はパリ音楽院の出身者から、厳しい試験を経て選抜され、極めて高い演奏をするので有名だとか。
いや、フランスの行進曲って、ほんと、ピクニックみたいな楽しい乗りだな、と思ったのですが、すばらしかったのは、軍艦マーチと君が代行進曲です。踊り出したくなる君が代って、はじめて聞きました!
小さい写真なんですが、ギャルドの騎乗写真があって、ステキな軍服です。軍艦マーチを演奏してくれるなら、ぜひ見に行きたい!

だからねー、フランス軍って、戦争しない方が断然いいみたいですね。
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鹿鳴館と伯爵夫人

2005年12月15日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
コメントで中井桜洲に触れましたので、メモ程度にちょっと書いておこうかな、と。
中井桜洲、桜洲は号で、維新後の名前は中井弘ですが、彼は鹿鳴館の名付け親でした。
薩摩の人ですが、脱藩して江戸に出たところで連れ戻され、また脱藩します。薩摩の気風が、肌にあわなかった人のようです。
二度目の脱藩後、土佐の後藤象二郎と親交を深め、また伊予宇和島藩に雇われて京都で活躍したりするのですが、宇和島藩は薩摩と関係が深かったわけですから、脱藩したといっても、引き立てを得る薩摩の人脈は、あったのではないかと思ってみたり。
後藤象二郎が金を出したといわれるのですが、慶応二年の暮れから渡欧し、パリの万博も見て、簡略ですが、そのときの日記を残しています。

中井弘は、明治27年に死去していますし、あんまりたいした伝記もありませんで、世に知られなくなってしまった人なのですが、彼がかかわったもっとも有名な事件は、イギリスのパークス公使を救ったことでしょうか。
鳥羽伏見の戦いの後、薩長に担がれた京都朝廷は、外交に乗り出すわけなんですが、「攘夷」を武器に倒幕運動を進めてきただけに、新政府は苦境に陥ります。
つまり、外国人殺傷をめぐる事件が頻発するのですが、ちょっとそれは置いておいて、中井です。
パークス公使が、天皇に拝謁のため、英兵に守られて、御所に向かっていたときのことです。二人の浪士がその行列に斬り込みました。
あまりに突然で、英国兵はふせぐことができず、次々に負傷します。このときパークスをかばって奮闘したのが、中井弘と後藤象二郎、なんですね。二人とも、剣の腕前もかなりなものだったようです。
後に二人は、ヴィクトリア女王から宝剣を送られました。

で、中井さん、開明派であると同時に、他藩士とのつきあいが深いですから、維新後は薩摩人脈には属さないで活躍します。パークス事件後、神奈川、東京の判事を務め、なにをやっていたかというと、戊辰戦争が続いていましたので、軍事費を調達していたんだそうです。
そのとき、後の井上伯爵夫人、幕臣の娘である新田武子と知り合ったわけなんですが、武子さんは芸者に出ていた、というように、後々には噂されました。
ところが、です。知り合って間もなく、中井さんは薩摩に引き戻されるんですね。薩摩藩からの呼び戻しであったようです。
帰ってみたところ、脱藩の罪は許されたのですが、上京は禁じられます。なんとか上京する方法はないかと考えていたところ、薩摩藩兵が御親兵となっていくにあたり、親しかった桐野が隊長の一人となって人選にあたっているというので、桐野に頼み込むんです。兵隊にもぐりこんで上京してしまえば、これまで培った人脈で、再び新政府に返り咲けますから。
それを桐野が快諾し、中井桜洲は上京を果たしました。
で、中井さんは武子さんを、武子さんと同じく幕臣の娘だった大隈重信夫人に預けておいたのですが、訪ねてみるとなんと、武子さんは長州の井上聞多とできていたんです。
大隈重信の築地の屋敷は大きく、聞多や伊藤博文など多数、主に開明派の若手が出入りしたり住み着いたりで、築地梁山泊と言われていまして、恋が芽生えたもののようです。聞多が武子さんを正式に夫人とする気があることを聞き、中井さんは「それならいい」と、あっさり引いたのだとか。
悶着があって別れたわけではありませんので、聞多と中井さんの親交は続き、聞多が外務大臣となり、鹿鳴館を作ったとき、名付け親になるんですね。
鹿鳴館における井上武子伯爵夫人の華麗なる活躍は、ピエール・ロチが『江戸の舞踏会』に書き残しております。
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花の都で平仮名ノ説

2005年12月14日 | 幕末東西
えーと、なんといいますかこのブログ、モンブラン伯の情報をお願いする、という最初の目的から、脱線してしまっておりますが、昨日、TBをはらせていただくのでぐぐったり、TBしていただいたりで、いろいろと楽しく読ませていただきましたし、とりあえず国語の話題を幕末へと引っ張ってみることにしました。

以前に書きました1867年、帝政パリでの万国博覧会において、幕府の出品の一環として、民間からも出品者を募ったんですね。
このとき、民間からただ一人話に乗ったのが、江戸の商人、清水卯三郎です。
生まれたのは、武蔵国埼玉郡の豪農の家でしたが、薬種業と造り酒屋も営んでいて、後に江戸の浅草にも店舗をかまえますが、そんな関係から、蘭学に興味を持って学びます。
非常に好奇心が強かったみたいで、ロシアのプチャーチンが下田に来たときには、川路聖謨の臨時の足軽にしてもらって、ロシア人に接触し、ロシア語を学んだりします。その後、英語も学んで、福沢諭吉や、薩摩の松木弘安(寺島宗則)なととも知り合いでした。
薩英戦争のときです。イギリスは、薩摩へ行くのに、文書の通訳に困ったんですね。話し言葉は通訳がいるのですが、薩摩側から文書をよこされた場合、それを読む能力がない。かといって、幕府の役人についてきてもらうわけにもいかず、清水卯三郎ならば、民間人ですし、英語もできて漢文も読める、というわけで、卯三郎は、通訳としてイギリス軍艦に乗ってくれ、と頼まれたのです。

余談になりますが、うちの地方の元回船問屋から出た古文書に、薩英戦争の絵図があります。簡略なもので、部屋に飾ったりするものではなく、情報を伝えるための絵図です。古書店で見かけて、出所を聞いて、写しにしても、もともとの絵はだれが描いたものだったのだろう、鹿児島商人かな、と思ったのですが、あるいは、卯三郎さんかも、しれないですね。

まあ、そんなこんなで、卯三郎さんは薩英戦争を見物し、わざと英艦の捕虜になった松木弘安と五代友厚をかくまったりしたことが、『福翁自伝』に書いてあります。『福翁自伝』は、いうまでもなく福沢諭吉の自伝です。
その卯三郎さんがパリへ行ったのは、もちろん商品の売り込みもあったのでしょうし、一番知られているのは、万博会場に水茶屋を出して芸者を置き、評判になったことなんですが、一方、彼には、近代化のために導入できる機械などを購入する、という目的もあったんですね。活版印刷の機械を買い、そのためのひらがなの字母をつくらせてもいます。この機械は、後に『東京日々新聞』が買ったそうですが。

また余談になりますが、この万博には、後に実業家になった渋沢栄一も参加しています。
渋沢栄一も卯三郎と同じように、関東の富裕郷士の出ですが、攘夷運動であばれていたところ、機会を得て一橋家に雇われ、抜擢されたものです。民間ではなく、幕府の使節団の会計係のような形でして、こちらは、経済運営の面で、いろいろと知識を仕入れることになったようです。
ますます余談ですが、このお方は、パリに渡る直前まで京都にいましたから、新撰組とも接触があり、たしか土方の印象を語り残していたはずです。

で、本論に帰りますと、その卯三郎さんが、です。明治のはじめに『平仮名ノ説』という論文を書いていまして、要するに、「漢字をつかうのをやめて全部平仮名にしてしまおう」という話らしいのですが、実は読んでいませんので、詳しいことはわかりません。
印刷における合理性を考えたのでしょうか。あるいは化学教育の普及のためを考えたのでしょうか。
炭素を「すみね」、水素を「みずね」というような、独特な用語まで作っていたんだそうです。
いま現在の感覚からしますと、そこで大和言葉をもってくるかな、と、不思議な気がします。卯三郎さん自身は、もちろん、漢文の教養も十分に持っていたのです。
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死人のおっかけの国語漢文

2005年12月13日 | 読書感想
昨日の続きです。現在の日本の国語教育について、少々。
といっても、ろくに知らないわけでして、下の本を読んでから、と思っていたのですが、昨日、言い足らなかった部分がありましたし、中学生になった姪が、国語の成績が悪いというので、相談にのったところでしたので。

国語教科書の思想

以下、野口武彦氏の解説の主要部分です。

 この一冊が告発するのは、国語科でひっそりと進行している危機である。「戦後の学校空間で行われる国語教育は、詰まるところ道徳教育なのである」というのが著者の基本的な現状批判である。道徳が悪いのではない。特定の徳目を国語が唯一無二の「正しい読み」として教え込むことが危なっかしいのだ。
 今や息の根を止められた「ゆとり教育」を「いつも『正解』ばかり答えていたような頭でっかちの官僚が作った、歴史に残る大チョンボ」と断言する著者は、その凋落(ちょうらく)とワンセットで騒がれはじめた「読解力低下」というフレーズの独り歩きにも警告を発している。
 日本の十五歳の読解力が低下しているという主張の根拠になったのは、PISA(生徒の国際学習到達度調査)のテスト結果である。ところが、そのPISAの試験が求める読解力とは、「批評精神」であり、「他人とは違った意見を言うことができる個性」であって、文章の暗唱とか漢文の素読とか、教育方針を復古的にすれば得点が上がるものではないという指摘は大切だろう。

 この最後の部分なんですが、「批評精神」や「他人とは違った意見を言うことができる個性」と、「文章の暗唱とか漢文の素読とか」と、ほんとうに関係がないのでしょうか?
 なんの知識もない子供が、批評ができたり、他人とは違った意見を言えたり、するわけがありません。
 たしかに、学校教育において教師が、一定のパターンにあてはまる意見のみを求める姿勢は問題かもしれません。しかしそれは、ある程度は仕方のないことです。
 例えば、「戦争はよくない」というだけの感想は、思考停止を産むわけなのですが、そこから先、ではなぜよくないのか、いや、戦争とはそもそもなになのだろうか、と思考を進めていく部分まで、すべて学校教育に求めるわけにはいかないでしょう。
 学校教育では当然、「人を殺すのは悪い」となります。「人を斬るのは悪い。でも新撰組が好き。なぜかといえば……」というように、思考停止が解かれる鍵は、学校教育ではありません。
 しかし、その鍵を与えてくれる世の中の媒体が、これまた思考停止のワンパターンであったり、情調をかきたてるものばかりであったならば、「単純に善悪を決めつけるだけでいいのか」という、根本的な鍵にまでいきつけないで終わってしまいます。
 そして、ワンパターンではない思考材料に触れるには、基礎的な国語力が必要になってくるのです。

 生徒の側で、教師の求めるパターンを察知し、それにうまく応じているだけなのであれば、かならずしも問題ではないでしょう。応じる能力があるということは、基礎的な国語力がある、ということですから。
 なぜ中高生になっても、教師が、あるいは世の中がおしつけるパターンを疑わないか、あるいは、求められるパターンがなんであるかを洞察できない子が、増えたのでしょうか。
 基礎ができていなければ知的欲求がわかず、知識の仕入れようがないではありませんか。知識は、言葉で成り立っているものなのですから。
 世の中には多様な価値観があるのだと知り、知るだけではなく、押しつけられるものに正面から反論できるだけの論理性を身につけるには、その前提として基礎学力が必要です。
「文章の暗唱とか漢文の素読とか」をこなさなければ、「批評精神」やら「他人とは違った意見」なぞ、生まれる確率は少ないのです。
 気分や好き嫌いだけでは、「批評」にも「意見」にもなりません。

 戦後の国語教育を受けた私が、心底悔しく思ったのは、幕末にはまったときでした。これは、知り合いの長州好きの女性も、同じことを言っていましたが、「なんで小学校のころから漢文をたたきこんでくれなかったの! みみず文字の読み方も教えといて欲しかった!」と嘆きあったものです。
おたがい、すでに成人して仕事をかかえている身です。学者のように勉強するだけの余裕はなかったんです。せめて、大学生のころだったらよかったんですけどね。
それでも、「死人のおっかけ」と自嘲するほど入れ込んでいた男たちの書き残したものが、まず現物は読めず、活字になっていても漢文のままではいまひとつよく意味がわからない、引用している漢籍がなになのかわからない、では、悲しくなりますよね。ほんの百数十年前の日本語なのです。
ああ……、下手すると、全集の書き下し文や注釈が、まちがっていたりするんですよ。戦後の『松陰全集』で、私はまちがいを見つけましたもの。戦前の漢文の全集で意味がわからなかったものですから、戦後の書き下し全集を持っている友人に、その部分のコピーを送ってもらいましたところ、それでも意味がわからず、図書館に通って漢籍をあさって、ほんの短文にものすごい時間をかけて、ようやく全集の書き下しと注釈がまちがっているとわかって、意味がとれたという、苦い経験でした。
しかしまあ、おかげで私は、当時の人々の学識といいますか、知識量のすさまじさを、実感することができました。

で、例えばこの幕末の歴史です。なにをどう評価するか、世の中には、さまざまな意見があるわけですよね。それぞれにちがう専門家の意見を考察し、この人が鋭い見方をしているのではないのか、これはちょっとちがうだろう、結局私はこう考える、といったぐあいに自分の意見を持つためには、少しは原資料を……、いえ、少しではなくたくさんだったらもっといいんですが、読んでみることができるならば、それにこしたことはないわけです。物語や思想から得た思い込みではなく、実際はどうなのかと、考えてみることができますから。
 あるいは、歴史は不適切な例であったかもしれません。時事問題でもいいのですが、さまざまな角度から物事を見てみるためには、基礎知識が必要でしょう。

マザー・タングは思考の道具です。基礎をきっちりたたき込まれていなければ、なにごともはじまりません。
現代日本語、それも情緒的ではなく思考にふさわしい日本語の基礎には、漢文の書き下し文があるわけでして、漢文の素読が、意味がないわけはないのです。

しかし、それにしましても……、父が難病でして、月に一度大学病院につれていくのですが、担当の先生は助教授でおられて、とはいえ、お子様が小さいようですし、それほどお年の方ではないのですが、世間話のついでに盛んにこぼされるのです。「なぜ最近は、こんなに勉強していない学生が医学部に入ってくるのか」と。数学、英語がまるでできないので、高校程度から教えないとだめだそうでして。

ああ、書いているうちに、姪へのいいアドバイスを思いつきました。
姪は、本が嫌いなわけではないのです。物語は好きなのですが、ただどうも、説明文とか批評文とかが苦手のようでして、そういうものを読んだら、と言ってはみたのですが、嫌いなものをただ読め、といいましてもねえ。
文章を丸写しすることを勧めてみたら、いいかもしれませんね。
言い古されたことですが、これが案外、文章の組み立てを知るいい勉強になるのですよね。
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靖国と国学とプロ市民

2005年12月12日 | 読書感想
なんとなく、野口武彦氏が『幕府歩兵隊』で一言もらされていた靖国に対するお言葉の真意が気になって、ぐぐっていたら、ありました。
今年話題になった高橋哲哉氏の『靖国問題』を、論評なさっていたのです。


asahi.com書評 靖国問題

 明快である。だが靖国問題は、どう論じても俗にいう「割り切れない」ものを残す。《靖国感情》のほぼ主成分をなすこの要素は、論理とはまた別の方法で透析するしかない。本書には不思議に土俗の匂(にお)いがしない。招魂社の夜店・見世物(みせもの)は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪しげで猥雑(わいざつ)な活気が溢(あふ)れ、アセチレン燈(とう)の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからそう感じることが大切なのではないか。

あー、私が感じていたことなど、十分ご承知の上で、書いていらしたのですね。
うー、なんかとても困るんですよね。ものすごく私と似た感性を持っておられて、はるかに頭脳明晰で、学識豊かでおられる。それでいて、最後の最後の結論に、私は賛成しかねてしまう。
おそらく私は、ナショナルな幻影の政治利用を、必要なものだと思っているんですね。多くの人が、幻影なくして生きられないと同じように、国家というものも、物語を……、詐欺を必要としているのだと。
といいますか、せめて国家が幻影をつなぎとめておいてくれなければ、祖父母が生きた時代の土俗の思いは、のっぺらぼうな世界に呑み込まれて消えしまう、と、確信しているのでしょう。

国立の無宗教慰霊碑という存在は、思い浮かべただけで、気持ちが悪いんです。
つまり、まあ、これも積み重なった時間の問題で、ありえないことですが、戦後すぐにそれができていて、母は来ました~♪ とか、えーと岸壁の母、でしたっけ、そういうおかあさんたちもみんな、靖国ではなく無宗教慰霊碑に息子に会いにいったのならば、それでよかったんですけど。
満州からの引き揚げ者の方から、キリスト教だったご主人が、死ぬ前にどうしても、戦友にあいに靖国に行く、といって、病身を押し切って参ったお話など聞きますとね、ここに首相が参らないのは、国家の責任者として非礼だろうと。

靖国問題を考える上でも、ぜひ野口先生に、江戸の国学思想を取り上げてもらいたい、と、前々から思っていました。
平田国学は、偏っていたかもしれません。しかし、土俗の感情を吸い上げていたことはたしかですし、商人、回船問屋などに、ひろく門人がいて、彼らの世界が狭かったわけではなく、維新の原動力のひとつであったこともたしかです。
ぜひ……、と思っていたら、こんな解説をなさっていました。

asahi.com書評 国学の他者像

えーと、本の解説自体はおもしろくて、読んでみたい気にさせてくださったのですが、この部分はどうなんでしょ。うーん。

社会にネオナショナリズムの波がうねるとき、その根底ではネオ国学の心性が動いている。自己の複数化として「公」を強調する立場は、異論をすべて他者として排除する。それと奇妙に共存しているプチ保守主義の「私」の視野には、最初から他者が入ってこない。

いま、ネオナショナリズムの波がうねっているんですか? 知りませんでした。まあ、それほど世の中を見ているわけではないですから、わかりませんけど、「異論をすべて他者として排除する」「最初から他者が入ってこない」のは、ナショナリズムの保守のの問題なんでしょうか。
えーと、夏のNHKの歴史問題などの討論番組でしたが、他県で医者をしている妹から電話があって、「見てる? おもしろいよ! マンガに出てくる新興宗教の信者みたいなプロ市民がいっぱいいる~♪」と笑い転げていうものですから、見てみましたら、ほんとにそんな人たちがいました。特に、中学校だかの先生をやっているというおばさん(おばあさんかな)は、平田国学信者顔負、だったのではないか、と思います。いえね、平田国学信者を見たことがありませんので、断言できないんですが。
「プロ市民」と呼ばれる方々は、ネオナショナリズムのプチ保守のとは、言われませんよね。
おそらくそれは、こちらの問題じゃないんでしょうか。

asahi.com書評 国語教科書の思想

 この一冊が告発するのは、国語科でひっそりと進行している危機である。「戦後の学校空間で行われる国語教育は、詰まるところ道徳教育なのである」というのが著者の基本的な現状批判である。道徳が悪いのではない。特定の徳目を国語が唯一無二の「正しい読み」として教え込むことが危なっかしいのだ。

それはまた、ひどいことになっているものですねえ。
どうも、小中学校の先生に多そうですよね。「異論をすべて他者として排除する」という傾向を持つ方々。この本も、読んでみたくなりました。
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