郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

久坂玄瑞の法事

2005年12月11日 | 幕末長州
に出たことがあるんです。京都東福寺の塔頭の一つで、黄檗宗でした。

なんでそんなことを突然思い出したかというと、『ブラザーズ・グリム』でぐぐっていましたところが、長州好きらしい方のブログにいきあたりまして。
幕末にはまっていたころ、長州好きの知り合いが多かったことは、以前に書きましたが、長州好きの方々には、調べもの好きが多いんですね。
久坂玄瑞好きは、男性でしたが、ご子孫と知り合うところまでいきまして、没後百何十年とやらの個人的な法事に招かれたんです。で、いっしょに行かないかと誘われまして。
旅先だったので、法事だというのに派手な色の服を着ていってしまったような記憶があります。
よく覚えてないのですが、久坂のご子孫は、二通りありまして、その方々が仲が悪くていらしたかなんかで、こっちではあっちの話はしないで、みたいな注意を受けたような気もします。

ともかく、長州好きには徹底した方が多く、入江九一好きの女性とも知り合いでしたが、彼女は北海道までご子孫を訪ねて行って、ついに、多くの資料をまだご子孫が持っておられてということをつきとめたり。ご子孫は、資料をまとめて出版しようとされていて、それはほどなく完成し、資料そのものは国会図書館の憲政資料室だったかに寄付されました。その資料集、彼女からいただいて、まだ持っています。いえ、まあ、微力ながら、彼女の資料さがしに協力したりもしましたので。

私が長州系の資料をあさっていたのは、桐野が高杉晋作に心酔していたという話がありまして、彼の維新以降の通称は、新作だったか、なんですが、実は高杉晋作の名をもらったんだというようなことが、当時の新聞だったかに載っていたもので、接点がないものかと、さがしていたんですね。
結局、接点を示す資料は見つからなかったのですが、東行庵の一坂太郎氏は、桐野について、気づかれた資料とかを教えてくださったり、コピーを送ってくださったりで、とてもありがたく、長州に足を向けては寝られないかも、と、思ったものでした。
ちなみに私は、律儀に幕府に従い、大島に攻め込んで悪評を立て、戊辰戦争では長州に攻めてこられて進駐していた土佐藩兵に守ってもらった、なんともしまりのない伊予松山藩の生まれ育ちです。曾祖母の生まれた家は、五百石ほどの元藩士でした。

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グリム兄弟の神風連の乱

2005年12月10日 | 映画感想
ブラザーズ・グリム公式サイト

実は昨日、『ブラザーズ・グリム』を見に行ってきました。
テリー・ギリアム監督の他の作品は見ていませんし、ネットでの評判をかいま見たところ、絢爛豪華なおとぎ話シーンを期待するのは無駄のようでしたし、どうしようかな、と迷いに迷っていたのですが、どうも悪評がかえって気になって、なにかありそな気がしたんですね。
昨日が最終日だったので、タクシーをとばして見てきました。
正解! でした。のっけからもう、笑いっぱなし。フランス軍が出てきたときには、それだけで爆笑。
いえね、監督の他の作品を見ていませんし、細かなパロディには気づいてなかったりするのでしょうけれども、コンセプトそのものが、見事なパロディなんですよね。
グリム兄弟の採話が、実のところ、ドイツ人の土俗のものではなく、フランスからドイツに亡命した新教徒の子孫のもので、シャルル・ペローの影響が強かったということは、けっこう知られていると思うのですが、そのグリム童話が、ナポレオンのドイツ侵攻を直接的なきっかけとして生まれた、近代的な国民国家ドイツの国民文学となってしまったという現実自体が、非常に皮肉です。

土俗的な物語というのは、そもそもが幻影です。土俗が近代に接したとき、攘夷感情が物語を育みます。しかしその物語は、結局のところ、国民国家を成り立たせる民族の物語として、近代に取り込まれるのです。
しかし、それでもなお、あったかもしれない土俗は、反近代の夢を見させてくれますし、だったかもしれないね、という思いは、押しつけられた近代の息苦しさに、風穴をあけてくれます。

えーとね、だから必然的にグリム兄弟は詐欺師だったんですけど、詐欺はいつしか、真実となったのかもしれない、のですよね。それが、物語というものでしょう。

と、理屈を並べましたが、けっして理屈っぽい映画ではありません。映像は美しいですし、コミカルですから陰惨ではありませんし、それでいて、ほどほどなリアリティもあります。
ギリアム監督は、もっとリアルに、当時はろくに歯医者もなかったのだから、登場人物の歯をきたなくしたりしたかったそうなのですが、そこまでしてくれなくていいです。歯がきたないのは、パゾリーニの映像でこりました。ハリウッド流でけっこう。
そして、モニカ・ベルッチの美しさには、声もありませんでした。この人が美しくなければ、物語の側の真実に、リアリティをもたせることはできなかったところです。
これはもう、絶対に、DVDを買ってしまいますね。

ブログめぐりをしていて、気づかせていただきました。モニカ・ベルッチ演じる鏡の女王の衣装、たしかに、ギュスターブ・モローの影響を受けてますね。いわれてみれば『一角獣』の左側の女性の衣装、そっくり。

ところで、最近続けて映画館に足を運んだせいで、『プライドと偏見』が映画化されていて、近々公開されることを知りました。ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』です。
ヒロインは、キーラ・ナイトレイ! 『パイレーツ・オブ・カリビアン』の男前なねーちゃんです。うーん、どーなんでしょ。現代的すぎません?
それより心配なのはダーシー卿。
いえ、BBC版の『高慢と偏見』をDVDで持っているんですが、コリン・ファース演じるダーシー卿には、イギリスの多くのご婦人方と同じく、目を見張りました。えー、ダーシ卿って、こんなに魅力的だったっけ? と思ったほど。ついに『ブリジット・ジョーンズの日記』で、本人のコリン・ファースがパロディを演じたほどのはまり役、かなう役者さんがいるんですかしらん。
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三島由紀夫の恋文

2005年12月09日 | 読書感想
昨日、映画『春の雪』の感想を書いていて、ちょっと考え込んでしまったことがあります。
『豊饒の海』は、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の4巻からなる輪廻転生の物語なのですが、なぜ、『奔馬』以降、情感がない、といいますか、潤いのない物語になってしまうか、ということです。
一つには、視点の問題があるんでしょうね。
『春の雪』の主人公は、松枝侯爵家の一人息子、松枝清顕ですが、その友人として登場する本多繁邦が、二巻以降、清顕の生まれ変わりを追い、かかわっていく構成です。
一巻一人づつ、清顕の生まれ変わりの人物に共通するのは、「美しく若死にする」ということで、一巻では脇役でしかなかった本多が、二巻以降は主人公だともいえて、読者の視点は、必然的に本多の視点に重なるんです。
となると、本多は理論の人ですから、読者もまた、分析的な視点を共有せざるをえない。分析だけで、情念のない物語は、成立しないでしょう。
二巻以降、描かれる本多の情念は、「清顕の生まれ変わりを追う」という一点だけです。人様の人生を追う分析好きの傍観者の立場が、読者の立場となってしまいます。結果、読者は、物語からの疎外感を、本多とともに味わうわけです。
『暁の寺』の月光姫(ジン・ジャン)は女ですし、『天人五衰』の安永透にいたっては本物の生まれ変わりではなさそうな設定ですから、本多に視点が固定されていても、不自然ではないかもしれません。
問題は、二巻の『奔馬』です。

『豊饒の海』は、三島由紀夫の遺言ともいえる作品で、自衛隊の東部方面総監部に乱入し、自衛隊の決起を促す檄文をまき、割腹自殺をしたその日の朝に、『天人五衰』の最終章を、編集者に手渡したといわれます。
『豊饒の海』を執筆しつつ、現実に三島由紀夫がくりひろげていた行動の理想像として描かれているのが、二巻『奔馬』で本多がめぐり合う清顕の生まれ変わり、飯沼勲なんです。
この『奔馬』の主人公は、当然、飯沼勲であるはずです。しかし、すでにこの時点で、読者は飯沼勲に感情移入しきれず、本多の視点に立ってしまうのです。
なぜ三島由紀夫の分身であっただろう飯沼勲の情念が、読者を引きずり込むことができないのか。
ここらあたりは、野口武彦氏が見事に分析なさっていたはず、と思って、本棚をさがしてみたら、ありました。

野口武彦著『三島由紀夫と北一輝』(1992年福村出版発行)

この中の一編、「日本の超国家主義における美学と政治学」の中で、野口氏は、以下のように述べておられます。

この主人公を作中で活躍させるにあたって、作者三島由紀夫が用いた小説技法にはいささか疑問の余地がある。あらゆる作家は、自作の主人公を自己の分身として、多かれ少なかれ、自己自身の情熱を投入しながら描きあげてゆく。これは小説という、ジャンルにおいて不可避である。一方また、その主人公に対する作者の思い入れが強ければ強いほど、つまり、作中の自己の分身への愛着が作者の自己愛と見分けがつかなくなればなるほど、そこには読者の側からの心理的離反感情が生じてくるのは当然であり、作者はそのリスクを乗り切るために、必要な技法上の処置をほどこさなければならない。作者は読者を説得しなければならない。生前の三島がつねづねパラフレーズしていたように、三島にとっては、「現実感」とは、読者に対する説得力以外の何ものでもなかった。
『奔馬』の小説作品としての成功の度合いは、極端にいうなら、読者の何パーセントが右翼テロリズム、すなわち暗殺を支持し、是認し、肯定するかによって測定されるといってよい。あたかもゲーテが『ヴェルテル』を書いた後いかに黄色いチョッキを着てピストル自殺する青年たちが排出しようとも、作者は超然として八十歳以上も長生きしたように、三島はなにも、勲に殉じて割腹自殺してまでも自己の虚構の分身の「現実感」を証明して見せる必要はなかったのである。そのことは逆に、三島がそれだけ、作中の勲の行動について読者を説得することに或る種の焦りを感じていたのではないかという疑惑にわれわれをみちびく。

そうなんです。読者は説得されませんし、それを誰よりもよく知っていたのは、三島自身だったでしょう。
続けて野口氏は、五・一五事件の被告が、法廷で農村の飢餓と惨状を、クーデター参加の動機として切々と訴え、世論を動かしたことに触れ、三島が、こういったクールに計算された法廷闘争を好まず、また、現実に当時、テロに走った青年たちにとって、農村の悲惨は他人事ではなかったにもかかわらず、それをテロの動機として小説に取り入れることは、三島にとって「アジ・プロ小説風に低俗な扇動性に見えたらしい」と言います。
野口氏のおっしゃる通り、勲は、あくまで都会青年であり、テロの動機は「観念的な性質のもの」であり、「観念である以前に忠誠心情の問題」なのでしょう。
なにに対する忠誠心情かということを、野口氏は、三島由起夫が二・二六事件から、北一輝の影を極力遠ざけて見ようとしていたことから分析し、「文化的天皇の理想像」とされています。
つまり勲の行為は、自己完結の美学であって、まったく政治的な意味を持たず、社会にかかわりもせず、かかわりもしないことを、理想としているのです。
説得力のもちようがないではありませんか。

『奔馬』では、勲のめざすテロの理想として、明治9年に熊本で起こった神風連の乱をあげ、延々と詳細を記述しています。三島は、神風連を取材して、その土俗性に共感した、という話もあるんですが、少なくとも『奔馬』の勲の行為に、土俗性はまったくありません。
神風連の攘夷感情は、まさに土に根ざしています。土を耕し、鎮守の神に豊作を祈って、ごく平凡に暮らす者にとって、外部から強制されて、慣れ親しんだ風俗習慣を捨てるのは、いやであってあたりまえです。そういった農民のごく自然な攘夷感情の突出した形として、神風連はあったのであり、明治新政府のやり口への痛烈な抗議であることは意識されていましたし、鹿児島への誘い水になる可能性でさえも、計算されていました。農民一揆が頻発していた当時の状況からするならば、政治的であり、扇動性もそなえていたのです。

社会性のない恋の物語は、十分成り立ち得ますし、自己完結の美学であっても、真摯でありさえすれば、説得力は生まれます。しかし、社会性のないテロの物語が、説得力を持ちうるでしょうか?
結局のところ、これも野口氏が分析なさっていることですが、勲の物語があきらかに説得力を持たなかったことは、『天人五衰』の安永透の描き方に影響したのでしょう。清顕と勲が、三島の分身であったとするならば、本多もまた分身であり、安永透は、その本多の純粋型として描かれているからです。
しかし、あるいはだからこそ、『豊饒の海』は最後の最後で再び、『春の海』がさししめしていた三島の恋心を、……なにへの恋かといえば、「みやびのまねび」である「文化概念としての天皇」への恋心を、高みに押し上げたのではないのでしょうか。

それにしても野口氏は、いつも、周到な解説でうならせてくださったあげくに、あまりにも唐突に、それを現在の問題とつなげた、納得のいかない一言を残してくださいます。『幕府歩兵隊』の靖国がそうでしたけれども、今回はこれです。

三島由紀夫の十年前の血みどろの死を、故人の遺志どおりに、何ごとか悲劇的なものに向かって高めつづけるためにも、われわれは断固として、この文学者とおよそ政治的なるものとの回路を断ち切っておかなくてはならない。

なるほど、作中の勲の置かれた時代状況で、自己完結的な美学をつらぬかれても、そこにはなんの説得力も生まれてはきませんでした。しかし、文学者である三島由起夫が、戦後のあの状況の中で、美学を貫いて「文化概念としての天皇」への恋に殉じた現実の行為は、すでにその行為自体が現状への衝撃的な抗議であり、社会性を持ち、政治的なのです。
果たして三島が、その行為の政治性を意識していなかったといえるでしょうか?
もちろんそれは、直接クーデターにつながるような政治性ではありません。しかし、三島が生きた戦後日本の社会で、クーデターがどれほどの政治的リアリティを持ち得たでしょう。
回路は、断ち切ろうにも断ち切れるものでは、ないように思われるのです。

つまり、三島由紀夫がめざした行為の理想像は、テロではなく恋なのですから、その三島がテロの物語に自己投影したところで、その物語は説得力はもちません。しかし、現実に彼が成した行為は、時代の文脈の中で、十二分に説得力を持ち得たのです。

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『春の雪』の歴史意識
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『春の雪』の歴史意識

2005年12月08日 | 映画感想
春の雪公式サイト

昨日、見に行ってきました。
当初、行くつもりはなかったんです。原作小説『春の雪』には思い入れが強すぎますし、どうやってもうまく映画化できるはずがない、と思ってましたので。
『春の雪』は、あくまでも『豊饒の海』の中の一巻、なんですよね。とはいうものの、昔、どなたか文学評論家の方が似たようなことをおっしゃってましたが、『春の雪』で情感豊かに流れていた小説の時間が、2巻『奔馬』、3巻『暁の寺』ではとまり、4巻目の『天人五衰』では、もうなんといいますか、枯れてしまうんですよね。
 にもかかわらず、『天人五衰』の最後で、再び、あの『春の雪』の時間が流れて、感動させられてしまう。つまり、です。最後の感動を味わうためには、もどかしくも味気ない膨大な時間を活字で追う、という苦行が、必要になってくるわけです。
いえ、もしかすると、最後の感動は、中途が味気ないから、あるのかもしれないのです。
これを、どうやったら映画にできると?
いえね、映画と小説がちがうことくらいは知っています。映画はむしろ、上手く原作離れをした方がいいんです。
原作に入れ込んでいたにもかかわらず、映画は映画としていいと思った成功例を上げるならば、『ベニスに死す』と『ロード・オブ・ザ・リング』が双璧でしょうか。

結局『春の雪』を見に行く気になったのは、ひとつには、週刊新潮のコラムで「脇役がいい」と書いてあったからで、大楠さんの蓼科はちょっと見てみたいかも、と思ったりしまして。
いや、大楠さんもよかったのですが、出演していることさえ知らなかった石橋蓮司を、思わぬ場面で見まして、あまりの存在感に感動しました。

で、全体としてどうだったか、といいますと、よかったですよ、けっこう。ともかく映像がきれいでしたし、主役の二人も、けっしてぶちこわしにはしていません。
こうでもするしかないかな、みたいな、あきらめが先だったこともあります。
ただね、思ったよりもよかっただけに、欲が出てきた部分も多々あって、書かないではいられない気分です。
下は、あんまりにも、私が思ったと同じことを言っておられるので、つい、リンクさせていただきました。西村氏って、これまで政治的なご発言しか存じませんでしたが、感覚の鋭い方ですね。

酔夢ing voice 西村幸祐 没後35周年の憂国忌

上映中の「春の雪」を大部前に試写で観たが、小説の冒頭と結末の重要なシーンが脚本にないことが残念だった。それは、冒頭の日露戦争の写真を清顕が眺めるシーンと、月修寺を失意の清顕が訪ねたときに、門跡と清顕が話していると障子の向こうから聞こえる聡子の泣き声がカットされていたことだ。

この前半、日露戦争の写真が出てこない、という点です。
これは、映画がうすっぺらくなっている大きな要因です。
小説は、日露戦争の写真の描写と、提灯行列の思い出を述べることからはじまっていて、これは、近代日本の歩みの中にこの物語を位置づける、重要なシーンです。
幕末維新からの息せき切った日本の近代化は、日露戦争で坂を登りきり、目標を失うんですね。清顕の祖父、初代松枝侯爵は、薩摩系の明治の元勲、つまり下級武士からの成り上がり、幕末の志士という設定ですから、西郷従道あたりをモデルと考えればいいわけです
清顕の叔父二人、つまり維新の志士だった祖父の息子二人は、おそらくは日露戦争で、戦死しています。
近代日本の生々しい苦闘が、明治大帝の崩御で、もはや歴史となって、その上に、松枝清顕の優雅はあります。
そして、維新から日露戦争までの創生期は、物語に通底して、重要な場面で顔をのぞかせるのです。
例えば、松枝侯爵邸の卓球室で、父侯爵が、聡子を妊娠させた清顕に激昂するシーン。その部屋には、祖父侯爵の肖像画と、日本海海戦の大きな絵が飾ってあります。夫とともに幕末の動乱をくぐった祖母は、「宮様の許嫁を孕ましたとは天晴れだね」と、喜ぶのですが、それは、「今は忘れられた動乱の時代、下獄や死刑を誰も怖れず、生活のすぐかたはらに死と牢獄の匂ひが寄せていたあの時代」を、一見軟弱な孫が、眼前に蘇らせてくれたからです。
このシーン、映画では、岸田今日子演じる祖母の台詞から、後半の「それだけのことをしたのだから、牢へ入っても本望だろう。まさか死刑にはなりますまいよ」という部分を省き、卓球室の二枚の絵も、たしか、なかったと思います。あったにしても、はっきりと映し出しては、いませんでした。
岸田今日子は名演でしたが、その台詞が意味する喜びを、なんら映像で説明してくれないものですから、小説を読んでいなければ、平板な昔気質に見えかねません。
つまり、冒頭、日露戦争の写真のシーンを削るということは、歴史の厚みを無視して、単なる懐古趣味で大正風俗を見せてしまう、ということなんですね。

西村氏のおっしゃる後半、聡子の泣き声については、勘違いなさっているのではないかと思うのですが、原作でも、それを聞くのは清顕ではなく本多ですし、本多が聞くシーンは、ちゃんと入っていました。
たたあれは、小説があまりにも名文で、小説から受ける感慨を映画が再現してくれているかというと、できていません。
しかし、あれを映像で表現するのは、至難の技でしょう。

もう一つ、これはやめて欲しかった、という変更があります。
小説で、禁忌の恋の憧憬を表象するのは、清顕が少年のころ、宮妃のお裾持ちをしたときの描写です。
儀式のときの皇族女性の大礼服は、ティアラーにマント・ド・クールだったんですが、裾を引く長いマントを、美しい華族の少年がささげ持つ慣例がありました。清顕も選ばれて宮妃殿下の裾を持ち、そのときに軽くつまずくんですが、美しい宮妃は、「許す」というようなかすかな笑みを、清顕に贈られるんですね。華麗な宮廷儀礼のその一こまは、清顕の父侯爵にとって……、つまり世俗の目で見るならば、「宮廷と新華族とのまったき親交のかたち」であり、「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」だったのですが、清顕にとっては、おそらく、恍惚とする滅びへの誘惑、であったのです。
このモチーフは、清顕の聡子への恋において、底流となるのですが、映画はまったく描くことなく、代わりに、聡子を女雛としたお雛様の幻をもってきているんです。
これは、あんまりな通俗絵解きで、「ちょっと待って」とため息がでました。

皇族女性の礼服が、お雛様のような袿袴姿から洋装に変わったのは、明治19年、鹿鳴館の舞踏会が華やかなりしころです。これを推進したのは、長州の志士だった伊藤博文と井上聞多の元勲コンビ。二人とも、幕末には火付け暗殺にかかわり、聞多などは刺客に襲われて一命をとりとめ、全身に刀傷が残っていました。
明治の時代に、「宮廷と新華族とのまったき親交のかたち」として、「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」として、伝統の宮廷衣装は、マント・ド・クール、ロープ・デコルテ、ロープ・モンタントといった洋装に、とってかわられたのです。
つまり、下級武士に担がれた天皇家は、公卿の長であった伝統を捨てて、近代日本にふさわしく、西洋的な皇室となったのであり、三代目の清顕にとっては、それはもう、自明の現実なのです。
お雛様ではなく、西洋の姫君の外見の奥に、清顕が、王朝文化の優雅の本質を見ようとしていることを、無視するべきではないでしょう。
問題は、それでも残る日本的なるもの、なんじゃないんでしょうか。
あるいはそれは、自己を消滅させなければ見出しえないものだと、三島由紀夫は、認識していたのかもしれませんが。

ひとつ、映画に教えられたことがあります。
読みようによってはこの四部作、本多の清顕への生涯をかけた恋の物語なんですね。
こちらの方のこのお言葉にも同感なので、リンクさせていただきました。

'春の雪' from おかぼれもん。.

そうそう、この本多は、原作の本多と飯沼をミックスさせたのかな?
そう思うと、友情を超えるか超えないかのぎりぎりのラインのシーンは、
(雪の降るなか、寺の前で倒れた清様を本多が抱き起こすシーンです)
なにげに、三島の姿を投影しつつ鑑賞してしまい、ぐっときました。

ぐっときつつ、やはり映画は、ちょっと安易に輪廻転生をあつかいすぎている、という印象もぬぐえませんでした。清顕が本多に残す最後のセリフ、「又、合うぜ。きっと合う。瀧の下で」が、どうしても浮いてしまうんですよね。
蝶を飛ばして、ごまかされてもねえ。つーか、蝶でごまかすのならば、冒頭と最後に、年老いた本多をもってきてもよかったですね。『オペラ座の怪人』のように、そちらの方はモノクロで。
ああ、そうなんです。徹底して作り物の世界にしてしまうならば、『オペラ座の怪人』の乗りが欲しかった。

ともかく、久しぶりに、原作を読み返してみましたが、いつ読んでも美しい文章です。
くらべるのもおこがましいのですが、これを読んでいると、文章を書くのがいやになったり。


最後に、帝国劇場のシーン、「この階段、どこかで見たような」と思ったら、なんと、上野の国立博物館でした。高松城の中のお屋敷とか栗林公園とか、見たことのある場所でけっこう撮影していて、附録目当てにDVDを買ってしまいそうな予感がします。

トラックバックをいただいて、タイの王子たちについて、書き忘れたことに気づきました。
大仏のシーンはほんとうにきれいでしたけれども、王子たちの背景にあるものを、もう少し映像で語ってくれてもよかったのでは、という物足りなさがありました。
絢爛豪華なタイの寺院の映像とか、小説の描写がすばらしいだけに、入れてもらいたかったところです。

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喜歌劇が結ぶ東西

2005年12月07日 | 日仏関係
昨日はヴェルディのお話でしたが、第二帝政期のパリで、もっとも流行った歌劇は、実のところ、ジャック・オッフェンバックのオペレッタ、喜歌劇です。
一番有名なのは、『天国と地獄』で知られる『地獄のオルフェ』でしょうか。

天国と地獄

オッフェンバックのオペレッタというのは、風刺がきいていまして、皮肉なんですけれども、だれをあてこすっているのかしかとはわからない、巧妙な皮肉だったんだそうです。さらにいえば、従来の上品なオペラからするならば、猥雑でもありました。ここらあたり、幕末の歌舞伎にとても似ていると思ったりします。

で、慶応3年(1867)万国博覧会のパリで、訪れた各国の王族が争うように見たのも、オペラ座のヴェルディではなく、ヴァリェテ座のオッフェンバックでした。『ジェロルスタン女大公殿下』です。後に浅草オペラになりまして、日本では『ブン大将』として知られています。

喜歌劇 「ジェロルスタン女大公殿下」

ヒロインのジェロルスタン女大公は、ロシアのエカテリーナ女帝をモデルにしたようではあるんですが、皮肉られているのは、上演当時の欧州各国の王侯貴族です。しかし、皮肉られているはずの当の王族たちが、争うように見物しました。
といいますのも、ヒロインを演じるオルタンス・シュネデールが、歌が上手かったかどうかはわかりませんが、非常に魅力的であったから、のようです。
イギリスのプリンス・オブ・ウェールズ(エドワーード王太子)、ロシアのアレクサンドル二世と二人の皇子、エジプト副王イスマイル・パシャ、などなど、みんなオルタンスに夢中になり、オルタンスは、王侯の通過儀礼と言われたんだそうです。

昨日もちょっと触れたエミール・ゾラの『ナナ』なんですが、お話はちょうど、1867 年万博のパリにはじまり、普仏戦争開戦のパリで終わります。主人公は、歌は下手だけれども性的な魅力にあふれた若い女優のナナです。

名画デスクトップ壁紙美術館 マネ《ナナ》

ナナは、女優であると同時に、クルチザンヌ、ドゥミモンデーヌともいいますが、いわゆる高級娼婦です。

第二帝政時代 の高級娼婦

エミール・ゾラは、ナナのモデルとして、いく人ものクルチザンヌの話を取材し、複合したようなんですが、女優としてのナナのモデルは、あきらかにオルタンス・シュネデールで、万博のパリを訪れたプリンス・オブ・ウェールズが、ナナに夢中になり、楽屋を訪れるシーンがあるんですね。ナナの出演する劇も、ギリシャ・ローマ神話の神々を俗世間におろして茶化したような筋立てで、オッフェンバックの『地獄のオルフェ』などを意識したものでしょう。
この時代のパリを見るのに、『ナナ』はとても参考になります。
上品な貴婦人方の話題は、ナナの演じるオペレッタを裂け、イタリア座のイタリア語で演じられる品のいいオペラだったりするんですが、その夫や息子はナナに入れ上げ、品がいいはずの貴婦人も、若い愛人をこしらえて遊んでいたり。
こんなパリに、水戸烈公の子息である徳川民部公子がいて、公子のお付きには、水戸の攘夷武士がいるんですから、おもしろいですね。
公子もどうやら、『ジェロルスタン女大公殿下』を、ご覧になられたようです。

民部公子は、元治元年、わずか11歳で京都へ出て、禁裏守護の水戸藩士の将となります。兄が将軍となり、パリ万博に使節団を出すことになって、年若い弟の起用を思いつくんですね。
薩長連合が結ばれ、孝明天皇が崩御され、政局がゆれ動く動乱の京都から、突然、パリの社交界です。
しかし、若いということはすごいことで、ほどなく公子は慣れて、楽しまれたんですね。

これも昨日名を出した後の駐英大使、林董ですが、彼が万博のパリを訪れたのは17歳のときで、公子よりは二つ年上ですが、若いんです。
彼の実兄に、松本順がいます。司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』の主要登場人物です。オランダ軍医のポンペに学んだ蘭方医ですが、京都時代から新撰組と交流があり、土方のことも語り残しております。
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帝政パリの『ドン・カルロス』

2005年12月06日 | 日仏関係
スエズ運河開通祝賀にオペラが注文されたなら、その2年前、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会で、オペラが注文されないはずはありません。以前に、『オペラ座の怪人』の感想で記したと思うのですが、帝政最後のこの博覧会には、世界の王族が集い、舞踏会やら競馬やらオペラやら、華やかな社交がくりひろげられたのですから。
もちろん、その王族の中には、最後の将軍・徳川慶喜の弟、徳川民部公子もいます。

これも以前に記したように、このとき、オペラ・ガルニエはまだ完成していません。このときのオペラ座は、1821年に仮に作られ、サル・ル・ペルティと呼ばれていた劇場です。
劇場内部の雰囲気は、オペラ・ガルニエに似て、大円天井に天井画が描かれ、巨大なシャンデリアが下がっているという豪華なものだったそうです。といいますか、この様式を、オペラ・ガルニエが引き継いだんですね。
このとき、パリオペラ座の注文に応えて、ヴェルディが作ったオペラが、『ドン・カルロス』です。パリオペラ座の注文ですから、フランス語ですし、バレー入りです。
 オペラにバレーが入るのは、現在の感覚からすれば変な気がするのですが、19世紀前半、王政復古のフランスでは、バレー入りの華やかなグランド・オペラが全盛でした。それがかなり長く、パリオペラ座では続くんですね。
 ヴェルディなども、パリで上演する場合は、バレーを入れるわけです。なんでも、オペラ座の踊り子を贔屓するパリの紳士方が、バレーなしでは承知しなかったからなんだそうですが。
『オペラ座の怪人』でも、プリマドンナが、バレーの場面が多いと文句をいったりしていますよね。
最近、この初演に近い形の『ドン・カルロス』がパリで上演され、それがDVDになったと知って、買ってみました。
フランス語ですが、残念ながらバレーは入っていません。それと衣装や背景が、現代的すぎるというんでしょうか、初演では絢爛豪華だったはずなんですが、地味で、ちょっと初演の雰囲気を味わうというわけには、いきませんでした。

オペラ「ドン・カルロス」

粗筋を書く気力がないので、リンクさせていただきました。
原作となったのはシラーの劇で、舞台は日本でいえば太閤秀吉のころです。
主人公、ドン・カルロスの祖父は、ハプスブルグ家のカール五世なんですが、カール五世の母親はスペイン王女で、ハプスブルク家の元々の領地に加えてネーデルランド、フランドル、スペインの領土すべてを相続し、神聖ローマ皇帝になったというお方です。
これに敵対したのがフランスのヴァロア家の王で、神聖ローマ皇帝に名乗りをあげ、猛烈な選挙運動をくりひろげたりもしたわけです。
結局、カール五世は、ハプスブルク家の元々の領土と神聖ローマ皇帝の名乗りは、弟に譲り、息子のフィリッペ2世、つまりドン・カルロスの父親には、スペイン王の地位を譲ります。

で、オペラ上演当時、19世紀の欧州なんですが、ハプスブルク家は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇統として存続している一方、スペイン・ハプスブルク家の方の血統は絶え、フランスのブルボン王家がスペインに入って久しかったんですね。

この『ドン・カルロス』、パリ初演の評判は悪かったそうなのです。長すぎたのと地味だったのが原因、ということなんですが、スペイン貴族出身のウージェニー皇后は、腹を立てて途中で席を立った、というような話もあるようです。
予言的、といっては言い過ぎかもしれませんが、この三年の後、帝政崩壊のきっかけとなった普仏戦争は、スペイン王位継承問題が直接の原因となって、起こるんですね。

スペイン王国2 普仏戦争の原因

スペインへの思い入れが深い皇后が、積極的に口を出しただけに、敗戦後のフランスでは、開戦の責任を元皇后に求めるようなむきもあったようなのですが、それはどうでしょうか。エミール・ゾラの『ナナ』に描写されていますが、パリ市民は熱狂的に開戦を支持したのですし、ねえ。
イギリスに亡命して余生を送ったウージェニー皇后は、華やかに君臨した万博のパリで、遠国から来訪した年若い徳川民部公子に接したことを終生忘れず、その晩年まで日本に好意を抱いていたと、やはりこのとき幕府の在英留学生としてパリを訪れていた林董が、語り残しています。
林董は、榎本武揚の親戚で、帰国後函館戦争に参加しますが、後に許されて新政府に出仕し、イギリス大使を長年務め、日英同盟の立て役者となった人です。

最後に、『ドン・カルロス』の感想なんですが、驚いたのは、ドン・カルロスとロドリーグ、男性二人のデユエットです。なんなんだ? これは。情感こもりすぎです。
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歌劇『アイーダ』と皇后

2005年12月05日 | 日仏関係
先日、プラハ国立歌劇団の『アイーダ』を見てきました。
実は、原語の生のオペラを見るのは初めてです。子どもの頃、日本語のオペラは見たことがあるんですけどね。『マダム・バタフライ』でした。
いえ、ちょうど、幕末物語に絡む時期のオペラですし、少しでも、当時のオペラ見物の雰囲気がわかるかな、と。会場は地方の文化会館ですし、わかるわけはないんですけれども、一応、ロングの黒手袋に毛皮のストール、真珠の三点セットで決めてみました。ああ、毛皮のストールはネットオークションで、そこいらのコートよりはるかに安い値段で手に入れた中古品です。

プラハといえば、オーストリア・ハンガリー帝国の弟二の都。パンフレットによれば、国立歌劇場は、1887年、ドイツ人が創設したそうですから、ハプスブルク朝貴族の社交場ですわね。クーデンホーフ伯爵はオペラ好きだったそうですから、妻となった光子さんも、出かけたはずですね。たしか、プラハに親族を訪ねた記録はありますから。
しかし、こんな地方都市にまでプラハから歌劇団が来るなんて、幕末明治は遠いですねえ。
会場はともかく、小規模ながらきっちりバレーも入れた演出で、公演そのものには満足しました。

アイーダよもやま話

凱旋行進曲が聴けるので、上のサイトをリンクさせてもらいました。
ここにあるように、『アイーダ』は、スエズ運河開通を祝うオペラとして、エジプトからの注文で、ヴェルディが作ったものですが、付け加えるならば、スエズ運河は、ナポレオン三世、第二帝政フランスの国策事業だったんです。
先頭に立ってこの事業に取り組んだフランスの元外交官フェルナンド ・ド・レセップスは、ウージェニー皇后の親戚です。
開通の祝賀には、ウージェニー皇后が出席しましたが、これにあわせて注文していた『アイーダ』は、結局間に合わなかったのです。

スエズ運河の完成と買収

スエズ運河の完成は1869、明治2年。その翌年には普仏戦争が起こってフランス帝政は瓦解します。『アイーダ』が完成したとき、ウージェニー皇后はイギリスへ亡命の身でした。
いえね、あの勇ましい凱旋行進曲は、世紀の運河開通祝賀にいかにもふさわしいんですが、悲劇的でしめっぽい結末は、祝賀オペラというよりも、栄華を誇ったフランス第二帝政への挽歌、に見えたり、してしまうんですよね。
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ヤッパンマルスと鹿鳴館

2005年12月04日 | 明治音楽
二本松少年隊でぐぐっていたら、詳しいページを見つけました。

幕末とうほく余話

東北の地方出版社のページみたいですね。
いえ、二本松少年隊のことだけではなく、幕末の軍楽について詳しく述べられていて、感激です。注目は、以下の部分。

『日本音楽の歴史』(吉川英史、創元社)に、「天保年間(1830~43)、長崎の高島秋帆はオランダ式鼓笛隊を作りあげた。彼はオランダ式兵学を学んで歩兵の調練を行ったので、それに伴う鼓笛隊が必要になったのである。これ以来、諸藩に新しい兵学や軍楽が行われるようになった」と書いてあった。
 高島秋帆は、長崎の町年寄で、独学で西洋流の砲術を研究し、「高島流砲術」を創始した人だ。幕府に洋式兵制の採用を建言し、天保十二年には、現在の東京都板橋区高島平の原野で、洋式大砲の実射を披露した。ちょうど中国ではアヘン戦争が起きていて、幕府も西洋の軍事力に注目し始めたころだ。
 しかし、これで鼓笛隊が広まったというのは、ちょっと時期が早いと思う。幕府はもちろん、諸藩もまだ、全面的な兵制改革の必要性を認識してはいない時期だからだ。やはりそれは、幕末のことだろう。

 たしかに、実際に鼓笛隊がひろまったのは幕末なのでしょうけれども、西洋軍隊の優秀性と、それを取り入れるには西洋音楽の導入が必要だ、という認識は、識者の間で、かなり早くからひろまっていたようなのです。
 例えば、長州の来原良蔵。たしか桂小五郎の親戚筋で、吉田松陰にも信頼された人ですが、文久二年に切腹して果てています。その彼が、若い頃から、首から太鼓を下げ、鼓手のまねをして歩いていたというのです。万延元年には、長州西洋銃陣の改革に努めています。
また、佐賀の江藤新平が幕末に藩庁へ出した建白書に、「西洋音楽を取り入れる」といった項目がありまして、読んだ当初は、なぜに音楽? と疑問を持ったのですが、西洋軍制を導入するにあたっては、西洋音楽が欠かせなかったんですね。
先日読んだ野口武彦氏『幕末伝説』の中にも、「赤房のラッパ」という一編があり、幕末歩兵隊の喇叭手に、スポットがあてられていました。『幕府歩兵隊』の方には詳しく、上記のサイトにある「日本人は行進ができなかった」という話も、出てきました。
以前になにかで読んだのですが、五稜郭に集まった旧幕軍の行進を、加勢したフランス軍人だったか、函館在住の外国人だったかが見て、「行進がまったくできていない」というような書き残しもあります。

以前、自分のBBSで、軍楽について情報を求めたことがあるんですが、そのとき解明したかった疑問は、なぜ日本の音楽は、流行り歌までが西洋音階、リズムになってしまったか、ということでして、中近東やインドなどでは、ごく最近まで、流行り歌は民族音楽だったんですね。
もちろん、明治新政府が、西洋音楽の普及をはかり、小学校から教育したからなんですが、それはなぜなのか、といえば、近代軍隊の歩兵に必要なリズム感を、国民一般につけさせるためでしょう。
ではなぜ、中近東やインドでは、その必要がなかったのか? と考えて、西洋軍楽の歴史に興味を持ったんです。
で、知ったのですが、もともとの西洋軍楽は、喇叭が中心で、太鼓は使っていなかったんです。西洋軍楽が太鼓を取り入れたのは、オスマン・トルコの軍楽の影響でした。
トルコ軍楽は、どうやら世界遺産になったようですね。無料で聞けるトルコ語のサイトを見つけていたんですが、ちょっと出てきません。
ともかく、影響を与えた方なのだから、性急に取り入れる必要はなかったのだろう、という結論です。
西洋音楽が、軍隊と密接に関係して発展を遂げたのならば、西洋舞踏だとて、そうです。下は、以前に映画『山猫』の感想で、紹介したサイトなんですが、きっちり解説してくれていました。

武闘と舞踏の関係

日本の舞踊にも剣舞もあれば黒田節もあるが、舞踊でいつも軍事訓練をしていたわけでなないし、踊りのお師匠さんが剣術の指南をする必要もなかったし、道場で舞踊を教えたのでもながった。
しかし、ヨーロッパの貴族社会、例えばフランスでは、バロック舞踏の教師が剣術と乗馬を教えていたのである。
図1はその道場である。バロック舞踏の動作はフェンシングや乗馬と共通したものがあるという指描も的外れではないのである。
貴族、騎士階級に限らないで、兵卒達の動きを見ても舞踏との関わりは深い。西欧の音楽にしろ舞踏にしろ、その西欧的特徴というものについて輿味を抱く人は少なくないと思われるが、歩兵の戦聞法を見てみると、まさに音楽と舞踏で西欧的と感じられた特徴がそのまま軍事技術とも関連し合っているのがよくわがる。
(中略)
集団の統一のとれた運動と団結力を期するには、歩調を揃えなければならないが、足並みを揃えるリズムを指令するのが太鼓などの打楽器で、旋律を付け士気を盛り上げたのが笛類であった。
軍団の隊長に旗手のほか鼓手と吹手が配されており、この隊長付きめ楽隊が兵士たちを奮い立たせ、整然と死地に赴かせたのである。
《キャプテン・デゴリーの鈷吹きのガイヤルド》という曲はよく知られているが、この笛吹きも、軍団の行進、戦闘、凱旋での勤め他、舞踏会では伴妻を行なったはずである。
ルネサンス舞曲では太殻を用いるが、太鼓そのものも、その使い方も軍事技術として発違したものの平和利用と言えるだろう。

こう見てきますと、幕末の少年太鼓手や喇叭手の孤影に、戯画のような鹿鳴館の舞踏会が、不協和音を放ちながら、重ならないでもないのですね。
最後に、軍楽が聞けるサイトを見つけました。
トルコのジェッディン・デデンもありますし、幕末維新のヤッパンマルスもあります。しばらく、聞き惚れてしまいました。

軍楽等のコーナー
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二本松少年隊と碧血碑

2005年12月03日 | 土方歳三
今日は税務相談に街へ出かけまして、ついでに週刊新潮を買ってきました。野口武彦氏の「幕末バトル・ロワイヤル」が連載されはじめてから、毎週買うようになってしまいました。

昔、幕末にはまっていたころのことです。母が、大学の同級生に会いに二本松へ遊びに行くことになりまして、二本松といえば、二本松少年隊です。
「ねえ、もし二本松少年隊の資料があったら買ってきて。地元の教育委員会なんかが出しているかもしれないし」
と、私は頼み込みました。
いえね、体験談の筆記とか日録とか、地元で小冊子を出している場合がありますし。
そのとき母は、「二本松少年隊ってなに?」と、まったく知らなかったのです。
「まあ、会津の白虎隊みたいなもの」と簡単に説明して送り出したのですが、そのおかげで母は、二本松のお友達に大喜びされたのです。
「遠いところに住んでいるのに、娘さん、よく知っていてくださった!」
というわけです。地元には銅像が建っていて、墓地には花と線香がたえず、いまなお語り継がれる郷土の誇り、だったんですね。
資料はなかったのかどうかわかりませんが、資料のかわりに、地元で出している子供向けの物語を、母はそのお友達からもらってきてくれました。
挿絵が入ったりっぱな本です。でも、おかーさん、資料が欲しかったんだけどお、とつぶやきつつ、読ませていただきました。どこまで実話でどこまでフィクションか、資料を読んでいないので、さっぱりです。ただ、泣かせどころは、この部分でしょう。

志願して、大砲隊にいた12、3歳の少年が、隊長の戦死ののち、四散して、二人になったところで、敵兵に遭遇。傷ついた少年を、無傷だった少年がかばい、勇敢にも敵の隊長に斬りかかっていったところが、隊長は軽くいなして、「お主たち、年端もいかぬ子供の身で、よう戦いなすったのう。丹波どのは立派なご家来をお持ちのことじゃ。しかしお主たちの働きは、もう十分にすんだはずじゃ。さ、早う母上のもとに行かしゃれ」と言って逃がそうとするのですが、その目の前で、流れ弾にあたって、少年は死んでしまいます。

これ、読んだ当時から、なんとなく、この隊長は薩摩みたいだな、という気がしていたのですが、さっきぐぐってみましたら、やはり、この方面にいたのは薩摩兵で、野津道貫が後に、二本松藩の武勇を賞賛して、歌まで詠んでいるようですね。
ともかく、母は友達にお城にある少年隊の銅像やらお墓やらを案内され、もうすっかり「いたいけな子供が、りっぱに母親に挨拶して、戦場に出て……、かわいそうに。滅びの美学よ」と、感激してしまいました。
それはよかったのですが、一方、なにも知らずに「三春の滝桜が見てみたい」という母の希望を、二本松のお友達は、「裏切り者の三春の桜なんか、見なくていい」と、拒絶なさったそうです。
いや、桜まで悪いことはないと思うんですが。
もう、なんといいますか、百年を超える恨みですねえ。どうも二本松では、攻めてきた薩摩よりも、同盟関係にありながら、途中で薩長側についた隣藩、三春への恨みの方が強いようです。

その後、母は病気をしまして、一人旅に不安を覚えるようになり、年に一度くらい、私がつきそって旅行をするようになったのですが、その行き先です。旅行が終わると次の日から、次の旅行の希望を、しつこくくり返します。
先年は、函館でした。函館はいいのですが、「五稜郭よ。滅びの美学を見に行くの」と母は言います。続く言葉が、「誰だっけ? 榎本?」
おかーさん、榎本子爵は滅んでませんってば。
いえね、オタクではない母が言っているのは、土方くらいのものだろうとわかってはいたのですが、あれは滅びの美学なんか? という思いもありまして、「函館戦争で死んだ人はいろいろいるわよ」と意地悪く、肩をすくめてみたり。
滅びの美学というなら、息子二人と共に千代ヶ岡砲台で死んだ、中島三郎助なんかが、一番そういう感じを受けます。彼の場合、桂小五郎の師だったこともありますし、降伏しても、助命されることは確実、だったでしょうし。
まあ、ともかく、誰なのかもわからないまま、滅びの美学、といってしまえる母は、すごいですわ。
もっとすごかったのは、実際に函館に行って、母が一番感激したのが、碧血碑だったことです。
一応、説明はしたのですが、母はなにも知らなかったのです。知らなかったにもかかわらず、この碑に込められた旧幕軍への鎮魂の思いを、感じとったんでしょうね。
帰ってから母は、言いはじめました。
「よかった! 滅びの美学よ。あれはなんの碑だった?」

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彼らのいない靖国でも

2005年12月02日 | 土方歳三

幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社



やっとこれが届きまして、読みました。
野口先生、失礼しました。昨日私が書いた伝習隊とシャスポーのことなど、こちらの方で書いておられましたね。
いえ、当然、ですよね。先日書きましたが、以前にも、『王道と革命の間~日本思想と孟子問題~』と『江戸の兵学思想』で、私が幕末によせていた問題意識に、答えてくださったお方です。
近代軍隊のなんたるかを考えることなく明治維新は語れない、というところへ行き着くのは、必然です。そして、今回もまた、きっちりと資料を読み込んだ上で、私が通説に対して、「ちょっと待って」と思い続けてきたあれこれを、きっちり指摘してくださっていました。脱帽です。
そうなんです。おっしゃる通りです。鳥羽伏見の戦いは、幕府軍の火器が劣っていたから負けたわけではありませんよね。
そして、幕府の軍隊の洋式化が、かならずしも遅れていたわけではないんですよね。取り組みは、長州なぞより、むしろ早かったんです。
野口先生の幕府歩兵隊の綿密な描写の中で、唯一私に補えるものがあるとすれば、禁門の変、蛤御門の戦いにも、幕府歩兵隊は、一橋慶喜の手勢として参加しているはずだ、ということです。
なにで見たかといえば、薩摩藩の資料集です。
禁門の変における薩摩藩は、幕府、会津に見方して、長州を迎え撃っています。とはいうものの、すでに西郷隆盛が復帰していますし、幕府に対する態度は、是々非々とでもいうのでしょうか、敵対する可能性も視野に入っています。それで、味方であるはずの幕府軍や会津軍などの観察報告を、藩庁にあげているんですね。
薩摩藩は、幕府軍の洋式化がどこまで進んでいるか、という点を非常に気にしていたようなんですが、報告は「格好だけで戦いぶりはたいしたことはない」です。
そうなんです。野口先生も、水戸天狗鎮圧に出動した幕府歩兵隊の服装が、半洋式化していたことを述べておられますが、この時点で、幕府歩兵隊が一番洋式化していたんです。
にもかかわらず、なぜ、幕府歩兵隊が活躍できなかったか。いえ、野口先生は、「幕府歩兵隊は皮肉なことに脱走隊となってから生き生きと活躍した」と指摘しておられまして、おっしゃる通りです。
結局幕府は、近代軍隊を有効に使いこなしうる政体変革を、なしえなかったのです。幕府が倒れ、脱走軍となって、無能な上層部から解放された歩兵隊、伝習隊は、古屋佐久左衛門、大鳥圭介、土方歳三といった叩き上げの指揮官に率いられ、ようやく本領を発揮できたのです。
最後の結びの一章で、野口先生は、こうおっしゃいます。

明治の帝国陸軍は幕府歩兵隊ばかりか、けっきょくは長州奇兵隊も薩摩小銃隊もないがしろにする発想で建軍された。徴兵制は、階級分化した農村社会を背景に職業軍人と兵役で駆り出される消耗品的な兵卒の群を作り出した。何か貴重な職人芸のようなものが見捨てられたのである。幕末に生まれた軍隊は、円満には近代軍隊と接続されなかった。

これを読んだときには、思わず涙が出そうになりました。
先生、よくぞおっしゃってくださいました。
昔、桐野について調べていたころ、明治の建軍について、あんまりにも短絡に「徴兵制を否定するのは士族主義で旧弊」とばかりいわれることに、私は大きな疑問を抱いていたんですね。
ただ、あのー、先生、たしかに靖国には、土方も桐野も祀られてはおりませんが、私は、靖国を否定する気には、なれませんです、はい。
徴兵制にも、そして靖国にも、近代国家の秩序構築において、必然性があったわけですし、結果、靖国には、明治以降の庶民の情もからんでいます。
といいますか、長州奇兵隊も薩摩小銃隊も、革命軍だったわけでして、新しい秩序が構築されるにあたっては、犠牲となるしかなかったのではないでしょうか。また脱走幕府歩兵隊は、秩序の外にあったからこそ、自由だったのでしょう。近代軍隊に、変革期の軍隊が持っていたものを求めるのは、無い物ねだりであるように思うのです。
感情の上からは、明治陸軍の建軍者たちを、けっして好きにはなれませんけれども。

最後に、鳥羽伏見の章で述べておられた次のお言葉には、楽しく笑わせていただきました。

永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった。

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