郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

幕末の人気伝奇コミック『白縫譚』

2006年02月11日 | 幕末文化
普通の人々の幕末ベストセラー でご紹介しました『白縫譚(しらぬいものがたり)』。幕末当時の木版本がばら売りされているのを、古書サイトで見つけまして、バラですのでさほど高価ではなく、状態のよさそうなのを選んで、五編購入しました。

三十二編 各上下 柳下亭種員 作 歌川国貞 画 、廣岡屋幸助梓 、2冊 、不明

三十三編 各上下 種員 作 国貞 画  廣岡屋幸助梓 、2冊 、不明

三十五編 各上下 種員 作 国貞 画 、廣岡屋幸助梓 、2冊 、文久2年

五十六編 各上下 柳亭種彦(二世) 作 (歌川)芳幾 画  廣岡屋幸助梓 2冊 、慶應4年

五十七編 各上下 種彦 作 芳幾 画 、廣岡屋幸助梓 、2冊 、慶應4年


普通の人々の幕末ベストセラー に載せました写真が三十二編です。
出版年は不明ですが、ほぼ年に二冊づつの刊行のようで、三十五編が文久2年(1862)と明記されていますので、万延元年(1860)ではないか、と推測されます。桜田門外の変の年でして、手にして、感無量です。

今日の写真は、五十七編。慶応四年、つまり明治元年の戊辰の春です。
春っていわれても、五十六編も同じ年の春になっていますし、正月に続けて出されたものやら、少し間があいているのか、よくはわからないのですが、鳥羽伏見の戦いは終わった後ではないのか、と思えるんです。
出版年がわかるのは、前書きがついているから、でして、この五十七編の前書きは、なんとも意味深です。
と言いつつ、かなり読みやすい木版ではあるのですが、ひらがなのくずしが……、実は私、読めません。くずし字字典と格闘しなければなりませんが、くずし字字典がとっさに見つかりませんで。ちがっていたら、ごめんなさい。
「波うつ則(とき)の逆怒(げきど)当(あた)るは痛く、忠孝も二なし。太平の世の忠臣と富貴の家の孝子とは、よく尽くせども平々しかり然(しこ)うして、最(もっとも)難し」
というような書き出しで、物語の展開の説明に入っていきます。
「波うつ則(とき)の逆怒(げきど)」って、鳥羽伏見の戦いに重ねていっているのではないかと、思えるのです。

本文は、コミックそのようです。カラーなのは表紙だけですが、前書きをのぞく全ページに挿絵があり、その挿絵の余白にびっしりと、細かい文字で、物語が記してあるのです。本文の文字のくずしぐあいは、前書きより強く、私にはろくに読めませんです、はい。

年に二編の刊行って、ずいぶん待たされる感じがするのですが、考えてみましたら、現在でも月刊誌などに連載された漫画のコミックスで、年に二冊しか刊行されないものはありますね。
戊辰の春の江戸で、この冊子を手に取った少女は、どんな気持ちで読んだのでしょうね。


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野口武彦氏の楽しい「ゴシップ史観」

2006年02月10日 | 幕末文化
野口武彦氏の最新刊『大江戸曲者列伝―太平の巻』を読みました。
週刊新潮に連載された『OH! EDO物語』をまとめられたもので、一話一話は短い、歴史のゴシップ、「蔭の声」なんです。
先生ご自身が、「ゴシップ史観」と名付けておられますが、それこそ『今昔物語』のようで、大江戸説話集とでも申し上げたい佳作です。
『坂の上の雲』と脱イデオロギー で書きましたように、司馬遼太郎氏のめざしたものが「近代説話」なのだとすれば、野口武彦氏は、司馬氏の後継者、といえるかもしれないな、と、思いはじめているところ、です。
しかも野口氏の場合、語り口はおもしろいのですが、資料には忠実でおられます。

今回は「太平の巻」で、続いて「幕末の巻」も出されるそうです。
とはいえ、「太平の巻」も江戸後期の題材が多いですし、幕末まで踏み込んでいて、よく知られた話もあるんですが、うそ! と驚くような話もあります。
一番受けましたのは、「奥様と雪隠」です。
江戸も幕末に近いころ、旗本の奥方だった井関隆子。この方の日記が残っているそうなのですが、古典文学の教養が深く、ウンチクを傾けて、文字通りの臭い話、つまりトイレ系の話を、王朝文学の香気につつんで、語っておられるのだとか。

「幕末の巻」が待たれます。


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松浦玲著『新選組』のここが足りない

2006年02月09日 | 土方歳三
あー、すごいお題ですねえ。どうもこの松浦玲先生のご著書には、坂本龍馬の虚像と実像 でご紹介しました『検証・龍馬伝説』もそうだったんですが、最初に大きく頷き、途中で首をかしげるのが宿命のようです。
松浦玲著『新選組』(岩波新書)を読みました。

戦前、新選組といえば近藤勇でした。
明治はともかく、大正、昭和になってきますと、大衆文学における近藤勇のイメージは、けっこうよかったようなのです。一方で、土方歳三は知名度がなく、その写真は、土佐脱藩の志士、土方久元にまちがえられた時期もあったほどです。
それが、まったく逆転してしまったのは、司馬遼太郎氏の『新選組血風録』『燃えよ剣』の大きな影響であったことは、いうまでもありません。
これに関しては、あまり他人のことは言えませんで、ファンとしての私の気分は、土方歳三一人に集中しております。

しかし、「新選組の研究」ということともなれば、近藤勇の方が中心となって当然だとは思います。ところが、現在刊行されています近藤勇書簡は、残されているもののごく一部、なんだそうです。
あらま、存じませんでした。『新選組史料集』(新人物往来社)は持っているんですけど、研究しようと思ったことは、ないですしねえ。
収録されている土方の書簡もそうなのですが、近藤勇の書簡の大多数も、郷里多摩へ出されたものです。
で、松浦先生は、公表されていない近藤勇の書簡が数多いことを嘆かれつつ、それを求めて小島資料館にまで足を運ばれ、近藤勇の書簡を中心に据えて、この『新選組』を書かれています。
近藤、土方の郷里三多摩と、新選組の関係は、以前に、新撰組と自由民権運動 で書きました。
で、松浦氏の『新選組』、最後の締めくくりのお言葉が、以下です。

洋学系の新知識で陪臣が幕臣に取り立てられる道は開けていたが、刀一本で全く無名の浪士から幕臣へというコースは、新選組以外には見当たらない。徳川幕府支持の大枠のなかにいて武士になりたいと願う庶民にとっては輝ける登竜門だった。そういう道が開けたまさにそのときに幕府が倒壊するのは悲運である。
新選組はその悲運の中で輝きを維持しようと務めた。
(中略)
こんな組織は他に無い。滅びる徳川幕府の最後の輝きだった。それを支えたのが武州多摩、多摩はやがて自由民権の一大拠点となる。

って……、近藤さんの書簡に注目されたのなら、やはり出ますよね、多摩の自由民権運動。私の見方と、松浦先生のおっしゃることに、あるいは、あまり大きな差はないかもしれません。
花の都で平仮名ノ説 で書きました、後の実業家・渋沢栄一と、近藤勇の土壌には共通点があるというお話には、大きく頷けますし、渋沢栄一がもともとは水戸の天狗党であったように、近藤勇が攘夷志士でありながら、ごく狭い意味での「攘夷」を脱したというご解説も、もっともに思います。
といいますか、横浜の生糸商人・中居屋重兵衛が、桜田門外の変を援助したように、そもそも「攘夷」感情は、そう簡単に分別できるものではないですし、どの時点で、ナショナリズムに転化するのか、といえば、はっきりと指し示すことのできるものでも、ないでしょう。

新選組ファンには、けっこう有名な話だと思うのですが、上京間もない初期の新選組を、郷里多摩の井上松五郎が訪ね、近藤勇が「天狗」になった、と、日記に書き残しています。これは従来、「近藤が威張りだした」という意味にとられていたのですが、松浦氏は、水戸天狗党の「天狗」と捉えられていて、これは卓見か、と思われます。たしかに、芹沢鴨は水戸天狗党ですし、近藤勇がその仲間になろうとしていて、土方や沖田たちが、それは困る、といっているとすれば、話が通ります。

問題はおそらく、松浦氏が、日本国の国と、幕府の国を、わけておられる点、ではないでしょうか。松浦氏のおっしゃることを、私の言葉で言い直すならば、幕府にしばられた尊皇攘夷はナショナリズムに転化できないが、幕府にしばられない尊皇攘夷が開国になると、ナショナリズムとなって倒幕を考える、そういうことかと思います。
この論理でいくならば、したがって、幕府にしばられた新選組は、ついにナショナリズムに目覚めることはなかった、となりかねないように思えるのです。
次いで松浦氏は、長州の攘夷が失敗に終わった時点で、新選組の幕府にしばられた攘夷思想は行き場を無くし、新選組は思想集団ではなくなった、という文脈で、土方の手紙から、「尽忠報国」という言葉を持ちだし、丁寧に解説しておられます。
しかし、江戸の幕閣と京都の一会桑政権の温度差の中で書かれたこの手紙をもって、「幕府にしばられているから思想集団ではなくなった」というご解説は、いかがなものでしょうか。なくなった、とおっしゃられるなら、そもそも新選組は、どういう思想集団だったのでしょうか。それについての定義、あるいは説明がきっちりなされているわけではなく、なにをもって松浦氏が、「思想集団」という言葉を使われるのか、いま一つ、理解に苦しみます。

長州の攘夷が失敗に終わった時点で、単純攘夷が意味を失った、という点は、松浦氏のおっしゃる通りです。
しかしこれは、大きな意味での「攘夷」の終わりではありません。幕藩体制を改革する必要は、幕府も長州も、ともに痛感したのです。
幕府にしてみれば、一国の外交を担うものとして、長州が勝手にやった無謀な砲撃の責任も、対外的にはとらなければいけません。理不尽なことです。
一方、長州にしてみれば、日本を統治している幕府が、自国領土の長州に、外国艦船の勝手な報復を許すということは、理不尽なことなのです。
結局のところ、一枚岩で諸外国に対するためには、幕藩体制を解消するしかない、ということが、幕閣の一部にも、雄藩の識者にも、実感としてわかった敗戦でした。
そして、それは、統制のとれた強い軍事力を持ったものにしか、なしえないことです。
つまり、志士集団がそれぞれに動いても、あまり意味のない状況になったのです。
幕府か雄藩か、ともかく、どちらの陣営も、その内部変革によって実力を握り、軍事力を蓄えて、状況を切り開く以外に道はなきところにまで、状況が煮詰まった、ともいえます。
そこらへんの長州攘夷戦以降の、対外をも含めた政治状況の分析が、松浦氏の『新選組』は、明確に描かれず、「思想」という言葉が一人歩きをしているようで、いまひとつ、しっくりときませんでした。


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美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子

2006年02月08日 | 前田正名&白山伯
龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???でご紹介しました前田正名。
自叙伝が手に入らないのですが、祖田修著『前田正名』 を読みました。
こちらは、自叙伝がかなり正確に使われている様子です。私の推測もはずれていた部分はあるのですが、司馬遼太郎著『余話として』(文春文庫)の「普仏戦争」とくらべますと、なぜ、同じ自叙伝がここまでちがった紹介のされ方になるのか、不思議になってきます。司馬さんの場合、エッセイも説話なんですね。

まず、龍馬とは、ほとんど関係がありません。
「海援隊と薩摩藩をつなぐ連絡係」というのは、まったくのまちがいじゃないんですが、ユニオン号事件の時に、薩摩から長州への使者の一人となり、ユニオン号には海援隊も関係していますので、出発のとき龍馬に見送られ、激励に刀をもらった、というだけのことのようなんです。

それよりも驚きだったのは、正名の兄の一人は、文久3年暮に、薩摩が幕府から借りた交易汽船・長崎丸の釜焚をしていて、馬閑で長州奇兵隊に砲撃され、死亡していたのです。
それよりわずか一年あまり、薩長同盟の密約の中で第二次征長がはじまり、その戦いの最中に、兄の死んだ馬関の海を渡って長州へ使者におもむいたのですから、数えで17歳の正名の覚悟は、悲壮だったんですね。
しかし、「正名の宿志は洋行にあれば、無用のことせる心地せしが」と、自叙伝では述懐しています。

前田正名は、嘉永3年(1850)、薩摩藩士の貧しい漢方医の七男として生まれ、九歳のときから、鹿児島の蘭学者・八木称平の住み込み弟子、となります。
八木称平は、大阪の緒方洪庵塾にいたことのある蘭学者で、種痘の方法を書いた本を翻訳し、普及させたことで有名だそうですが、また、薩摩の海外密貿易にも事務方としてかかわっていたのだとか。
慶応元年(1865)、薩摩藩は五代友厚の建言を入れ、英国へ密航留学生を送り出すこととなりました。正名は、そのメンバーとなることを熱望したようなのですが、若年の場合は家柄のいい者が選ばれ、望みはかないませんでした。
かわりに薩摩藩は、正名に長崎への藩費遊学を許します。
正名は、長崎で薩摩藩の外国係をしていた中原猶介のもとに、まずは身をよせ、その紹介で、幕府の長崎奉行所通事だった何礼之(がれいし)が開いた語学塾へ、入門。
当時、この塾では、オランダ人宣教師のフルベッキが英語教師をしていて、また陸奥宗光が入門してもいました。
正名は、布団のない六歳年上の陸奥宗光を、自分の布団に寝かせていた、といいます。そんなところで、龍馬とも面識がないわけでは、なかったのかもしれません。はるか後年、同じ布団で寝た正名と宗光は政敵となりました。

正名は、なんとしても洋行がしたくて、そのための資金作りに、英和辞書を編纂します。
兄が私費で長崎へ来ていて、その友達とともに思いついたことなのですが、これに正名も加わり、フルベッキが助けてくれることとなりました。
正名たちは辞書編纂に没頭し、戊辰戦争直前に仕上げて、上海で印刷します。薩摩辞書と呼ばれたこの辞書の売上で、正名は、モンブラン伯について洋行することができたのです。
フルベッキの弟子だったわけですから、大隈重信とも知り合いだったようです。
大久保利通と大隈の斡旋で得た留学です。しかし藩費ではなく、自ら費用を作ったのですから、すごい、がんばり屋さんですよね。

正名がパリで絶望を感じたのは、第二帝政最末期の豪奢な都市のさまざまな様相、産業にしろ軍事にしろ学問にしろ、なんでしょうけれども、その西洋近代文明のりっぱさが、とても日本人が追いつくことはできないものに見えたから、だったんですね。
私が勘違いしていたのは、モンブラン伯の代理公使の期間で、普仏戦争が終わるまで、そうだったように思っていたのですが、この本によれば、開戦以前に、後任の鮫島尚信がパリへ来たことになっているんですね。これは、ちゃんと調べてみる必要があります。

さらにこの本では、正名が市民兵に志願したとは、書いてないんです。
正名は、勇敢さを認められてコンプレックスを解消したのではないようなのです。
りっぱに見えたフランスの軍隊は弱く、華の都から物資は姿を消し、不夜城を演出していたガス灯も消え、人々は犬や猫、鼠までを食べる惨状となったのを見て、物質文明のもろさを覚ったんです。同時に、日本人が欧州に遅れているのは物質的な面のみであり、文明として遅れているわけではないのだということも、です。

市民兵の件は、どういうことだったのだろうと、ともかく、自叙伝を直接読みたい思いが募ります。
誇り高く、熱情的な薩摩の美少年(かな?)。モンブラン伯とは、とても良好な関係だったようですしね。

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土方のタトエばなしby『新選組の哲学』

2006年02月07日 | 土方歳三
以前に土方歳三と伝習隊 でご紹介しました野口武彦著『新選組の遠景』(集英社)に、福田定良著『新選組の哲学』(中公文庫)が、絶版になっている旨、載っていました。
リンクをはっておりますが、ほんとうみたいですね。しかし、380円の文庫が2100円とは! 絶版って、こわいですねえ。

「哲学」といっても、小難しい話じゃないんです。
私にいわせれば、司馬遼太郎著『新選組血風録』の楽しいパロディです。
著者ご自身が後書きの「言訳」で、以下のように断っておられます。

『新選組の哲学』は新選組の研究者や哲学に関心をもっている人たちに文句を言われそうな本である。だから、この本に必要なのはその道の専門家の解説ではなく、著者自身の言訳であろう。
この本に出てくる新選組の隊士は実在の人物ではない。二十数年前、司馬遼太郎氏の『新選組血風録』を何度か読み返し、そのころNETから放映されていた同名の連続ドラマを見ているうちに、いつの間にかぼくのなかに根をおろしてしまった隊士たちである。かりに彼らがいくらかは面白く書けているとしても、その面白さは司馬さんの小説の面白さ、あるいはあのドラマの面白さの二番煎じでしかない。

野口氏が、『新選組の遠景』の中で、この『新選組の哲学』を紹介しておられるのは、「沖田総司伝説」という章の中で、です。以下、『新選組の哲学』が描く沖田総司像への、野口氏の言及です。

たとえ司馬遼太郎の作中人物であろうとも、ここにはその総司像を透過して、沖田総司の原質を見きわめる視線がつらぬかれている。「スポーツマンの明るさ」とは、
言い得て妙である。
(中略)
福田定良が沖田総司の生涯に見出しているのは、ひたすら<<剣>>一筋に生きようとしているのに心ならずも<<政治>>に引き込まれてしまった純朴な青年の悲劇である。

沖田総司像を「スポーツマンの悲劇」と位置づける福田氏の視線は、野口氏のおっしゃるよう卓見で、今回の大河新選組にも、引き継がれているように思います。
この『新選組の哲学』の中で、私のお気に入りは、「土方のタトエばなし」です。
冒頭に、俳句と歌が出てきます。

しれば迷ひしなければ迷わぬ恋の道

故郷の母の御袖にやどるかと思へば月のかげぞ恋しき

上は、言わずとしれた土方さんの俳句ですが、下はだれの歌だと思われますか? といったところから、お話は始まります。
実は、伊藤甲子太郎の和歌なんです。
で、この俳句と歌の論評も笑えるのですが、その後の土方さんのタトエ話が、おもしろいんです。
ある日、土方さんが沖田さんを呼んで、豆と茶を勧めつつ、語ります。
「もっと面白い話をしよう。そうだ、浮気の話がいい」と口をきるのですが、「浮気をされても、妻は夫を憎むわけにはいかない。といって、むろん、平気ではいられない。そういうもんだろう」と、真面目くさって続けるんです。

ここまで書けば、新選組好きで、勘のいい方ならば、どういうタトエ話なのか、おわかりになられるはず。
このタトエ話の間、沖田さんが入れる合いの手も絶妙で、パロディとして絶品です。
私のお気に入りなのです。

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普通の人々の幕末ベストセラー

2006年02月06日 | 幕末文化
野口武彦氏の幕末ものがおもしろい! という話は、以前に上野モンマルトル でしました。

幕末維新、といいましても、当然のことながら、みんながみんな志士でもなければ、新選組でもないわけでして、圧倒的に、普通の人たちが多いわけです。
野口氏は、その、ごく普通の人々にスポットをあてていて、おもしろいんです。
普通の人たち、って、どんな人か、といえば、たとえば、土方歳三のリベンジ に書きました、野口武彦氏の『幕末伝説』収録、「幕末不戦派軍記」の主人公、なまけもの幕府下っ端役人四人組み、とか、じゃないでしょうか。
歩兵の訓練なんてしんどいからいやで、コネをつかってさぼろうとしたところが、結局、鳥羽伏見の戦いにまきこまれて、逃げまどい、行き場に困ったあげくの成り行きで、砲弾が飛んでくる淀でお握り炊き出し隊をやっていましたところが、土方歳三にばったり。どうして土方さんが現れたかといえば、鳥羽伏見の土方歳三 に、あるようなわけでして。

ともかく、普通の人たちは、いままで通り普通にやろうとして、しかし、いろいろと災難にまきこまれたりもするわけなんですが、どちらの陣営にしろ、がんばろう!と、勢い込んでいた人々の方が少数派で、だめだめな普通の人たちが、大多数であったでしょう。
当然、ごく普通の人々の楽しみ、というものもあったわけでして、幕末の江戸の女たちが、どんな本を楽しんでいたかって、ちょっと知りたくなったことがありました。

『白縫譚(しらぬいものがたり』

これです。なんとも、きれいな本でしょう?
嘉永2年(1849)から明治18年(1885)まで、延々書き継がれた伝奇物語なんです。36年間!です。14歳の少女が読み始めて、50のおばさんになるまで刊行され続けた、ロングセラー本だったんです。
途中で、作者も三名にわたって変わっています。うろ覚えなんですが、維新後に一度、刊行が中断されたことがあったようでした。二番目の作者は、幕臣であったのではないかと、私は思ったり。
非役の下っ端の幕臣が書いていて、気がついてみたら維新の騒動で、もうかなりの年ではあるし、世の変化についていけず、病気になったとか。いえ、想像なんですけど。

内容はといえば、黒田家のお家騒動と天草の乱を素材にした歴史伝奇もの。
実は、明治後期に、一冊にまとめて活字印刷本になっていまして、それは、近くの図書館で借り出し可能だったので、少しは読んだのですが、あまり読み進まないうちに期限が来て、挫折しました。
今読んで、おもしろいものか、といわれると、ちょっと、あれなんです。
なんでも現在、実物は、90編あるうちの71編までしか見つかってないんだそうです。
これもかなり以前なんですが、古書目録で、たしか五〇数編くらいがまとめて、数十万円(たしか百万に近かったような)で売りに出ていました。
見るだけでも見てみたかったんですけどね、こうやって、ネットで見ることができて、幸せです。

江戸の少女は、毎年、こんな本を楽しみに読み重ねながら、黒船騒動やら大地震やら火事やら、桜田門外の変やらを経験し、年を重ね、結婚して子供が生まれ、維新を迎え、明治の世になってもなお、楽しみに読み継いだんですよね。


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『坂の上の雲』と脱イデオロギー

2006年02月05日 | 伊予松山
昨日の記事、坂本龍馬の虚像と実像の 続きです。
司馬遼太郎氏の歴史小説について、松浦玲氏は、『検証・龍馬伝説』において、以下のように述べておられます。

司馬さんの主な著作は、一九六〇年代、日本の高度成長期に書かれている。池田勇人内閣が所得倍増論を唱えて、本当に実現し、日本人が、戦中・戦後の苦しみから漸く脱却して、戦前を遙かに上回る高い生産力と、それにやや見合う生活水準の時代に突入していった時期である。飢える心配は消え、暮しは確かに豊かになった。そういう時期の日本人が司馬さんの作品に日本の歴史を見た。司馬さんが作りだすものと、国民が求めていたものが合致したのである。
 どういうところが受け入れられたのか。司馬さんの作品の特徴は、司馬さんが主人公はじめ登場人物たちを面白がっているところにある。おかしがっていると言ってもよい。
(中略)
時代が違い置かれた環境が違えば、人間とはこんなに面白いのだ、そういうものを司馬さんが取り出してみせる鮮やかさに人々は感服し、それが「歴史」だと納得するのである。

以上、松浦氏のおっしゃることは、大筋において、その通りだと思えます。
司馬遼太郎氏が逝去なさったとき、私は、石浜典夫氏にお話をうかがう機会を得ました。
石浜氏は、産経新聞時代に文化部で司馬氏の部下だった方で、当時は、テレビ愛媛(フジ系列)の社長をなさっておられました。
石浜氏のお父上は、戦前の関西外語で司馬氏の恩師であり、また典夫氏の兄上の石浜恒夫氏は、司馬氏といっしょに『近代説話』という同人誌を出されていて、家族ぐるみのおつき合いでおられた、とのことだったのです。

石浜典夫氏によれば、『近代説話』は、現代の『今昔物語』をめざした同人誌であり、司馬氏の歴史小説は、まさに「近代の説話」なのだ、ということなのですね。
新聞記者時代の司馬氏の教えで、とてもおもしろく聞かせていただいたエピソードがあります。
文化部デスクだった司馬氏は、「忍者」だとか「新選組」だとか、当時としては風変わりな企画を立てて、「現場に取材に行け」と、記者だった石浜氏に言うんだそうです。
しかし、現場に取材ったって、昔の話です。石浜氏がとまどっていると、「ともかく行け」と。
で、仕方なく、京の壬生へ新選組の取材に行きます。そうすると、「そこのうどん屋で土方さんがうどんを食べていた、と、じいさんがいいいよりました」というような、嘘か本当かわからないようなことを、地元の人が語るんだそうです。
そのうどん屋でうどんを食べて、しばらく、そんな話を聞いていると、不思議なことに、浅黄の衣装をつけた隊員が、今にも角をまがって姿を現しそうな、そんな臨場感がわいてきて、その臨場感のままに記事を書くと、「これだ!」と、司馬氏は誉めてくれたというお話なのです。

『今昔物語』は正史ではありません。しかし、現在、厳めしい正史を読むよりも、『今昔物語』を読む方が、王朝後期の時代相をリアルに感じることができます。
そして、まさに司馬氏の小説は、基本的には説話なのです。
その説話が、正史ではない、普通の人々のリアリティの上に成り立った、歴史物語をつむぐのです。
松浦氏は、『坂の上の雲』のおもしろさを認めつつ、いえ、認めていればこそ、現代につながる明治の大日本帝国を、相対化し、説話化することに疑問を投げておられます。
どうも、言っておられることがよくわからないのですが、要するに、司馬氏の中で、時効になったもの、歴史になったものは説話となり、時効にならないもの、現代の自分に迷惑がかかるものは非難の対象となっている、それは筋が通らないではないか、ということのようなのです。
その例として、三島由紀夫の事件のとき、「本来はフィクションにすぎない思想を現実だと思って短絡反応を起こして死んだ人間に、かつて吉田松陰があり、いま三島由紀夫が現れた」と、司馬氏が書かれたことを上げておられるのですが。
いったい、司馬氏が、どういう文脈でそう言われたのかわかりませんが、要は、その置かれた時代状況の中で、その行動(短絡反応)にリアリティがあったかどうか、ということでしょう。

三島由紀夫の恋文 で書きましたが、現在の私には、三島由紀夫氏の行動も、その置かれた時代状況の中では、それなりのリアリティを持って見えます。
しかし、司馬氏にはそうは見えなかったのでしょうし、なにより、目の前で起こった事件、つまり時事ニュースが、そのまま説話にはなりえないでしょう。
松浦氏は「時効」と言われますが、そもそも説話とは、実体験を語ることではなく、また現在の価値判断で過去を見つめることでもなく、過去に生きた人々のリアリティを今に引き寄せてこそ、成り立つものです。
いったいなぜ松浦氏は、時事ニュースへの司馬氏のコメントをもって、その作品を批判なさろうとするのか、それこそ筋違いでおられるのではないでしょうか。
それに重ねて松浦氏は、司馬氏の言う「庶民」が、信じられないのだとおっしゃいます。
大衆というものの怖さをおっしゃっておられるのだと思うのですが、それは、司馬氏の『坂の上の雲』においても、日露講和への大衆の無理解を描くことで、示されているのではないでしょうか。
そういった暴走をも含めて、それが「庶民」なのであり、時代相です。

ご自身がいわれておられるように、松浦氏は価値判断が、つまりはイデオロギーがお好きです。
それは本当に、「脱イデオロギーのイデオロギー」なのでしょうか。
松浦氏のおっしゃっておられることが、下の記事のようなイデオロギーとどうちがうのか、私には、いまひとつ、よくわかりません。

asahi.com マイタウン愛媛 企画特集
【明治に学ぶまちづくり-その光と影】<3> 「楽観的な時代」


『坂の上の雲』は小説です。
妙なイデオロギーに染まった人々にとっては、その明るさが、許せないことであるかのようです。
説話をイデオロギーで批判して、なにがしたいのか、と、ため息が出ます。
たしかに司馬氏は、ナショナリズムそのものを、否定してはおられません。それが、明治のリアリティであるからです。
で、ナショナリズムそのものが、悪なのでしょうか?
ナショナリズムそのものが悪なのであれば、当時のアジアの独立運動も悪です。
イデオロギーというものも、つくづく筋が通らないもののようですね。

なお、石浜典夫氏は現在、『坂の上の雲』のまちづくりに取り組む松山市のコンシェルジェ をなさっておられます。
松山が舞台になっているためか、私は、『坂の上の雲』については、素直に司馬さんの説話を楽しむだけで、秋山兄弟や子規の実像を掘り返そうという気にはなりません。といいますか、子供のころに祖父から話を聞いたなつかしさが蘇り、それを大切にしたいな、という思いが強いのでしょう。
軍記的な部分については、批判も多いのは知っておりますし、説話的な手法で、登場人物の多い壮大な軍記を描いた場合、わけてもそれが近代戦であれば、人物像のデフォルメへの批判は当然あるでしょう。
それはそれで、実像を掘り起こすのも、一つの楽しみ方です。
司馬氏が、秋山兄弟や子規にサービスされているのは、子孫の方々と会われて、彼らの生きた時代に、気持ちのいいリアリティを感じられた、ということが大きいように思われます。
司馬遼太郎氏の書かれた小説の中で、やはり、これが一番好きです。


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坂本龍馬の虚像と実像

2006年02月04日 | 幕末土佐
ってね、どれが虚像でどれが実像か、検証できるほど、龍馬について知っているわけではありません。松浦玲著『検証・龍馬伝説』(論創社)を読んだんです。
司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』を対極において、龍馬の虚像と実像を検証している本なのですけれども。

著者は、勝海舟の研究がメインの歴史家でおられるようです。
雑誌などに書かれたものをまとめて、加筆されたもので、最初と最後の章で司馬文学そのものに言及され、その間は、『竜馬がゆく』そのもの、といいますよりも、現在流布している龍馬伝説を検証し、史実を浮き彫りにしたものです。締めくくりに、「あとがきを兼ねた長い補論」を書かれていて、ちょっと複雑な構成ですが、坂本龍馬の実像については、実証的で、説得力があります。
とりわけ、薩長同盟と大政奉還に龍馬は果たした役割については、かなりバランスのとれた見解が提示されているのですが、驚きますのは、『竜馬がゆく』が史実としてひろく世間で信じられてる、その実体です。
「長い補論」で述べられている「A氏」の件には、唖然としました。

A氏は1993年に、『河原町三条下ル、龍馬暗殺』という推理小説仕立ての本を出されたそうなのですが、まず、その内容です。
「大久保利通が真犯人で、現場で殺された中岡慎太郎が従犯、実行犯が坂本龍馬を殺すのを中岡が援助した」という要約。
あんまりじゃないでしょうか。いえ、大久保利通真犯人説というのは、他でも読んだことがあって、驚かないのですが、中岡慎太郎が従犯って! 無茶苦茶です。
で、「A氏は大政奉還は坂本龍馬の発明だと思いこんでいらっしゃった」って!!!
常々、なんで世の中には薩摩が龍馬暗殺にからんだ、などという奇妙な説が出回っているんだろう、と、わけがわかりませんでした。大河の新選組でも、そんな話が、ありましたし。

参照
土方歳三 最期の一日

しかし、「龍馬がほとんど一人で大政奉還を実現した」と思い込んだとして、それでもやはり、「統制型人間の大久保利通が、大政奉還案のような奇手がひらめく規格外れの異才龍馬を生かしておけないと、殺意を固める」なぞという奇妙な発想が、どこからどうわいてくるのか、やはり不思議です。
その「A氏」が、です。まったく歴史資料にあたっておられない、ということは、ありえないと思うのですが、『竜馬がゆく』を読んだときの印象があまりにも強烈で、フィクションの筋書きでしか、幕末の政治劇を見ることができなくなっておられる、ということなのでしょうか。

そういえば、新人物往来社の『桐野利秋のすべて』を読んでいて、ちょっとため息、だったことがありました。
桐野の「京在日記」に関する一章を、新選組の研究で知られておられる釣洋一氏が書かれておられるのですが、いや、さすがに氏は、「史的根拠のないことは単なる空想にすぎない」と、ことわられつつも、桐野の赤松小三郎暗殺から、「龍馬襲撃の魔手こそは西郷」と、空想をもらしておられるのですよね。もらしつつ、「下衆の勘ぐりと自覚を持って退散」と畳みかけておられるのが、なんだか嫌な書き方だなあ、という印象でした。

赤松小三郎と坂本龍馬を同列に並べるのは、どういう思い込みでおられるのか、と不思議でならなかったのです。いくらなんでも「赤松や容堂と同じ思想」と位置づけられたのでは龍馬も気の毒ですし、仮に同じ思想を持っていたにしましても、この時点の西郷さんは、脱藩攘夷志士じゃないんですから、相手の「思想」で暗殺をするような馬鹿なまねをするとは、到底考えられないはずなのですが。

私も憶測を述べますが、赤松小三郎暗殺は、公武合体論者である赤松小三郎の、島津久光への影響力を憂慮してのものでしょう。
この時点の薩摩倒幕派にとって、最大の難関は、藩内の倒幕反対派でした。長州と違って薩摩は、朝敵になっているわけでもなんでもないのですから、守旧派は当然、倒幕などという危ない橋を渡ることには、反対します。
それを倒幕に引っ張っていくためには、久光を説得するしかなかったのです。

参照
続・中村半次郎人斬り伝説

と、話がそれてしまいました。
松浦氏が浮き彫りにする龍馬像は、かなり等身大に近く、しかし、龍馬への愛情が感じられるもので、好感が持てます。
司馬遼太郎氏の小説に対する評価も、なるほど、と思える部分は多いのです。
「私は『翔ぶが如く』では、私流に司馬さんの小説を読む面白さを、うまく味わわせて貰えなかったという記憶がある」という点は、まったくの同感ですし、司馬氏の小説の中で、「めっぽう面白いのは『坂の上の雲』」として、その理由を「秋山兄弟に対するサービス」にあり、「『翔ぶが如く』の西郷はサービスしてもらってない」というのは、納得です。
ただ、問題は、その後なのです。
『坂の上の雲』については、次回で取り上げるとしまして、司馬氏は徹底した「脱イデオロギー」の作家である、と、松浦氏はおっしゃいます。
その上で、ご自分を「イデオロギー人間」と規定し、歴史は「脱イデオロギー」というイデオロギー、を持って、取り扱うべきものではないか、とおっしゃるのです。しかし、司馬氏は、「脱イデオロギー」に徹底するあまりに、「脱イデオロギー」のイデオロギーでさえ提示せず、これが問題であると。

歴史小説に対する批判として、「脱イデオロギー」のイデオロギーを求められることについては次回にまわします。
問題は、松浦氏が、龍馬の実像を描くにあたっても、時折、これが「脱イデオロギー」のイデオロギー?なのか、という記述が散見されることです。
例えば、なんですが、龍馬の脱藩と、勝海舟が構想し、龍馬も希望を託していた「神戸海軍塾」について、です。
勝海舟が「アジアが連帯してヨーロッパに対抗するための海軍」のとっかかりとして、「神戸海軍塾」を構想した、とおっしゃるのですが。
いえ、です。幕末の志士に、アジアとの連帯を夢見た思想は多く、それが、後のアジア主義に結びついていくことは、知っています。
勝海舟が、長州の桂小五郎を説得するために、「神戸海軍塾の目的はアジアとの連帯」と語ったのは事実だとしても、です。そういう思想、といいますより夢想と、「アジア」の現実は、まったく別のものでして、連帯のしようもなかったことは後世の史実が示しています。
松浦氏は「空論」と断られながらも、たたみかけて、神戸海軍塾がつぶれたときに、海舟は「脱藩」するべきだった、つまり、幕府から離れるべきだった、と言われるのですが。
あげりの果てに「上海で亡命政権」って……。空論というより、失礼ながら妄想です。妄想のあげくが、「アジアとの連帯」が「脱国家」につながると。

近代国家の生みの苦しみの時点で、脱国家???
相手が近代国家でなければ、連帯もできませんしねえ。
それが、イデオロギーのイデオロギーたるゆえんであるのかもしれませんが、「脱国家」って、なんなんでしょう??? 
夢想の飛躍についていけませんでした。

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坂の上の雲と脱イデオロギー


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高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折

2006年02月03日 | 幕末長州
「大丈夫、宇宙の間に生く、なんぞ久しく筆研につかへんや」と、高杉晋作は、大喜びしたんです。
万延元年(1860)、桜田門外で井伊大老が暗殺されたころ、高杉晋作は数えの22歳で結婚したばかり。藩の軍艦教授所に学んでいて、遠洋航海に出る丙辰丸の士分乗組員(つまりは海軍士官見習)に選ばれての大喜び、なんですが。
遠洋航海たって、たかだか江戸まで、です。

丙辰丸は、伊豆から船大工を招き、長州藩が独力で作り上げた洋式帆船でした。
なぜ伊豆からかといえば、これより6年ほど前のこと、安政の大地震にともなった津波で、ロシアの軍艦ディアナ号が破損し、修理のため駿河湾へまわったところが、暴風のため沈没。帰国のための帆船を、伊豆の戸田港で建造し、伊豆の船大工たちは、西洋帆船の造船を学んでいたんです。
その虎の子の洋式帆船を、長州藩は大阪との往復にのみ、使っていました。波穏やかな瀬戸内海航路、です。江戸へ行くような「遠洋航海」には、けっして出しませんでした。
それに不満だったのが、長崎のオランダ海軍伝習で、勝海舟と同窓だった、丙辰丸艦長の松島剛蔵です。
この年の一月、幕府の咸臨丸は、アメリカへ、本当の遠洋航海に出発しています。それを、たかだか江戸へ行くくらいで「遠洋航海」と言われてはたまりません。藩に嘆願書を出し、ようやく認められて、江戸まで「遠洋航海」をすることとなったのです。

高杉さん、すごい勢いです。
「宇宙の間に生きる大丈夫が、机にしがみついて閉じこもりになっていられるか!」
とでもいった意味でしょうか。
ところがところが、太平洋に出たところで、船酔いにでも苦しめられたのでしょうか。航海の後には、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と書き、船を離れます。
「性格がおおざっぱで、狂い気味なんだからさ、航海術なんぞというちまちま細かなものは、向いてなかったね」、ですかしら。

航海術って、どちらかといえば技術系専門職、ですからねえ。たしかに、向いてなかったんでしょう。
もっともこのときから六年の後、第二次征長戦において、高杉は海軍総督を命じられます。
松島剛蔵はどうしていたか、ですって? このお方が維新まで生きていたら、長州閥も海軍に理解が深かっただろうに、と、思うんですよねえ。
そうなんです。松島剛蔵は、すでに元治元年(1864)、俗論派による藩内の政変で、斬首されてしまっていました。
彼は、吉田松陰の妹婿の実兄で、木戸考允(桂小五郎)が水戸藩士と結んだ密約は、丙辰丸船上で結ばれ、艦長の彼も署名したほどの尊攘派でした。
文久三年(1863)の馬関攘夷戦にも、積極的に参加しています。

長州は、丙辰丸に次いで、同じような洋式帆船、庚申丸を製造。両舷に八門のカノン砲を設置しました。砲の据え付けは、オランダ海軍士官に助言を受けて行われています。
さらに、二隻を購入してもいました。一隻は癸亥丸というイギリス製の小さな木造帆船でしたが、砲が10門。
もう一隻は壬戌丸といって、鉄張り蒸気船です。ただし壬戌丸は、藩主のご座船のような役割をする船で、軍艦ではなく、砲はありませんでした。
洋式船としては四隻を所有していたわけなのですが、丙辰丸にもしっかり戦えるだけの砲はなく、戦艦は、庚申丸、癸亥丸の二隻です。
松島剛蔵が艦長だった庚申丸は、アメリカ商船を砲撃し、次いでオランダ軍艦をも、癸亥丸といっしょに襲います。癸亥丸の艦長は、松島剛蔵に同じく、オランダ海軍の伝習を受けた福原清助です。
オランダ軍艦の乗組員は、心底、信じられなかったでしょう。

アメリカ合衆国の軍艦ワイオミング号は、南軍の巡洋艦をさがして香港に来て、見つからないまま在日アメリカ人保護を命じられて横浜にいたところへ、自国商船が襲撃されたとの知らせを受けました。
さっそく、報復のため馬関へ。停泊中の壬戌丸、庚申丸、癸亥丸を発見し、一番りっぱな壬戌丸を旗艦と見て、突進します。
庚申丸、癸亥丸は果敢に砲撃戦をいどみ、ワイオミング側は10名の死傷者を出しますが、壬戌丸、庚申丸は撃沈され、癸亥丸も修理不可能なまでの大破。
長州艦隊は全滅してしまったのです。

ここまでの参考文献、高杉晋作に関する部分は、『高杉晋作全集』なども見ておりますが、主に、村松剛著『醒めた炎―木戸孝允』全四巻(中公文庫)です。
この本は、巻末に出典がまとめられていて、すぐれものかと。

ところで、突然、長州海軍を思い浮かべましたのは、「宮古湾海戦において甲鉄(ストーン・ウォール)に乗っていたのはだれなのか」という疑問を提示されたTBをいただいて、大山柏著『戊辰役戦史』(時事通信社発行)を見てみましたところ、以下のように書いていました。

甲鉄について朝廷はこれを買い入れると同時に、長藩にお預けとなしたので、おもな乗組員は長人がこれに当たり、船将には中島四郎が任命され、百三十から百五十名が乗り込んでいた。

さらに篠原宏著『海軍創設史 イギリス軍事顧問団の影』(リブロポート発行)を見てみました。これには宮古湾海戦に関する記述はなく、明治元年6月、榎本艦隊が品川沖にいて、アメリカが旧幕府海軍と新政府、どちらへの甲鉄引き渡しも拒んでいたころの、こんなエピソードを乗せています。

長州藩士六、七十人が、「ストン・ウォール」を手に入れてそれに乗って帰るためにイギリス汽船に乗って兵庫から横浜に来た。一行は、横浜駐在の政府当局者と連絡し、同艦を引き渡すことはできないと言われて引き揚げた。

つまり長州は、よほど戦艦を欲しがっていたようなのです。
それで、松島剛蔵と攘夷海戦を思い出したわけでした。
長州はワイオミングとの海戦で、三隻を失い、それ以降、満足に戦艦を持てないでいたんですよね。
もともと水軍の横行していた土地柄です。臣下に、元の村上水軍も組み込まれていましたし、御船手組の水夫たちもいたはずです。幕府の水夫が、元の塩飽水軍が主だったことを考えますと、長州はそもそもは、海軍を育てるに有利な土地柄だったはずなのです。
攘夷戦の段階で、操船技術はすでに培われていて、死傷者の数まで書いてなかったのですが、陸がすぐそばですし、死者はあまりなかったはず。
ただ、元の村上水軍は、周防大島に移住していたのですし、海軍には、周防出身者が多く、松島剛蔵亡き後、長州政庁で力をふるって予算をとりえる人材がなかった、とはいえます。
長州における周防出身者の冷遇は、よく知られていることです。
それで、高杉が海軍総督に座ったのでしょうけれども、座って間もなく、高杉も病に倒れます。
維新当時の長州は、乗組員は召し出せばいるけれども、船はなし状態、だったのではないんでしょうか。

「甲鉄は誰が動かしていたのか」とおっしゃる疑問は、甲鉄が大型船であったことから、操船技術が難しいものではないのか、ということだったのですが、それに関しては、個人サイトの掲示板で詳しい方にお聞きしましたところ、さして変わるものではない、とのことでした。
なお、函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦) では省きましたが、甲鉄艦の詳しい履歴を、上記『海軍創設史 イギリス軍事顧問団の影』から、要約して補っておきます。

もともとは、アメリカ南軍が、ミシシッピー川での北軍との戦闘を考えて、フランスのボルドーにある造船所に発注した2隻のうちの一つで、スフィンクスという名でした。喫水が浅く、海洋向きの船では、ないんですね。
南軍の敗色濃厚となったため、フランスの造船業者が、一隻をプロシャに、スフィンクスをデンマークにと、交戦中の2国に売りこんだところが、デンマークは敗戦で契約を破棄。ここで船名がオリンダとかわり、南軍の武器調達係の大佐が、オリンダを洋上奪取。アポルタージュですねえ。
ここで名前がストーン・ウォールとなり、北軍軍艦の追跡を受けて、キューバに逃げ込み、キューバに売り渡し。
北軍といいますか、合衆国政府が請け出して幕府に売り渡した、ということです。

写真は、以前にも使いましたが、長州海軍の本拠地だった三田尻を、七卿が身を寄せたお茶屋の大観楼から眺めたものです。

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海防に始まった幕末と薩の海軍


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プリンス昭武、動乱の京からパリへ。

2006年02月02日 | 日仏関係
これまでいく度も書いてきました慶応三年(1967)、パリ万国博覧会。
すでに、須見裕氏著の中公新書『徳川昭武―万博殿様一代記』を持っていますので、いらないかな、と思っていたのですが、宮永孝氏なら読むべきだろうと、『プリンス昭武の欧州紀行―慶応3年パリ万博使節』を買いました。

正解! でした。モノクロながら、写真が多く入っていて、内容も充実しています。私にとりましては、なんといっても、モンブラン伯が薩摩で撮った和装の写真が載っていて、満足!です。鹿島茂氏が『妖人白山伯』で、この写真のことに触れておられて、どうしても見たい! と思っていたのです。
そんなに山師面ですかねえ。ひいき目なのか、私には、けっこう品よく見えます。

モンブラン伯爵は大山師か

これまでに、帝政最後のパリ万博について書いた記事は、主に以下です。

『オペラ座の怪人』と第二帝政
帝政パリの『ドン・カルロス』
喜歌劇が結ぶ東西
花の都で平仮名ノ説
無敗で凱旋門賞挑戦の夢破る

一橋慶喜の弟だった水戸民部公子・徳川昭武は、このときわずか14歳。かわいいプリンスです。
プリンス一行の会計係だった渋沢栄一と、イギリスに留学していて挨拶にパリを訪れた林董、民間から参加した清水卯三郎についてはすでに述べましたが、プリンス一行には、函館戦争で医者として幕軍に加わっていた高松凌雲もいます。
彼の兄が、旧幕衝鋒隊を率いた古屋佐久左衛門で、五稜郭で重傷を負い、死去しました。
渋沢栄一は京で、慶応2年の10月ですから、パリへ旅立つ3ヶ月前、幕臣大沢源次郎捕縛事件で新選組の協力を得ました。そのときのことを後年に語って、「近藤の次ぎにいた土方歳三というのが、なかなか相当の人物で」と述べていたりします。
一橋慶喜が将軍となり、孝明天皇が崩御して、暗雲のうちに暮れた慶応2年。明けて一月、プリンス一行は旅立つのです。
王侯貴族がつどい、連夜の舞踏会に競馬と、華やぎに満ちていたパリ。
『プリンス昭武の欧州紀行―慶応3年パリ万博使節』は、細かくプリンスの日程を追い、また博覧会での薩摩との軋轢も、詳しく記しています。
で、もちろん、モンブラン伯の登場、となるわけですね。

もう一冊、ちょっとこれに関係のある本を買いました。
『ジュエリーの歩み100年―近代日本の装身具一八五〇‐一九五〇』なんですが、カラーページが多く、幕末以降の、実に美しい日本の宝飾品の数々を見ることができます。
それで、全面カラーの見開き、左ページにプリンス昭武がスイス大統領から贈られた金の懐中時計、右ページにモンブラン伯が薩摩のために作った薩摩琉球国の七宝の勲章が、載っていたりするんですね。
プリンスの金時計が、なんともいえず美しく、かわいいんですよねえ。なにがって、外蓋の内側に、エナメルで、衣冠束帯姿のプリンスの肖像が描かれているんですが、ちょっぴり美化されてもいて、ため息がでるほど。

このときの薩摩の代表は、家老の岩下方平ですが、彼はプリンス一行よりも先にパリに乗り込み、プリンス到着まで、日本の代表のような扱いを受けるんです。
モンブラン伯の活躍で、薩摩琉球国王の勲章はくばってまわるは、新聞でも独立国であるかのような情報は流すはで、結局、幕府がフランスに申し込んでいた借款を、つぶすんですね。これは幕府にとって、相当な痛手だったでしょう。
しかも岩下方平は、目的を達すると、万博が終わらないうちにパリを去り、慶応3年の9月には、京に姿を現します。
実は、ウェッブ上で、岩下方平がパリで撮した写真を見つけたんですけどねえ。
このとき彼は、ちょうど40歳くらいで、私の想像では、どっしりと太めの重厚なおじさん、だったんですけど、それが。あー、まったくもって予想ははずれ、うっそ! って感じでした。あー、美しい、というわけではないです。
さっさとDLしたんですが、その後、そのページがわからなくなってしまいまして、掲載許可の求め先が、不明です。

京からパリへ、パリから京へ。動乱二都物語、とでも言いたくなります。


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