去年の私の手帳を開いてみる。
過去の現役時代にもないほど全ページが埋まっている。
妻の急性骨髄性白血病の治療と病状記録が所狭しと書き綴られている。
これは度重なる抗がん剤治療の最後とも言えるCAG療法から、その後の緩和ケアへ至る時期の、検査値や輸血など経過を記録したページの一部である。
2日毎の血液検査値の抜粋と連日の血小板輸血が克明に記録されている。
別に日記欄は毎日の症状や、恐れおののき、願いなど心の記録で埋まっている。
この妻の病状が最悪の時期に重なった夏休みには、娘が帰国して同じ病院で膵臓近傍腫瘤の手術をした。毎週岡山通い、あの時期が私にとっても最も過酷であった。
AF発作を起したりしている、よく持ちこたえたと、今しみじみ思う。
入院から9月の初めまでの5ヶ月間に、大学病院であらゆる治療をし尽くし、打つ手はなしといわれた。いわば治療病棟からは見放されたのである。
自宅療養を見越してリフォームとハウスクリーニングをしている。
自宅近くの病院に受け入れてもらい、週末だけ自宅外泊の生活になった。
その後実に半年間、輸血以外の治療から解放されて、穏やかであった。
多くの友人と喜んで会った。
外泊時には近場のドライブや散歩を楽しみ、衰弱してはいたが安らかで満たされた生活を送れたと思う。今となってはそれがせめてもの慰めである。
入院直前までは全く元気でいた。ふくよかな顔に病気の影すら見えなかった。
抗がん剤治療に入らなければ、好きだった旅行などもっと出来ていたのに・・・
入院し、抗がん剤治療開始とともに急速にQOLは低下し、死線をさ迷った・・・
果たしてあの過酷な抗がん剤治療は何だったのだろう・・・・
延命に繋がったのだと、そしてまた妻が自ら選んだ道なのだからと言い聞かせている・・・
だが失った者は、あれで良かったのかと後悔と疑念にさいなまれるのである。
急性骨髄性白血病の記録はこれで最後にする。