?マークが集まった花。名前は(も)?
暉峻淑子著「対話する社会へ」岩波新書
原始の昔から、人は老若男女の密な共同体の中で生まれ、成長してきた。コミュニケーションの中で認知は発達したし、共同生活で社会性を身に着けた。
そして、自分のあるべき姿(人格)は共同体の生活で育まれ、あるいは鍛えられながら規定されてきた。「生活=教育」といことが広義の教育の根本原理である。
大学生でゼミを面白く思っていたころ、共働き家庭率が50%に迫ってきて、子どもたちの生活の質の変化が懸念されてきたいた。コンビニが出来て、「お袋の味」が「(コンビニの惣菜の)袋の味」になった。テレビ画面のスーパーマリオで一人遊びして、ウォークマンで密室的に音楽聞いて、塾の前にマックに寄って…。
そんなころ暉峻さんの講演を聞いたことがあり、有名な「豊かさとは何か?」という緑版の岩波新書があった。社会科学の先生が「豊かさ」をどう説くのかなぁ?と思って読んだように思うが今となっては正確な内容は忘れた。でも「忙しいとは心を亡くすと書く、豊かさとは風に揺れる花を感じること」(正確でない)とどこか書いていたのは印象的だった。だから、そのころの(若いころの主観の多分に混ざった)社会状況と重ね合わせてこの人を記憶した。
それから数十年が経った。共稼ぎ率という概念が聞かれなくなった。老人が増えて介護もあって、「文化性」を維持した生活にはお金がかかる。追われた感じでゆとりがない。
そして子どもが減った。一方で一人親世帯も増えた。貧困ということもある。教科書にあったはずの商店街はなくなって、Amazonで深夜でも非対面でなんでも買える。子ども一般の「生活」の実態や実感が分かりはしないが、「学ぶべき教材として生活」は質的にどうなっているのだろう。ノスタルジーやセンチメントで過去を美化せず、冷静な意味でどんなことが学校教育に求められているのだろう。学びが必要だ。
社会の変わりように無力を感じかねない中、暉峻さんは「対話が必要だ」という本を90歳で出した。この30年間本当の豊かさを求めて活動してきたことの証明である。すごい人がいる。
暉峻淑子著「対話する社会へ」岩波新書
原始の昔から、人は老若男女の密な共同体の中で生まれ、成長してきた。コミュニケーションの中で認知は発達したし、共同生活で社会性を身に着けた。
そして、自分のあるべき姿(人格)は共同体の生活で育まれ、あるいは鍛えられながら規定されてきた。「生活=教育」といことが広義の教育の根本原理である。
大学生でゼミを面白く思っていたころ、共働き家庭率が50%に迫ってきて、子どもたちの生活の質の変化が懸念されてきたいた。コンビニが出来て、「お袋の味」が「(コンビニの惣菜の)袋の味」になった。テレビ画面のスーパーマリオで一人遊びして、ウォークマンで密室的に音楽聞いて、塾の前にマックに寄って…。
そんなころ暉峻さんの講演を聞いたことがあり、有名な「豊かさとは何か?」という緑版の岩波新書があった。社会科学の先生が「豊かさ」をどう説くのかなぁ?と思って読んだように思うが今となっては正確な内容は忘れた。でも「忙しいとは心を亡くすと書く、豊かさとは風に揺れる花を感じること」(正確でない)とどこか書いていたのは印象的だった。だから、そのころの(若いころの主観の多分に混ざった)社会状況と重ね合わせてこの人を記憶した。
それから数十年が経った。共稼ぎ率という概念が聞かれなくなった。老人が増えて介護もあって、「文化性」を維持した生活にはお金がかかる。追われた感じでゆとりがない。
そして子どもが減った。一方で一人親世帯も増えた。貧困ということもある。教科書にあったはずの商店街はなくなって、Amazonで深夜でも非対面でなんでも買える。子ども一般の「生活」の実態や実感が分かりはしないが、「学ぶべき教材として生活」は質的にどうなっているのだろう。ノスタルジーやセンチメントで過去を美化せず、冷静な意味でどんなことが学校教育に求められているのだろう。学びが必要だ。
社会の変わりように無力を感じかねない中、暉峻さんは「対話が必要だ」という本を90歳で出した。この30年間本当の豊かさを求めて活動してきたことの証明である。すごい人がいる。