久しぶりのテント泊 八ケ岳
本沢テント場でテントをデポして天狗岳へ 天狗岳は頂上が2つ(双耳峰といいます)あり、奥が西峰、中央のピークが東峰。
ハラリさんの本と、テレビの発言から考えています。
膨大な著作等からごく一部を拾っている訳ですが、とりあえず区切りをつけて、ハラリさんの「予測不可能な時代」学び観?をまとめてみます。引用して考察していきます。
人間であれば100万人でも、10億人でも協力し合うことができるんです。
百万人が同じストーリーを信じることができれば、たとえ知り合いでなかったとしても協力し合うことができるんです。
ストーリーを正しく使えば、私たちを結びつける最強の手段となります。力合わせて病院を建設したり、気候変動と戦ったりすることができるんです。でも戦争や迫害など悪いことに使われないように注意しなくてはなりません。
常に選択です。
このことは『サピエンス全史』の基調をなす発想である。ストーリーを共有できる、だから人類はここまで来たともいえるし、こんな苦い経験もしてきたともいえる。
いずれにしても、人間の協力する特性は、今後も変わりはなく、善きストーリーと善き協力とは何か、という探求を続けなければならない。それが、とりもなおさず今日の教育のテーマでもあるといえそうだ。
ある哲学者が「人生は絶えざる選択だ」といった。正しい選択ができるために学ぶのだ、というのは子ども達に通る話である。
ただ、歴史を転換点での選択は、多くが民意が合意して決定されたものではない。このことについては、もっとシビアな課題として教育の場でもテーマにしなければならない。
もっといえば「選択」は、多くの場合何らかの犠牲を強いることがほとんどだ。そんな中でも選びとる力が必要なことが公私の場を問わず日常的に求められる。
「ストーリーは人間が作ったものに過ぎないんじゃないか!」
人種差別と言うのは人間を残酷にするだけでなく、弱くもします。
人間は簡単に偏見に陥る。しかもそれがストーリーに乗るととんでもないことになる。
これは完全に教育のテーマである。
「いじめ」を取り上げないまでも、「陰キャ」「陽キャ」なんて怪しいものである。「陰キャ」といって人柄を固められるのは残酷なのだが、逆に「ノーベル賞受賞者のほとんどが、子どもころ「陰キャ」だった」という俗論もある。怪しいストーリーが流れるのは簡単なようだ。
怪しいストーリーに乗ったとき、これまで保っていた良識が薄くなる。これが、弱さということかもしれない。
現実は複雑だ、人は様々な関係性を持ち複雑なストーリーが必要だ、と認めることができれば実行可能な妥協案を見出せるでしょう。
忘れてはならないのは、「ライバルは決して敵ではない」
人間が協力するには、力を合わせるイメージの共有のためのストーリーが必要なのだが、複雑な現実に有効なストーリーは、よく練られたものが必要である。
不用意なストーリーには、他者意識が欠落しがちであるというのだ。
また、自分のストーリーに乗らない相手について、「決して敵ではない」というのはいい発言である。
これは私たちみんなのプロジェクト、歳をとった人も、若い人もみんなが力を寄せあって、人類共通の問題を解決していく
これは、ストーリーを作る以前のストーリーの執筆者について言っているように思う。善き選択は「みんなのプロジェクト」という意識の上に成り立つと。
そして、そのことが最後の学生の発言
一番の学びは私たちが今以上にどれだけ心を広く持つことができるかと言う点です。
につながっていく。
以上、人類がデウス(神)になり、現在は信じがたいアップグレードのさなかにあるというハラリさんの、学び観?を簡単にまとめてみたものである。
なるほど、ストーリーを持つことの危うさ脆さ、そこを洞察する冷静な知恵、そして協調と行動の必要性ということは理解できる。
認知革命以降の人類は、愚かさを見せながらも、互いにストーリーによって協力出来得ることを証明できる歴史でもあったということだろう。
ところが、この変化にうちもっとも懸念されるのがその「冷静な知恵」の部分ではないだろうか。
ICT社会への移行で、仕事の質がいつの間にか変化し、生活の「便利化」がすすんで、思考そのもの分断され、判断力が不要になっていくことである。しだいに「冷静は知恵」すら統計的なコンピューターの解析が優先される。
ハラリさんの言う通り、社会のありようは「すべては選択」なのだし、個人においても「人生は絶えざる」選択である。
しかし、妥当(なはず)を担保に、それをコンピューターの解析に乗っかっていいものか、人間社会として、人生としてどうなのだろう。
ここが、識者の意見も分かれるところである。
少し横道にそれるが、今話題の斎藤幸平さんは、
作業の効率化によって、社会としての生産力は著しく上昇する。だが、個々人の生産能力は低下していく。もはや現代の労働力は、かつての職人のように、1人で完成品を作る事はできない。テレビやパソコンを組み立てているのは、テレビやパソコンがどうやって作動しているのかを知らない人々である。
(中略)
現代の資本による包摂は、労働過程を超えて様々な領域へと拡張している。その結果、生産力の発展にもかかわらず、私たちは、未来を「構想」することができない。むしろ、より徹底した資本への隷属を強いられるようになってきていき、資本の命令を「実行」するだけになる。
(『人新世の「資本論」』集英社新書)
という。
「資本への隷属」という表現がふさわしいかわからないが、自分自身が、馴染んできて事々が何ものかにとってかわられる気配が、そして、思考が円滑に出来なくなる懸念が近未来の風に感じる。
これで、本シリーズの第1章は終了です。
前回の予告どおり、日本の教育が立っている「複雑な現実」を見てみよう。
本沢テント場でテントをデポして天狗岳へ 天狗岳は頂上が2つ(双耳峰といいます)あり、奥が西峰、中央のピークが東峰。
ハラリさんの本と、テレビの発言から考えています。
膨大な著作等からごく一部を拾っている訳ですが、とりあえず区切りをつけて、ハラリさんの「予測不可能な時代」学び観?をまとめてみます。引用して考察していきます。
人間であれば100万人でも、10億人でも協力し合うことができるんです。
百万人が同じストーリーを信じることができれば、たとえ知り合いでなかったとしても協力し合うことができるんです。
ストーリーを正しく使えば、私たちを結びつける最強の手段となります。力合わせて病院を建設したり、気候変動と戦ったりすることができるんです。でも戦争や迫害など悪いことに使われないように注意しなくてはなりません。
常に選択です。
このことは『サピエンス全史』の基調をなす発想である。ストーリーを共有できる、だから人類はここまで来たともいえるし、こんな苦い経験もしてきたともいえる。
いずれにしても、人間の協力する特性は、今後も変わりはなく、善きストーリーと善き協力とは何か、という探求を続けなければならない。それが、とりもなおさず今日の教育のテーマでもあるといえそうだ。
ある哲学者が「人生は絶えざる選択だ」といった。正しい選択ができるために学ぶのだ、というのは子ども達に通る話である。
ただ、歴史を転換点での選択は、多くが民意が合意して決定されたものではない。このことについては、もっとシビアな課題として教育の場でもテーマにしなければならない。
もっといえば「選択」は、多くの場合何らかの犠牲を強いることがほとんどだ。そんな中でも選びとる力が必要なことが公私の場を問わず日常的に求められる。
「ストーリーは人間が作ったものに過ぎないんじゃないか!」
人種差別と言うのは人間を残酷にするだけでなく、弱くもします。
人間は簡単に偏見に陥る。しかもそれがストーリーに乗るととんでもないことになる。
これは完全に教育のテーマである。
「いじめ」を取り上げないまでも、「陰キャ」「陽キャ」なんて怪しいものである。「陰キャ」といって人柄を固められるのは残酷なのだが、逆に「ノーベル賞受賞者のほとんどが、子どもころ「陰キャ」だった」という俗論もある。怪しいストーリーが流れるのは簡単なようだ。
怪しいストーリーに乗ったとき、これまで保っていた良識が薄くなる。これが、弱さということかもしれない。
現実は複雑だ、人は様々な関係性を持ち複雑なストーリーが必要だ、と認めることができれば実行可能な妥協案を見出せるでしょう。
忘れてはならないのは、「ライバルは決して敵ではない」
人間が協力するには、力を合わせるイメージの共有のためのストーリーが必要なのだが、複雑な現実に有効なストーリーは、よく練られたものが必要である。
不用意なストーリーには、他者意識が欠落しがちであるというのだ。
また、自分のストーリーに乗らない相手について、「決して敵ではない」というのはいい発言である。
これは私たちみんなのプロジェクト、歳をとった人も、若い人もみんなが力を寄せあって、人類共通の問題を解決していく
これは、ストーリーを作る以前のストーリーの執筆者について言っているように思う。善き選択は「みんなのプロジェクト」という意識の上に成り立つと。
そして、そのことが最後の学生の発言
一番の学びは私たちが今以上にどれだけ心を広く持つことができるかと言う点です。
につながっていく。
以上、人類がデウス(神)になり、現在は信じがたいアップグレードのさなかにあるというハラリさんの、学び観?を簡単にまとめてみたものである。
なるほど、ストーリーを持つことの危うさ脆さ、そこを洞察する冷静な知恵、そして協調と行動の必要性ということは理解できる。
認知革命以降の人類は、愚かさを見せながらも、互いにストーリーによって協力出来得ることを証明できる歴史でもあったということだろう。
ところが、この変化にうちもっとも懸念されるのがその「冷静な知恵」の部分ではないだろうか。
ICT社会への移行で、仕事の質がいつの間にか変化し、生活の「便利化」がすすんで、思考そのもの分断され、判断力が不要になっていくことである。しだいに「冷静は知恵」すら統計的なコンピューターの解析が優先される。
ハラリさんの言う通り、社会のありようは「すべては選択」なのだし、個人においても「人生は絶えざる」選択である。
しかし、妥当(なはず)を担保に、それをコンピューターの解析に乗っかっていいものか、人間社会として、人生としてどうなのだろう。
ここが、識者の意見も分かれるところである。
少し横道にそれるが、今話題の斎藤幸平さんは、
作業の効率化によって、社会としての生産力は著しく上昇する。だが、個々人の生産能力は低下していく。もはや現代の労働力は、かつての職人のように、1人で完成品を作る事はできない。テレビやパソコンを組み立てているのは、テレビやパソコンがどうやって作動しているのかを知らない人々である。
(中略)
現代の資本による包摂は、労働過程を超えて様々な領域へと拡張している。その結果、生産力の発展にもかかわらず、私たちは、未来を「構想」することができない。むしろ、より徹底した資本への隷属を強いられるようになってきていき、資本の命令を「実行」するだけになる。
(『人新世の「資本論」』集英社新書)
という。
「資本への隷属」という表現がふさわしいかわからないが、自分自身が、馴染んできて事々が何ものかにとってかわられる気配が、そして、思考が円滑に出来なくなる懸念が近未来の風に感じる。
これで、本シリーズの第1章は終了です。
前回の予告どおり、日本の教育が立っている「複雑な現実」を見てみよう。