今週から南半球にあるマダガスカルに入るが、その背景からご説明したい。ご存知とは思うが、アフリカ大陸の東海岸にあるモザンビークの東側に位置し、モザンビーク海峡の一番狭い所で500キロ、一番離れていても800キロほどのところにある。マダガスカルの更に東にはフランスが領土権を持つレユニオン、インド洋の貴婦人と呼ばれるモーリシャス。北にはシーラカンスの住むコモロ諸島が点在している。セイシェルはマダガスカルの北北東、約1,200キロの洋上にある。
国土は凡そ日本の1.6倍で、1.8倍のビルマよりやや小さい。日本ではマダガスカル島と「島」をつけて呼ぶが、日本より大きい国なのである。而し、人口は日本の約一割弱(1990年の統計)と非常に少ない。部族は18あるが、ビルマと違って部族間の争いはない。せいぜい選挙で闘うぐらいである。昔は異部族との婚姻は不幸を呼ぶとの迷信があったと聞くが、最近では異部族同士の婚姻はそれほど珍しいことではなくなった。現に、私がマダガスカルに通い続けていたときにずっと手助けをしてくれたアンセルメ・ジャオリズィキー氏(商務省の課長、のちにアメリカ大使館の職員)はアフリカ系のサカラバ族であるが、奥さんはメリナ族である。マダガスカルで一番多い部族はメリナ族で、約330万人である。メリナ族は1,500年ぐらい前にポリネシア(主にインドネシアやマレー半島)から渡ってきた民族である。メリナとは「ストレート・ヘアー」、即ちまっすぐな髪の毛の意味だそうだ。次に多いのは、アフリカ系のベツミサラカ族(一致団結の意がある)で約200万人。アンセルメ・ジャオリズィキー氏の所属するサカラバ族は南西の海岸地帯を本拠にし、人口は約75万人である。メリナは首都のアンタナリブを本拠地にし、ベツミサラカは東北の海岸地帯を中心に居住している。昔は各部族がきちんと棲み分けをしていたが、現在は居住地にそれほど拘っていないようである。而し、死後は確実に先祖の土地に葬られることを願望している。
首都のアンタナリブは標高1,200メートルほどで、夏でも平均で摂氏22度か23度である。私はホテルのエアコンを暖房の目的以外に使ったことはなかった。湿度は低く、非常に住みやすい。此処がアフリカかと思えるほどだ。首都のアンタナナリブから車で40分か50分も南に下ると、アンバトランビ村(アンチラベの少し手前)と云う冬場には氷が張る地域がある。夏(10月中旬から4月)でもその村を通過するときはひんやりとしている。住居の周囲には暖房用のマキがうず 高く積まれていた。だが、東西南北の海岸地帯はアフリカの名に恥じない暑さである。特に、北西部にあるマジュンガなどは冬(5月から10月初め)でも40度を何度も超える。低地の海岸地帯はマジュンガほどではないにしろ、とにかく暑い。だから人々はアンタナナリブに住みたがる。それで、アンタナナリブの人口は年々増えているそうだ。ホテルから見ると、かなり高い丘の上に住宅がびっしり建っている。後から来たから仕方なくあんな高い所に建てたと勝手に思い込んでいたが、そうではなく、彼らは1メートルでも高いところが好きらしい。従って、アンタナナリブの低い所に住んでいる人たちは後から移住してきた人たちである。云われてみると、ホテルのはるか下の方にあるアパートにメリナ族をそれほど多く見かけることはなかった。
公用語はマダガスカル語とフラン語である。英語はホテル内と取引相手、銀行、郵便局、それに官公庁の一部の人にしか通用しない。第二外国語としてフランス語をニ年間学んだが、覚えているのは「ジュ・テイム」(愛してるよ)とそれ以外は数語だけである。でも、何とかなるだろう、手真似も足真似もあるさと考えてマダガスカルにやって来た。

シャンドラニ・ホテル。モーリシャスの高級ホテルの中でも上位に入る高級ホテル。マレーシアのクアラランプールから夜中に着いて、マダガスカルのアンタナナリブ行の飛行機が出るのはモーリシャス時間(日本時間から5時間引く)で午前の11時だ。それまでホテルで仮眠しなければならない。素晴らしい朝食が用意されているのだが、ゆっくり味わうゆとりはない。遅くとも9時半にはホテルを出なければならない。アメリカみたいにデイユース(日帰り使用)の制度がないので、一泊分の料金を請求される。シングルで3万円ぐらい払った記憶がある。現在のこのホテルの価格は一泊6万円もする。このホテルを二度ほど利用したことがあるが、それ以外はもっと安いホテルか、到着時間によっては航空会社のエアー・モーリシャスが用意してくれるファーストクラス専用のラウンジで仮眠を取った。


11時40分にアンタナナリブ空港(上の写真二枚)に着く。モーリシャスとは丁度1時間の時差があるので、飛行時間は1時間40分である。ビルマと同じように、入国の際に所持金の申請を義務付けられているが、闇のマダガスカル・フラン(FMg)があるわけではないので、出国の際に金額が合わないことはなかった。顔なじみになってからは、財布を見せて「あるよ」と云えば、それ以上追及されることはなかった。

初めてマダガスカルに行ったのは1991年の10月の下旬だった。首都のアンタナナリブ市街がジャカランダで紫に染まっていた。日本で云うなら桜の咲く春であった。

アヌシィ湖(Lac Anosy、日本の地図には「アノジー」と書いてあるが、アヌシィが正しい)。名前は湖だが、池と云ったほうが良さそうな大きさである。アンタナナリブの西側にあり、近くには大きなサッカー場がある。この湖の北側の小高い所に旧大統領府、銀行、官公庁、ホテル、商業地、及び日本大使館がある。そして、それらを囲むように住宅地がある。

南米(主にブラジルとアルゼンチン)では、ジャカランダを銘木の一種として扱い、世界各地に輸出して重要な収入源としている。而し、マダガスカルでは桜と同じように、国民に愛される鑑賞用の木とされている。「気に入ったジャカランダがあれば、夜中に切ってきます」と冗談に云ってくれたマダガスカル人がいた。

晴れた日はブルーの空とジャカランダの花が水面に映り、アンデルセンの世界を見るようだった。

アンタナナリブもこの辺り(中心街近く)はやたらと坂道が多い。アヌシィ湖から中心街へ行く坂道。この坂を上りきって左に行くと、中心街の中心地に着く。

元の大統領府。マダガスカルの経済を立て直したラチラカ大統領がつい最近まで住んでいたと聞いている。

マダガスカル最大の銀行。通称BFV銀行。マダガスカル・フラン(FMg)への両替はこの銀行のお世話になっていた。また、当座預金の口座も開設した。

アンタナナリブの中心地。正面が元大統領府である。両側のビルにはスーツ姿の人たちが出入りしていたので、恐らく政府か大企業が使っているのだろう。私の定宿にしていたコルベール・ホテルは手前の道を左に行けば、すぐの処にある。また、日本大使館は右に行き、坂道を下って左に行けば、右側に大きな日の丸を掲げた大使館がある。


王宮へ向かう坂道から望んだアンタナナリブ市街。高いところほど高級な住宅が建っているのがお分かりだろうか。どうしたわけか、高いところが好きのようだ。

昔の王様が住んでいた王宮。理由は聞きそびれてしまったが、女王宮は20キロも離れたところにある。王様の寝室には日本の天皇家から送られたと云う壁紙が使われていた。残念なことに、この王宮は頭の狂った男に火をつけられて全焼してしまった。高い丘の上に建っていたので、アンタナナリブのどこからでも見えた。コルベール・ホテルからこの王宮までは結構な坂道を30分近くかけて登ったように覚えている。地方からアンタナナリブに戻ってくると、真っ先に目につくのがこの王宮の屋根だった。

チンバザザ動物園。マダガスカルの固有種である進化の遅れた猿の群れを見ているのだが、日本の動物園とは違い、彼等は座ってただじっと猿の群れを見ていた。動こうともしなかった。
Tsimbazaza Zooと表記されているため、日本の地図や旅行案内には「トサインバザザ動物園」と書かれているが、これは間違いである。チㇺバザザ動物園である。
また、首都のアンタナナリブはAntananarivoと書かれている。マダガスカル人はアンタナナリブと云っていたので、最後のvoをveと書くのが正しいと思っていたら、voが正しいと外務省の役人に云われた。マダガスカルには独自の文字がないため、ローマ字表記を取っているが、彼ら独特の発音がある。水を意味する「ラヌ」はranoと書く。従って、前述のLac Anosyをアヌシィと発音するのである。因みにlacとは、ご存じとは思うがフランス語で湖を意味する。マダガスカル語は18ある部族の全ての言葉が混ざっている。それで足りない言葉はフランス語で補っている。
国土は凡そ日本の1.6倍で、1.8倍のビルマよりやや小さい。日本ではマダガスカル島と「島」をつけて呼ぶが、日本より大きい国なのである。而し、人口は日本の約一割弱(1990年の統計)と非常に少ない。部族は18あるが、ビルマと違って部族間の争いはない。せいぜい選挙で闘うぐらいである。昔は異部族との婚姻は不幸を呼ぶとの迷信があったと聞くが、最近では異部族同士の婚姻はそれほど珍しいことではなくなった。現に、私がマダガスカルに通い続けていたときにずっと手助けをしてくれたアンセルメ・ジャオリズィキー氏(商務省の課長、のちにアメリカ大使館の職員)はアフリカ系のサカラバ族であるが、奥さんはメリナ族である。マダガスカルで一番多い部族はメリナ族で、約330万人である。メリナ族は1,500年ぐらい前にポリネシア(主にインドネシアやマレー半島)から渡ってきた民族である。メリナとは「ストレート・ヘアー」、即ちまっすぐな髪の毛の意味だそうだ。次に多いのは、アフリカ系のベツミサラカ族(一致団結の意がある)で約200万人。アンセルメ・ジャオリズィキー氏の所属するサカラバ族は南西の海岸地帯を本拠にし、人口は約75万人である。メリナは首都のアンタナリブを本拠地にし、ベツミサラカは東北の海岸地帯を中心に居住している。昔は各部族がきちんと棲み分けをしていたが、現在は居住地にそれほど拘っていないようである。而し、死後は確実に先祖の土地に葬られることを願望している。
首都のアンタナリブは標高1,200メートルほどで、夏でも平均で摂氏22度か23度である。私はホテルのエアコンを暖房の目的以外に使ったことはなかった。湿度は低く、非常に住みやすい。此処がアフリカかと思えるほどだ。首都のアンタナナリブから車で40分か50分も南に下ると、アンバトランビ村(アンチラベの少し手前)と云う冬場には氷が張る地域がある。夏(10月中旬から4月)でもその村を通過するときはひんやりとしている。住居の周囲には暖房用のマキがうず 高く積まれていた。だが、東西南北の海岸地帯はアフリカの名に恥じない暑さである。特に、北西部にあるマジュンガなどは冬(5月から10月初め)でも40度を何度も超える。低地の海岸地帯はマジュンガほどではないにしろ、とにかく暑い。だから人々はアンタナナリブに住みたがる。それで、アンタナナリブの人口は年々増えているそうだ。ホテルから見ると、かなり高い丘の上に住宅がびっしり建っている。後から来たから仕方なくあんな高い所に建てたと勝手に思い込んでいたが、そうではなく、彼らは1メートルでも高いところが好きらしい。従って、アンタナナリブの低い所に住んでいる人たちは後から移住してきた人たちである。云われてみると、ホテルのはるか下の方にあるアパートにメリナ族をそれほど多く見かけることはなかった。
公用語はマダガスカル語とフラン語である。英語はホテル内と取引相手、銀行、郵便局、それに官公庁の一部の人にしか通用しない。第二外国語としてフランス語をニ年間学んだが、覚えているのは「ジュ・テイム」(愛してるよ)とそれ以外は数語だけである。でも、何とかなるだろう、手真似も足真似もあるさと考えてマダガスカルにやって来た。

シャンドラニ・ホテル。モーリシャスの高級ホテルの中でも上位に入る高級ホテル。マレーシアのクアラランプールから夜中に着いて、マダガスカルのアンタナナリブ行の飛行機が出るのはモーリシャス時間(日本時間から5時間引く)で午前の11時だ。それまでホテルで仮眠しなければならない。素晴らしい朝食が用意されているのだが、ゆっくり味わうゆとりはない。遅くとも9時半にはホテルを出なければならない。アメリカみたいにデイユース(日帰り使用)の制度がないので、一泊分の料金を請求される。シングルで3万円ぐらい払った記憶がある。現在のこのホテルの価格は一泊6万円もする。このホテルを二度ほど利用したことがあるが、それ以外はもっと安いホテルか、到着時間によっては航空会社のエアー・モーリシャスが用意してくれるファーストクラス専用のラウンジで仮眠を取った。


11時40分にアンタナナリブ空港(上の写真二枚)に着く。モーリシャスとは丁度1時間の時差があるので、飛行時間は1時間40分である。ビルマと同じように、入国の際に所持金の申請を義務付けられているが、闇のマダガスカル・フラン(FMg)があるわけではないので、出国の際に金額が合わないことはなかった。顔なじみになってからは、財布を見せて「あるよ」と云えば、それ以上追及されることはなかった。

初めてマダガスカルに行ったのは1991年の10月の下旬だった。首都のアンタナナリブ市街がジャカランダで紫に染まっていた。日本で云うなら桜の咲く春であった。

アヌシィ湖(Lac Anosy、日本の地図には「アノジー」と書いてあるが、アヌシィが正しい)。名前は湖だが、池と云ったほうが良さそうな大きさである。アンタナナリブの西側にあり、近くには大きなサッカー場がある。この湖の北側の小高い所に旧大統領府、銀行、官公庁、ホテル、商業地、及び日本大使館がある。そして、それらを囲むように住宅地がある。

南米(主にブラジルとアルゼンチン)では、ジャカランダを銘木の一種として扱い、世界各地に輸出して重要な収入源としている。而し、マダガスカルでは桜と同じように、国民に愛される鑑賞用の木とされている。「気に入ったジャカランダがあれば、夜中に切ってきます」と冗談に云ってくれたマダガスカル人がいた。

晴れた日はブルーの空とジャカランダの花が水面に映り、アンデルセンの世界を見るようだった。

アンタナナリブもこの辺り(中心街近く)はやたらと坂道が多い。アヌシィ湖から中心街へ行く坂道。この坂を上りきって左に行くと、中心街の中心地に着く。

元の大統領府。マダガスカルの経済を立て直したラチラカ大統領がつい最近まで住んでいたと聞いている。

マダガスカル最大の銀行。通称BFV銀行。マダガスカル・フラン(FMg)への両替はこの銀行のお世話になっていた。また、当座預金の口座も開設した。

アンタナナリブの中心地。正面が元大統領府である。両側のビルにはスーツ姿の人たちが出入りしていたので、恐らく政府か大企業が使っているのだろう。私の定宿にしていたコルベール・ホテルは手前の道を左に行けば、すぐの処にある。また、日本大使館は右に行き、坂道を下って左に行けば、右側に大きな日の丸を掲げた大使館がある。


王宮へ向かう坂道から望んだアンタナナリブ市街。高いところほど高級な住宅が建っているのがお分かりだろうか。どうしたわけか、高いところが好きのようだ。

昔の王様が住んでいた王宮。理由は聞きそびれてしまったが、女王宮は20キロも離れたところにある。王様の寝室には日本の天皇家から送られたと云う壁紙が使われていた。残念なことに、この王宮は頭の狂った男に火をつけられて全焼してしまった。高い丘の上に建っていたので、アンタナナリブのどこからでも見えた。コルベール・ホテルからこの王宮までは結構な坂道を30分近くかけて登ったように覚えている。地方からアンタナナリブに戻ってくると、真っ先に目につくのがこの王宮の屋根だった。

チンバザザ動物園。マダガスカルの固有種である進化の遅れた猿の群れを見ているのだが、日本の動物園とは違い、彼等は座ってただじっと猿の群れを見ていた。動こうともしなかった。
Tsimbazaza Zooと表記されているため、日本の地図や旅行案内には「トサインバザザ動物園」と書かれているが、これは間違いである。チㇺバザザ動物園である。
また、首都のアンタナナリブはAntananarivoと書かれている。マダガスカル人はアンタナナリブと云っていたので、最後のvoをveと書くのが正しいと思っていたら、voが正しいと外務省の役人に云われた。マダガスカルには独自の文字がないため、ローマ字表記を取っているが、彼ら独特の発音がある。水を意味する「ラヌ」はranoと書く。従って、前述のLac Anosyをアヌシィと発音するのである。因みにlacとは、ご存じとは思うがフランス語で湖を意味する。マダガスカル語は18ある部族の全ての言葉が混ざっている。それで足りない言葉はフランス語で補っている。