~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

依知(えち)神社(神奈川県厚木市)

2018-05-02 18:41:03 | ・神社・お寺

2018.4.28 神奈川の神社を巡りました。まずは大きなイチョウがあるという依知神社へ。

大きなイチョウは神社と道路を挟んで反対側にドカ~~~~ンと立っていました。

ものすごい存在感でした。異様なほどの気根(乳状下垂)も迫力満点でした。雄花もたくさん落ちていました。

厚木市指定天然記念物 依知神社のイチョウ 昭和43年11月30日指定
依知神社は、古くは「赤城明神社」といい、依知郷全体を守る総鎮守社と伝え、イチョウも神社の神木として地元の人々に
よって大切に守られています。

この二本のイチョウは、神社の由緒によると、鎌倉幕府の二代征夷大将軍に任ぜられた源頼家が、神社の建物を再建し、その
記念として境内に植えたものであると伝えられています。

現在は、神社とイチョウとの間に県道が通っていますが、昔は一体の神社の境内にあり、イチョウのほかにもタブ・エノキ・
ケヤキなどの大きな木がおい茂っていたようです。看板より

源頼家が植えたとなると、樹齢は800年を越えますね。昔は静しずかな夜に、水を吸すい上げる音が聞こえたと伝つたえられ
ています。 

黄葉時も美しいでしょうね。

拝殿の装飾彫刻の獅子? 眼が動きそうです。

依知神社の沿革
縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来たのである。

第五十代桓武天皇六代の後裔平将門公関東平定の節当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前に熟視され赤城山神馬献進の託宣を
給い忽ち堅牢なる護岸の完成が実現したのである。
之に感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして天慶元年(937)社殿を再建し、赤城明神社と称したのである。

建久三年(1192)源頼朝公鎌倉幕府を創設せられるや当社に沿革由緒に深く感銘され、拾万余坪に及ぶ 社領を寄進されたという。
その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にして 現代に遺す程の広大なる土地であった。

続いて鎌倉幕府第二代将軍源頼家公は建仁二年(1202)当社の社殿 再建記念に銀杏を寄進されたという。それが現在厚木市
指定天然記念物の神木大銀杏である。

天正十九年(1591)徳川家康公は、当社の由緒経緯と氏子の誠意に深く感動され、御朱印壱石を下賜された のである。以来
依知郷の郷社として祭礼も盛大に行なわれ、金田村までも神輿が渡御したと伝承されている。

明治四年広大な社領も維新の大改革により上知となり、ついで社地の払い下げを得て同二十七年七月十九日に 依知神社と
社号を改名し現代に至っているのである。 当社は上記の通り千有余年の往古ささやかな一農村の守護神として創建され、
霊験あらたかに郷土発展の 支柱となり、氏子住民は言うに及ばず他地域有名人の崇敬も受けて来たのである。その間
天変地異栄 枯盛衰の試練に堪えて祖先は、新築造営、維持修繕を幾度も繰り返し神社を護ってきたのである。

昭和現代の今ここに氏子崇拝者一同の絶大なる浄財の集結を得て、荘厳なる社殿増改築 を完遂したのである。 神社殿の
大前に益々諸難や治安の守護神とし、又五穀豊穣 大願成就 家業繁昌の神として、地域住民 の福祉安泰を鎮守されるよう
畏み畏み祈願するものである。 昭和五拾七年四月二十五日依知神社社殿改築造営の竣工に当たり記念碑を建立し、当社の
沿革由緒を延べ後 余に伝える次第である。境内の記念碑より

境内社の狹水神社
祭神は水の神罔象女の命である 寛文七年(1667)水天宮として幹線水路一関の所に地区農民により祀られた。
その後元地元年(1864)依知神社境内に安置され相模川の水害を防除し依知地区水田の潅漑用水を守り 耕作農民の生活安全と
豊作を守護している。
明治末期入之藪水利組合が設立されると共に狹水神社と改命し秋の祭日には農民の代表が参列して祭事を行っている。境内看板より

境内裏手

二十三夜塔
庚申講(こうしんこう)と同じく民間信仰のひとつとして、人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が
集まり、飲食をし、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事(月待行事)を行い、その記念や供養のあかし
として建てられたもので、月待塔ともいいます。

交通量の多い相模川のほとりに佇む神社でした。今となっては境内敷地は相当削られてしまっていると思われますが、
大イチョウを含め、存分にタイムトリップのできる空間でした。それにしても神社巡りをしていると様々な神社があり、
まったく飽きることがありませんね。こりゃ、こっちの世界に居る限り楽しめそうだと改めて思ったのでした^^

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高虫氷川神社(埼玉県蓮田市)

2018-05-02 07:20:33 | ・神社・お寺

2018.4 高虫氷川神社へ詣でました。

拝殿

天朝神社

門客神社

http://blog.livedoor.jp/abnab1-minuma/archives/46511187.html
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1896.html

天朝神社、門客神社・・・あまり聞いたことのない神社だと思い少しググってみました。二つの神社に関しては上記様のブログ
に考察されています。

「境内社には,摂社と末社がある。摂社には、主神と縁故関係が深い神がまつられており、末社は、主神に従属する小祠である
場合が多い。客神の場合は,この両者とも異なり、主神のまつられている拝殿の一隅に
まつられたり、〈門(かど)客神〉と
称され随神のような所にまつられ、まだ独立の祠をもっていないことが特徴である。

東北・関東の〈荒脛巾(あらはばき)神〉、南九州の〈門守(かどもり)神〉などはその一例だが、なかには普通の境内社
より大きな一社を別個にたててまつる例もある。客神はちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外界からきた来訪神
を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形である。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が
霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられている。氷川神社の門客神神社、
気比神宮の角鹿(つぬが)社、厳島神社の客神社、美保神社の客人神社などは、有名な大社にまつられた客神の代表例である。

だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである。これらのことを
根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説もある。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1896.html 様より」

「当社は、十七世紀の終わり頃、武蔵国一之宮氷川社を勧請したと伝えられており、享保四年(1719)に今の境内地が確定した
といわれている。昭和十九年(1944)に氷川社から氷川神社へと改称した。本殿は、元文三年(1738)に建築され、その後、
慶応元年(1865)に解体修理された。氷川神社は武運長久の神として知られ、建速須佐之男命・大己貴命・奇稲田姫命を合祀する。」

民家、田んぼの隣接する守られた雑木林が境内になっています。このような境内も自然体で良いですね。す~っと身体に馴染む
感じです。山中に居るような柔らかな空気・空間でした。そんな中に静かに重厚な本殿がひっそりと佇んでいたのでした。

本殿に施された見事な彫刻。
http://d.hatena.ne.jp/shousin/20170503/1493813265 様によると、
「二十四孝の彫刻」のようです。「二十四孝(にじゅうしこう」は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた
人物24人を取り上げた書物。「孝行」とは父母によく仕える行為。子の親に対する道徳。家族制度を基盤とする儒教
道徳の基本。日本では近世封建社会以後,生活規範として確立され重視された。


ところで、あちこちの神社へ参拝巡りをしていると随身門、拝殿、本殿などの見事な彫刻が目に飛び込んでくる。神社
だけでなく仏閣もそう。
なぜ彫刻を施すのか(どんな思いを込めて)?どんな彫刻があるのか?ちょっと調べてみました。

寺社彫刻は、じっくり見ると、いろんな発見があって楽しいのである。 モチーフとなっているのは、仏教、神道だけでなく、
道教や儒教の説話、国生み神話、中国の故事、義経伝説などのほか、龍や鳳凰(ほうおう)、獅子などの霊獣、動物、花鳥、
そして庶民の暮らしを描いたものや、珍しいところでは明治政府の憲法発布の場面が彫られた神社もあるという。
https://www.sankei.com/entertainments/news/141015/ent1410150004-n2.html

というわけで、寺社彫刻には様々な装飾彫刻のモチーフはあるようです。

「寺社の装飾彫刻  若林 純」という写真集があるようです。今度見てみよう!

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