「・15のライフレッスンbyキューブラーロス」カテゴリーからの投稿です。
死の間際に限らず、どんな時でも、人は自分を明け渡す事によって、限りない平和を
見い出す事ができます。ところが不幸にも、私たちの多くは明け渡しを恐れています。
屈服すること、諦めることを「負け犬」のしるしだと思っているのです。しかし、明
け渡しは負け犬のしるしではありません。全ては大丈夫だ、全てうまくいくという想
念に自分を明け渡す事の中には、慰めと力があります。
病気や喪失の最中に「すべてよし」と思うためには、相当な信仰心を必要とします。
些細な出来事に対してさえ、自分を明け渡すことは難しいからです。人生の大半の事
は自然にうまくいっているものだという事実に気づくまでは、成り行きに任せる事に
は抵抗をおぼえます。しかし、たえず仕事や人間関係や状況の主導権を握っている必
要など、本当はどこにもないのです。人生はなるべくしてなるように展開しているも
のだという事に気づけば、自然に肩の力が抜けてくるのです。
あなたに必要なのは、「助け」ではなく「明け渡し」と「受容」なのです。そして、
私たちが自分を明け渡す事を恐れている相手は、実はこの宇宙の力そのものなのです。
では、どのようにして自分を明け渡せばいいのでしょうか?どうすれば戦いがやめら
れるのでしょうか?綱引きゲームを終わらせるときと同じ・・・手を放せばいいだけ
です。自分が向いている方向に向って手を放せばいい。神を信じ、宇宙を信じること
を学び始めたときに、初めて本当のリラックスが訪れます。
手を放すということは、物事がこうなるべきだとするイメージを捨て去り、宇宙がも
たらしているものを受け容れることです。物事がこうなるべきだなど、本当は解らな
いのだという真理を受け容れる事だといってもいい。死の床にある人たちは人生を振
り返って、その事を学びます。「よくない」状況が結局はよりよい結果につながり、
「いい」と思っていた事が、必ずしも最良ではなかった事に気づきます。
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「自分を明け渡す」という言葉は、スゴイ表現ですよね。明け渡す相手は、大いなる宇宙や
神ということでしょう。
よく「病気と闘う」という言葉を聞きますが、最近では「病気と仲良くなる」とか「病気に寄り
添う」という言葉も聞かれるようになりました。
これらの言葉も「明け渡す」序章のような気がします。
「屈服する」「諦める」「負ける」は、否定的であり、屈辱的であって自我の心の表現である
ように思いますが、同じような病の中にいて「明け渡す」や「身を任す」は、穏やかであり、
自我の解放であり、祈りに向かう積極的な行動のように思います。
「自我の強さ」=「主導権を握る」ということでしょう。これを手放せば、ラクに生きられると
いうことに繋がるのでしょう。
敵対する相手を認める。「汝の敵を愛せよ」です。病に対しても、この言葉が応用できる
のですね。
私たちは、安定を求めます。そこに心の安寧があると思っています。しかし、時間は流れま
す。物事は全て流動的です。物事がこうなるべきだなど、本当は解らないのだという真理
を受け容れる事・・・・そのとき、本当の安寧が得られるという事なのでしょう。
気がしますね・・・。
我を捨てて、如来の他力に身を任せること。
あるがままを受け入れること。
これも普遍的真理なのでしょうね。
振り返った時、如何に自分が神仏などの見えない世界の
力や家族に支えられ守られて来たことかと気付きました。
それで本当の意味の感謝と、これからの自分は大丈夫で
あるという不思議な安心感が生まれました。
この記事、ナイスタイミングでした。
「絶対他力」
たしかにそうかもしれませんね。
こうしていろいろな角度からレッスンを受けると、
わたしたちは、いかに「我」が強く、「我」で
生きているのが解ります。
もしかしたら、この世は
「我を生み、我を育て、我を捨てる世界」
といっていいのかもしれませんね^^
よしりんさん!よかったです^^
頭の中に違った回路が生まれましたね。
例えば、
人と比べたり、人を羨んだりする・・・
その気分を存分に味わい尽くして、その思いを
パッと手放す。→ゼロに帰す。
モリー先生の手法です^^
何故に自分の人生がこうなのか?
この執着している思いも味わい尽くして手放して
しまいましょう。
でも、もう大丈夫そうですね。
天から・・家族から・・素晴らしい気づきです。
私もいつも祈っていますよ。
ただ「どうぞ、お導きください」と。
たとえ、この世的に苦しい方向に導かれようとも、
手を広げて、すべてを受け入れますと^^