つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

進言餅

2013-04-02 14:39:35 | 日記
土日にそれなりに外出していたのだけれど、6枚のDVD「深夜食堂」を2日間で一気に観終わった。
甘いホットミルクのような、アサリのお味噌汁のようなドラマであった。

一話一話の出だしの映像とナレーションはいつも一緒だから、私は「カーネーション」を観ていたときに主題歌を飛ばすように、その部分を早送りをして観た。
それは趣のない見方だろうか。

その夜、ベッドの上でスマートフォンで色々と振り返りながら、飯島奈美さんの「LIFE」を買った。
丁寧な料理を作らない私が、丁寧な料理の本を買った。
丁寧な料理を作りたいと思うようになるといいなあと思う。

ちなみにけいこの肉じゃがは豚肉だった。
すき焼きは牛肉だった。
いずれにしても、どちらも私は自分で作らないし、肉は牛肉よりも豚肉が良い。

思い出というのが食べ物と一緒に色濃くあるというのはよくあることで、ある人にとってはものすごく良い思い出と食べ物が一緒にある場合も多いと思う。
その食べ物がものすごくおいしかった、という思い出に留まらず、誰かと一緒に食べた、とか、その場の雰囲気や景色だったりとか。
おいしい思い出というのはそのままイコールで幸せな思い出である。
ただ私には、食べ物にまつわるあまりよろしくない思い出というのも結構あったりする。

時系列を無視して今何の気なしに、すごくおいしい、すごく幸せな、を思い返すと、こうなる。
ちょっとだけ、飯島奈美さんのメニュー名風に。

フランスの公園で食べた、甘酸っぱい本場タルトシトロン。
ブラッスリー・グーの、誰でもリアクションが簡単な、とろける牛肉の煮込み。
ある人が作ってくれた、なんでこんなにおいしいの、の塩焼きそば。
翌日の昼下がり、ひとり陽だまりの中で食べた残り物鶏肉のミルク煮。
佐渡島帰りの新幹線、こんな風味は初めて、の栃餅。
つぼみちゃんが好きだから、と頼まなくても出してくれる板長味の野菜の炊き合わせ。
冷たい風の中で妹と分けた、熱々の今川焼だったか、肉まんだったか。
どうしても食べたくなるタイ料理、喉に少しの辛みが残るグリーンカレー。
今はなき中野のパン屋さんの、できたてほやほや、ほわほわメロンパン。
セブンイレブンの、はじめて大福に優しくされた、抹茶大福。

妹と分けたのが熱々のどちらかだったのかは思い出せない。
すごく寒くて、寒い中で食べたあの熱々のどちらかが喉を通って身体を温めたという記憶だけが濃い。

これを見て思うが、傾向があまり定まっていない。
ひとりなのか誰かといるのか、ごはんなのかデザートなのか、和なのか洋なのか、味付けなのか素材なのか、立っているのか座っているのか、それを繰り返し食べているかそうでないか。
様々なのである。
一つ言えるのは、小麦粉を使ったものが多いようには思う。

あと、すべてここ数年の間のものである。
幼い頃にそういう経験があったもよさそうなものだし、遠い記憶だから、というだけではないように思う。
感じることを封印していたということであれば、まあそういうことなのかと納得がいく。

ちなみにお酒類で、そういうふうに、ものすごく美味しいと思ったことは一度もない。

それにしても、けいこが作ったものがひとつも出てこない。
思い出せないわけではないのだけど、すごくおいしい、すごく幸せな、という形容詞を付けると入れられないのだ。
自分で作ったものは鶏肉のミルク煮だけであるが、あれは重要なのは「陽だまり」であるかもしれない。
あと、卵かけごはんや納豆ごはんなど、いつ食べてもそれなりに美味しい、というのはあるのだけど、こうして「すごくおいしい、すごく幸せな」と思うと外れてしまう。

私の五感の中で今のところあまり重要視されていないのが味覚であるのだけど、たぶんすごくもったいないことなんだろうなあと思う。
「何が食べたいか」とか「これは美味しいのか」とか、味わう、ということは気にかけたらもっとできるようになるのだろうか。