逆算をすると、土曜日までにとても7枚のDVDを見られそうにないので、試しに朝に見てみることにする。
私はいつも朝、20~30分くらいはコーヒーを飲みながらはなまるマーケットを見ながら音楽を聞いている。
ということで朝から「デスパレートな妻たち」を見る。
一話35分程度なのでやはり見れた。
朝にああいった内容がどうかと思ったが、朝も夜もさして変わらずテンポがいいので次が見たくなってしまうことには変わりがない。
とりあえず、今週はそのようにしようと思う。
ちきりんさんという実体が公には明かされてないブロガーが書いているビジネスマンに有名なブログを私も漏れず読んでいる。
私は仕事に役立つからというブログを好き好んで読むことはしない。
というか、それだけの理由で私は興味のない文章を読み続けることができない。
ちきりんさんは、文章がとても論理的で内容に一貫性と先進性がある。
そして、物事の捉え方と刺し方が鋭くて簡潔でとても分かりやすい。
池上彰の大人用簡略文章版、と私は思っている。
感じ入るようなことは書かれていないけれど、読み入ってのち、自分の考え事や行動に派生するきっかけを与えられることが多いブログである。
いいこと言うなあと、そう思って愛読させていただいている。
私はちきりんさんの執筆した本も買った。
紹介されている本も興味があれば買う。
ただ、この方を通じて買った本で「ものすごく良い」と思ったことは今のところ、ない。
書籍にするほどの長文でなくブログの1記事程度の量がちょうど良いようで、ちきりんさんの歯切れの良い文章を長文にするのは、その歯切れが長文ゆえに失われてしまうのだと思う。
ライターが数人いて記事を書いているという噂もあるみたいだが、私はこの紫のイラストの方がお一人で書いているものだと信じている。
この内容の一貫性や雰囲気を複数人のライターが、意図的に1個人に見えるようにコントロールして書いているのだとしたら、そのライターの方々は本当にすごいと思う。
書き手が本当にそう思っていないと書けない文章、というものは、あくまで読み手主観で、存在すると思うが、それがこの方の文章にはあると思う。
文章というのは、呼吸が関係していると思うし、単に敬体と常体を変えたり口調を操ることはできても、書き手から匂い立つ消せない何か、というものがあると思うのだ。
それがちきりんさんのブログで違和感を感じたことはない。
話は逸れるが、匂い立つ消せない何か、というのがおそらく“自分”というものなのだと思う。
文章然り書道然り絵画然り、何かしら表現物は、その“自分”をカモフラージュするのは技術でできるのだと思うけれど、それでも匂い立ってしまうものがある。
どんなに技術のある書家が法帖を臨書しても、法帖通りにならないのは“自分”が乗っかってしまうからだ。
まあ私の場合は、最近の私は特に、呼吸の赴くまま強く匂い立つ方向に、あえて意図的に、その練習という意味も込めてしているので気持ちが悪いくらいになる。
今日の記事を読んでまた、考えるのである。
自分の何かを生業にして食っていける、ということは、何にせよすごい。
とてもとても尊敬する。
ただ、食っていける、その先にあるものがおそらく本当に大事なものなのだと思う。
その本当に大事なものを手に入れるために、必ずしもそれに関連した何かを生業にする必要はない。
しかし、たぶんその本当に大事なものというのは、膨大な時間と労力の要ることで、ただの片手間で手に入らないだろうとは思う。
だから、その先の本当に大事なものを確かめずにいられなくなった人が、それを生業とするのだと思う。
そうでなければ、楽を作り上げる様々な小物で自分を飾り立てれば良い、気の済むように。
の前に、その先の本当に大事なもの、がある程度明確である必要はあって、それを知るまでがまず恐ろしく骨の折れることなのだと思う。
私はいつも朝、20~30分くらいはコーヒーを飲みながらはなまるマーケットを見ながら音楽を聞いている。
ということで朝から「デスパレートな妻たち」を見る。
一話35分程度なのでやはり見れた。
朝にああいった内容がどうかと思ったが、朝も夜もさして変わらずテンポがいいので次が見たくなってしまうことには変わりがない。
とりあえず、今週はそのようにしようと思う。
ちきりんさんという実体が公には明かされてないブロガーが書いているビジネスマンに有名なブログを私も漏れず読んでいる。
私は仕事に役立つからというブログを好き好んで読むことはしない。
というか、それだけの理由で私は興味のない文章を読み続けることができない。
ちきりんさんは、文章がとても論理的で内容に一貫性と先進性がある。
そして、物事の捉え方と刺し方が鋭くて簡潔でとても分かりやすい。
池上彰の大人用簡略文章版、と私は思っている。
感じ入るようなことは書かれていないけれど、読み入ってのち、自分の考え事や行動に派生するきっかけを与えられることが多いブログである。
いいこと言うなあと、そう思って愛読させていただいている。
私はちきりんさんの執筆した本も買った。
紹介されている本も興味があれば買う。
ただ、この方を通じて買った本で「ものすごく良い」と思ったことは今のところ、ない。
書籍にするほどの長文でなくブログの1記事程度の量がちょうど良いようで、ちきりんさんの歯切れの良い文章を長文にするのは、その歯切れが長文ゆえに失われてしまうのだと思う。
ライターが数人いて記事を書いているという噂もあるみたいだが、私はこの紫のイラストの方がお一人で書いているものだと信じている。
この内容の一貫性や雰囲気を複数人のライターが、意図的に1個人に見えるようにコントロールして書いているのだとしたら、そのライターの方々は本当にすごいと思う。
書き手が本当にそう思っていないと書けない文章、というものは、あくまで読み手主観で、存在すると思うが、それがこの方の文章にはあると思う。
文章というのは、呼吸が関係していると思うし、単に敬体と常体を変えたり口調を操ることはできても、書き手から匂い立つ消せない何か、というものがあると思うのだ。
それがちきりんさんのブログで違和感を感じたことはない。
話は逸れるが、匂い立つ消せない何か、というのがおそらく“自分”というものなのだと思う。
文章然り書道然り絵画然り、何かしら表現物は、その“自分”をカモフラージュするのは技術でできるのだと思うけれど、それでも匂い立ってしまうものがある。
どんなに技術のある書家が法帖を臨書しても、法帖通りにならないのは“自分”が乗っかってしまうからだ。
まあ私の場合は、最近の私は特に、呼吸の赴くまま強く匂い立つ方向に、あえて意図的に、その練習という意味も込めてしているので気持ちが悪いくらいになる。
今日の記事を読んでまた、考えるのである。
自分の何かを生業にして食っていける、ということは、何にせよすごい。
とてもとても尊敬する。
ただ、食っていける、その先にあるものがおそらく本当に大事なものなのだと思う。
その本当に大事なものを手に入れるために、必ずしもそれに関連した何かを生業にする必要はない。
しかし、たぶんその本当に大事なものというのは、膨大な時間と労力の要ることで、ただの片手間で手に入らないだろうとは思う。
だから、その先の本当に大事なものを確かめずにいられなくなった人が、それを生業とするのだと思う。
そうでなければ、楽を作り上げる様々な小物で自分を飾り立てれば良い、気の済むように。
の前に、その先の本当に大事なもの、がある程度明確である必要はあって、それを知るまでがまず恐ろしく骨の折れることなのだと思う。