花粉を防ぐメガネではなくて、花粉が見えるメガネがあればいいのに、と思う。
そうすれば全力で避けるし防ぐし、家の中に花粉を持ち帰らずにも済むだろう。
症状が出るまでにタイムラグがあるので、その時にものすごく飛散していたとしても、見えなければ全力で防ぐことが疎かになってしまうのだ。
そして、夜に後悔する。
しかしそう言えば、私は中学生の頃に花粉症を発症したが、山の中腹にある中学校には花粉が「ものすごく飛散して」いた。
CMのような花粉の飛散量は、あまりの量で黄色い粉塵が見えていた。
そんな中で、眼のかゆみで夜中に飛び起きるほどの花粉症を発症した。
しかしながらあの頃、あまり花粉症を激烈に発症している同級生が少なかったように思うのだが、なぜなのだろうか。
都会の方がアスファルトで花粉の行き場がないので花粉症は酷くなる、というような説があるけれど、まず飛散量の問題なので、私は東京にいる方が全くもって症状が軽い。
ということで、今年も花粉症が始まった。
粘膜全体がやられている感じがするので、眼や鼻だけではなく喉もかゆいし、顔全体がかゆい。
肌が荒れるし、体がだるい。
今のところヒノキ花粉には反応をしていないので、ここから1か月強と言ったところだろうか。
暖かくなるのはとてもありがたいけれど、初夏にジャンプしたい。
料理、というのも表現の世界だ。
私は料理を表現と思って作ったことはないけれど、料理人からしたら、とてもとても自分が滲むものであると思う。
ある領域までいくと、「何を書いても私の字になってしまう」「何を弾いても私の音になってしまう」とかいったことが起こるように、おそらく料理にも「何を作っても私の味になってしまう」ということが起こるだろうと思う。
素材や調味料やキッチン設備が異なっても、だ。
久しぶりに、あるお方の料理を食べて、しみじみとした気分になった。
割と込み入ったというか、底のない話をしながら食べていたけれど、それでも変わらないその人の人柄の味は十分に感じることができた。
野菜料理も、肉料理も、デザートまでも。
一言で言うのもどうかと思うけれど、一言でいうと、「やさしい」。
ただ何もかもが渾然一体となったふんわりとしたやさしさではない。
食べるとやさしくなれる気がする、といったやさしさでもない。
あくまで素材に寄り添った大きなやさしさ。
食べている人にも寄り添って、会話を少しだけ遮るくらいの「おいしいね」があるやさしさ。
化学調味料を使っているかどうかはしらないし、使っていても全く問題はないけれど、化学調味料特有の「THE 旨味!」といった感じを思い出さずに済むのに、ちゃんとじんわりとした旨味がある。
豚肉が豚肉で、鶏肉が鶏肉で、かぼちゃがかぼちゃ、白アスパラが白アスパラ、ゴボウがゴボウ。
ごく当たり前な感じで、きちんと素材が正座しているような。
その上、上質なおいしさを染み込ませ、纏い、寄り添う調味。
友人とは、普段あまりしない類の話をお互いに探りさぐりした。
共通していたのは、それぞれに、何か言葉にしがたい「納得」「腑に落ちた」という体験をしたということ。
それによって、ある少しの平和さを心に得たこと。
帰り際になってその話を始めたものだから詳細は聞けなかった。
お互いに、あまりに個人的な話なものだからいささか恐縮していた。
それを知ったところで、何か変わることはお互いにない。
でも、とても個人的なその事情を、お互いに諦めずに伝えようとすることが、ひとつの大事な人間関係の築き方であると、私は思っている。
窓を開け昼が美味しいふきのとう

そうすれば全力で避けるし防ぐし、家の中に花粉を持ち帰らずにも済むだろう。
症状が出るまでにタイムラグがあるので、その時にものすごく飛散していたとしても、見えなければ全力で防ぐことが疎かになってしまうのだ。
そして、夜に後悔する。
しかしそう言えば、私は中学生の頃に花粉症を発症したが、山の中腹にある中学校には花粉が「ものすごく飛散して」いた。
CMのような花粉の飛散量は、あまりの量で黄色い粉塵が見えていた。
そんな中で、眼のかゆみで夜中に飛び起きるほどの花粉症を発症した。
しかしながらあの頃、あまり花粉症を激烈に発症している同級生が少なかったように思うのだが、なぜなのだろうか。
都会の方がアスファルトで花粉の行き場がないので花粉症は酷くなる、というような説があるけれど、まず飛散量の問題なので、私は東京にいる方が全くもって症状が軽い。
ということで、今年も花粉症が始まった。
粘膜全体がやられている感じがするので、眼や鼻だけではなく喉もかゆいし、顔全体がかゆい。
肌が荒れるし、体がだるい。
今のところヒノキ花粉には反応をしていないので、ここから1か月強と言ったところだろうか。
暖かくなるのはとてもありがたいけれど、初夏にジャンプしたい。
料理、というのも表現の世界だ。
私は料理を表現と思って作ったことはないけれど、料理人からしたら、とてもとても自分が滲むものであると思う。
ある領域までいくと、「何を書いても私の字になってしまう」「何を弾いても私の音になってしまう」とかいったことが起こるように、おそらく料理にも「何を作っても私の味になってしまう」ということが起こるだろうと思う。
素材や調味料やキッチン設備が異なっても、だ。
久しぶりに、あるお方の料理を食べて、しみじみとした気分になった。
割と込み入ったというか、底のない話をしながら食べていたけれど、それでも変わらないその人の人柄の味は十分に感じることができた。
野菜料理も、肉料理も、デザートまでも。
一言で言うのもどうかと思うけれど、一言でいうと、「やさしい」。
ただ何もかもが渾然一体となったふんわりとしたやさしさではない。
食べるとやさしくなれる気がする、といったやさしさでもない。
あくまで素材に寄り添った大きなやさしさ。
食べている人にも寄り添って、会話を少しだけ遮るくらいの「おいしいね」があるやさしさ。
化学調味料を使っているかどうかはしらないし、使っていても全く問題はないけれど、化学調味料特有の「THE 旨味!」といった感じを思い出さずに済むのに、ちゃんとじんわりとした旨味がある。
豚肉が豚肉で、鶏肉が鶏肉で、かぼちゃがかぼちゃ、白アスパラが白アスパラ、ゴボウがゴボウ。
ごく当たり前な感じで、きちんと素材が正座しているような。
その上、上質なおいしさを染み込ませ、纏い、寄り添う調味。
友人とは、普段あまりしない類の話をお互いに探りさぐりした。
共通していたのは、それぞれに、何か言葉にしがたい「納得」「腑に落ちた」という体験をしたということ。
それによって、ある少しの平和さを心に得たこと。
帰り際になってその話を始めたものだから詳細は聞けなかった。
お互いに、あまりに個人的な話なものだからいささか恐縮していた。
それを知ったところで、何か変わることはお互いにない。
でも、とても個人的なその事情を、お互いに諦めずに伝えようとすることが、ひとつの大事な人間関係の築き方であると、私は思っている。
窓を開け昼が美味しいふきのとう

