今日(2/3)の市民集会で
澤藤統一郎の憲法日記
都教委の「10・23通達」は、反動知事の思いつきや、教育庁役人の迎合でたまたま出てきたという性質のものではありません。
時代の軋み、あるいは時代の褶曲から生じた断層の露出と、見るべきではないでしょうか。
改憲も戦争も、ある日突然にその日を迎えるわけではない。その事前に、無数の事実の積みかさねがあるはずです。その一つ一つに対する闘いが改憲や戦争を防ぐことになります。
そのような観点から、「10・23通達」はたいへん大きな改憲や戦争への一里塚であり、9・21判決は、その歯止めとして重要な意味を持つものと考えられます。
日の丸・君が代強制に抵抗して立ちあがった多くの教員が、「再び教え子を戦場に送ってはならない」という思いを口にされます。
戦前、戦争は教室から始まりました。戦争を企図する為政者は、必ず教育に介入し支配しようとします。いま、石原教育行政が企図しているものはまさしくその道です。
まずは、国家の命令に無批判に従う教員を作ること。無批判な教員は無批判な生徒を育てます。そうすれば、国家に都合のよいイデオロギーを、明日の国民に注入することができる。軍国主義でも、排外主義でも、選民思想でも‥。
国家に批判的な教員をあぶり出し、いじめ、追い出す。そのための踏み絵として、「10・23通達」が出され、日の丸・君が代強制は踏み絵の役割を果たしているのです。
憲法原則の貫徹は、為政者のこのような邪悪な意図への強力な歯止めとなります。9・21判決がその典型を示しています。
控訴審でも勝たねばなりません。予防訴訟だけではなく、君が代解雇訴訟も、再発防止研修も、そして嘱託不採用損害賠償事件もけっして負けることができません。
国家が教育を支配し、教育に介入することは許されない。この大原則は、今次の教育基本法改悪によっても、変わるところはありません。
政府は、国会審議において繰りかえし、旭川学テ大法廷判決の内容は法改正によって変化を受けないと明言しています。確かに、新法16条は「教育内容は法律によって決めることができる」としています。多数を恃んでの教育支配立法をたくらんでいるのでしょうが、立法が飽くまでも憲法の枠の中でなされねばならないことは自明で、その枠は学テ大法廷で制限されているのです。
憲法13条(生徒の人間としての尊厳)、26条(生徒の学ぶ権利の保障)、そして23条(生徒の権利を十全に発揮させるための教員の独立)から導かれる、教育の自由は既に確立した憲法原則です。この枠をはみ出るような、乱暴な教育立法は憲法違反としてできないものと言わざるを得ません。
教育基本法改悪は残念ではありますが、闘う武器は、十分に残されています。新たな悪法阻止の運動においても、裁判の場でも、気落ちすることなくがんばりましょう。
人間の尊厳を守り、真の主権者に相応しい国民の育成のために。平和と憲法を擁護するために。
2007年02月03日(土)23:58 この記事のURL 日記 澤藤統一郎
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/sawafuji/
澤藤統一郎の憲法日記
都教委の「10・23通達」は、反動知事の思いつきや、教育庁役人の迎合でたまたま出てきたという性質のものではありません。
時代の軋み、あるいは時代の褶曲から生じた断層の露出と、見るべきではないでしょうか。
改憲も戦争も、ある日突然にその日を迎えるわけではない。その事前に、無数の事実の積みかさねがあるはずです。その一つ一つに対する闘いが改憲や戦争を防ぐことになります。
そのような観点から、「10・23通達」はたいへん大きな改憲や戦争への一里塚であり、9・21判決は、その歯止めとして重要な意味を持つものと考えられます。
日の丸・君が代強制に抵抗して立ちあがった多くの教員が、「再び教え子を戦場に送ってはならない」という思いを口にされます。
戦前、戦争は教室から始まりました。戦争を企図する為政者は、必ず教育に介入し支配しようとします。いま、石原教育行政が企図しているものはまさしくその道です。
まずは、国家の命令に無批判に従う教員を作ること。無批判な教員は無批判な生徒を育てます。そうすれば、国家に都合のよいイデオロギーを、明日の国民に注入することができる。軍国主義でも、排外主義でも、選民思想でも‥。
国家に批判的な教員をあぶり出し、いじめ、追い出す。そのための踏み絵として、「10・23通達」が出され、日の丸・君が代強制は踏み絵の役割を果たしているのです。
憲法原則の貫徹は、為政者のこのような邪悪な意図への強力な歯止めとなります。9・21判決がその典型を示しています。
控訴審でも勝たねばなりません。予防訴訟だけではなく、君が代解雇訴訟も、再発防止研修も、そして嘱託不採用損害賠償事件もけっして負けることができません。
国家が教育を支配し、教育に介入することは許されない。この大原則は、今次の教育基本法改悪によっても、変わるところはありません。
政府は、国会審議において繰りかえし、旭川学テ大法廷判決の内容は法改正によって変化を受けないと明言しています。確かに、新法16条は「教育内容は法律によって決めることができる」としています。多数を恃んでの教育支配立法をたくらんでいるのでしょうが、立法が飽くまでも憲法の枠の中でなされねばならないことは自明で、その枠は学テ大法廷で制限されているのです。
憲法13条(生徒の人間としての尊厳)、26条(生徒の学ぶ権利の保障)、そして23条(生徒の権利を十全に発揮させるための教員の独立)から導かれる、教育の自由は既に確立した憲法原則です。この枠をはみ出るような、乱暴な教育立法は憲法違反としてできないものと言わざるを得ません。
教育基本法改悪は残念ではありますが、闘う武器は、十分に残されています。新たな悪法阻止の運動においても、裁判の場でも、気落ちすることなくがんばりましょう。
人間の尊厳を守り、真の主権者に相応しい国民の育成のために。平和と憲法を擁護するために。
2007年02月03日(土)23:58 この記事のURL 日記 澤藤統一郎
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/sawafuji/
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