=多田謡子反権力人権賞受賞=
◆ 北村小夜さんが語る戦前・戦中と現代教育の共通性 (紙の爆弾)
受賞者の北村小夜さん(中央)と青木惠子さん(右から2人目)
一九八六年に二十九歳で夭折(ようせい)した人権派弁護士・多田謡子氏。その先輩や友人らが創設した多田謡子反権力人権賞の第32回受賞発表会が二〇二〇年十二月十九日、東京・神田駿河台の連合会館で開かれ、北村小夜(さよ)さん、宮城秋乃(あきの)さん(米軍沖縄北部訓練場での軍事廃棄物撤去闘争。ビデオ出演)、青木惠子さん(冤罪との闘い、冤罪被害者支援活動)の三人が受賞した。
今回は紙幅の関係で北村さんに絞り、当日の講演と講演後の取材、および筆者の過去の取材(一七年二月五日の講演)を元に、彼女を軍国少女に仕立て上げた戦前・戦中の偏向教育の実態をレポートする。
そして政府・保守政党・〝高級〟官僚らが国家主義教育を進めている現代の教育に、私たちがどう対処していくべきかを、彼女の言葉から考えたい。
北村さんは、治安維持法が公布・施行された一九二五(大正十四)年に福岡県久留米市で生まれ、軍国少女として育ち、二十歳で敗戦を迎えた。
◆ 軍国少女時代の体験
北村さんが小学校入学直前、第一次上海事変中の三二年(昭和七)二月、中国軍の陣地に張った鉄条網などを旧日本軍(以下、日本軍)が破壊する作戦で、日本兵三名が爆弾を抱え突撃し、戦死した。
この“爆弾(肉弾)三勇士”の内実は現代では信憑性を疑問視する見方があるが、当時の御用新聞は“軍国美談”として大々的に報道。旧文部省は国定教科書に載せ、歌や映画もできた。
“爆弾三勇士”は、北村さんが住んでいた久留米市の工兵隊から出征したので、“功績”を讃える旗行列が行なわれた。
家族はこれに参加するつもりはなかったが、町内のおじさんが束にした日の丸の小旗を持って来た。「家族揃ってが無理なら、お嬢さんだけでもいいですよ」と誘い、幼児だった北村さんに小旗を持たせ“動員”する。
おじさんは北村さんを高く抱え、大勢の人々が振る旗を見せた。北村さんは「上から見る旗の波は美しく、日の丸が好きになってしまった。軍国少女の始まりだった」と言う。
そして、「(現代の)年始等、皇居一般参賀の報道が映し出す日の丸の波は、(皇族が並び立つ)上方からはどう見えるのだろうか」と投げかけた。
三一年九月十八日、日本軍(関東軍)は満州(現・中国東北部)の奉天(現・瀋陽(しんよう)市)近郊の柳条(りゅうじょう)湖付近で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍による犯行と発表。約六カ月で満州全土を占領した(満州事変)。
この後、三七年七月七日の盧溝橋事件を端緒に、日本は全面的な日中戦争に突入する。
北村さんが小学校で学んだのは、三二年四月~三八年三月。綴り方(作文)の時間、教員は「満州の兵隊さんに手紙を書こう」と言い、「極寒のみぎり、さぞ匪賊(ひぞく)討伐も困難のことと思います」との文言で書き出すよう指導した。教員は“良い”慰問文を校内に貼り出していた。
北村さんも貼り出されて得意になり、指導される通りの慰問文を書くようになった、という。
北村さんは「中国には、匪賊(悪い人)がいる、だから討伐するんだと思っていた。でも今考えれば、中国の人たちは、日本の侵略から祖国を守ろうとした愛国者だったんです。こういうのが“教育”というもの。児童に書かせていたのは、学校に頼まないと(軍部は)数を稼げないから」と語る。
なお図工では、戦車や戦闘機を描いたり模型を作った。軍事一色の皇民化教育だったのだ。
◆ 戦中の式典を模す現代の都教委流卒業式
小学校での、御真影(しんえい、天皇と皇后の写真)と教育勅語とを納める“奉安殿(ほうあんでん)”(地震・火災・空襲に耐えられる構造)の建築は、三五年ごろ活発になった。
学校行事のうち、四大節(一月一日の四方拝、二月十一日の紀元節、四月二十九日の天長節、十一月三日の明治節)には、この奉安殿から運ばれた御真影の前で、児童は起立し“君が代”を歌わされた。そして校長が宮城(きゅうじょう、皇居)を遙拝し、教育勅語を厳かに読み上げる間も、児童は起立し頭を下げて聞いていなければならないので、“奉読”前後には多くの鼻水を畷(すす)る音がする。
現在の東京都教育委員会は、〇三年の“10・23通達”発出以降、周年行事・卒業・入学式等で、校長から“君が代起立”等の職務命令を出させ、「不起立したら懲戒処分にする」と教職員を脅している。
そして式場内の教職員全員が壇上正面の日の丸に向かって起立し斉唱(監視を兼ね派遣する幹部職員と校長には登降壇時、かつて御真影を掲げていた位置に掲げる日の丸への敬礼も強制)する姿を“範”に、児童・生徒も全員起立・斉唱させるよう、強制をさらに強化し続けている。
「御真影・教育勅語への敬意表明」を徹底された北村さんは、「『天皇の前で式典が行なわれているんだよ』と印象付ける意味で、今の都教委のやり方は戦前・戦中の儀式的行事を模している」と警鐘を鳴らした。
北村さんは三八年四月、福岡県立高等女学校(高女)に入学(当時、入試制度が突如変わって筆記試験はなくなり、口頭試問と体力検査のみとなった)。
四一年の四年生時、北村さんに教員が敵国だった“鬼畜米英”のポスターを描くよう声をかけた。
北村さんは画用紙にルーズベルトとチャーチルの顔を描き、さらに彼らの体を肉挽き器に入れハンドルを回すと、血を滴らせミンチ状の肉となって落ちてくる、という様子を絵にして提出した。
しかし、軍国少女の“勇ましさ”を発揮したこの絵を教員は受け取らず、返したという。
戦争は教え子の人道性・人間性を奪う。そのことに「自ら関わっていると気付いたから、返した」のであれば、“御用教員”にも良心のカケラが残っていた、と言えるだろう。
なお高女時代には、“防空演習”があった。北村さんも体育の授業では薙刀(なぎなた)を持ち、献身奉公・攻撃精神がみなぎった、と回想する。
海軍予備学生のボーイフレンドには「この世で会えなければ靖国で」と言われた。
そこで自分も“国”に命を捧げ靖国神社に祀られようと、高女卒業後、京城(現ソウル)赤十字救護看護婦養成所に入学。二年で従軍看護婦(関東軍付)になり、満州に派遣された。
前記した幼児期の旗振り“動員”に始まり、日本軍が侵略した国での“従軍”までの人生を踏まえ、北村さんは「プロパガンダに取り込まれた恨みを晴らすとともに、戦争推進の役割を果たした私の責任も明らかにする」と、『画家たちの戦争責任』(梨の木舎)で述べている。
◆ 「修身」と「道徳」に通底する。“愛国心”教育
戦前・戦中の修身は、「一旦緩急(かんきゅう)アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ」(有事には国のため生命を投げ出し、永遠の皇国を支えよう)とした教育勅語の十二の徳目を目標とし、その要は“愛国心=国家への忠誠心”の教化だった。
北村さんが教え込まれた小1の修身・国定教科書は、仮名を学習する時期の十五課までは絵だけで、初めて片仮名が出てくる十六課は「テンノウヘイカバンザイ」、十七課は「日清戦争で木口小平(きぐちこへい)は死んでもラッパを口から離さなかった」という作り話だ。
四五年八月の敗戦後、北村さんは中国の八路軍に随行させられ、翌年夏に帰国後、久留米市立商業学校の理科教員となる。
五〇年六月から八六年三月の定年まで東京都の公立小・中学校で教員を続けた(六五年以降は障害児学級の担任)。
旧文部省は四七年三月二十日に学習指導要領(以下、指導要領)を出したが、これは「試案」であり、法的拘束力など主張していなかった。
その序論は「いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる。(略)これまでとかく上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおりに実行するといった画一的な傾きがあったのが、こんどはむしろ下の方からみんなの力で、いろいろと、作りあげて行くようになって来た(略)。これまで(略)その内容を中央できめると、それをどんなところでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしても(略)画一的になって(略)創意や工夫がなされる余地がなかった」と明記している。
しかし、五八年十月一日、旧文部省が指導要領を、「大綱的」という語は冠しつつも「基準」とした。そこから教育は大きく悪い方向に変わった、と北村さんは言う。
道徳の時間を新設したこの五八年指導要領は、「日本人としての自覚をもって国を愛し」という文言を堂々と載せた。
文科省は一五(平成二十七)年に道徳を教科化。一七年改訂の現行指導要領も、“国を愛する態度”の項に全く同じ文言を盛っている。
そして本誌一八年四月号で述べたとおり、日本会議系団体の理事らが執筆した教育出版の小学校道徳教科書(八木秀次氏が関与している“日本教科書”発行の中学校道徳教科書も)や一部小中高等の教員は、前記修身教科書に通底する国家主義教育を、堂々と行なっているのだ。
軍国少女だった北村さんだが、「現人神(あらひとがみ)と教え込まれた天皇は人間ではないのか」などと悩み、担任教員に「修身教科書に書いてあることは皆、本当のことですか?」と質問したことがある。
担任は驚愕しつつ「本当に決まっています。そんなこと考えて勉強していたの?がっかりした」と答えたという。
この時の北村さんのように、現代の文科省や都教委等の一部誤った政策にきちんと疑問を抱き、改変を求めたり拒否したりする力を持つ児童・生徒が一人でも多く出て、教育基本法を元に戻せる政治を作っていくよう、筆者も取材・執筆活動に適進していく。
※ 永野厚男(ながのあつお) 文科省・各教委等の行政や、衆参・地方議会の文教関係の委員会、教育裁判、保守系団体の動向などを取材。平和団体や参院議員会館集会等で講演。
『紙の爆弾』(2021年3月号)
◆ 北村小夜さんが語る戦前・戦中と現代教育の共通性 (紙の爆弾)
取材・文 . 永野厚男
受賞者の北村小夜さん(中央)と青木惠子さん(右から2人目)
一九八六年に二十九歳で夭折(ようせい)した人権派弁護士・多田謡子氏。その先輩や友人らが創設した多田謡子反権力人権賞の第32回受賞発表会が二〇二〇年十二月十九日、東京・神田駿河台の連合会館で開かれ、北村小夜(さよ)さん、宮城秋乃(あきの)さん(米軍沖縄北部訓練場での軍事廃棄物撤去闘争。ビデオ出演)、青木惠子さん(冤罪との闘い、冤罪被害者支援活動)の三人が受賞した。
今回は紙幅の関係で北村さんに絞り、当日の講演と講演後の取材、および筆者の過去の取材(一七年二月五日の講演)を元に、彼女を軍国少女に仕立て上げた戦前・戦中の偏向教育の実態をレポートする。
そして政府・保守政党・〝高級〟官僚らが国家主義教育を進めている現代の教育に、私たちがどう対処していくべきかを、彼女の言葉から考えたい。
北村さんは、治安維持法が公布・施行された一九二五(大正十四)年に福岡県久留米市で生まれ、軍国少女として育ち、二十歳で敗戦を迎えた。
◆ 軍国少女時代の体験
北村さんが小学校入学直前、第一次上海事変中の三二年(昭和七)二月、中国軍の陣地に張った鉄条網などを旧日本軍(以下、日本軍)が破壊する作戦で、日本兵三名が爆弾を抱え突撃し、戦死した。
この“爆弾(肉弾)三勇士”の内実は現代では信憑性を疑問視する見方があるが、当時の御用新聞は“軍国美談”として大々的に報道。旧文部省は国定教科書に載せ、歌や映画もできた。
“爆弾三勇士”は、北村さんが住んでいた久留米市の工兵隊から出征したので、“功績”を讃える旗行列が行なわれた。
家族はこれに参加するつもりはなかったが、町内のおじさんが束にした日の丸の小旗を持って来た。「家族揃ってが無理なら、お嬢さんだけでもいいですよ」と誘い、幼児だった北村さんに小旗を持たせ“動員”する。
おじさんは北村さんを高く抱え、大勢の人々が振る旗を見せた。北村さんは「上から見る旗の波は美しく、日の丸が好きになってしまった。軍国少女の始まりだった」と言う。
そして、「(現代の)年始等、皇居一般参賀の報道が映し出す日の丸の波は、(皇族が並び立つ)上方からはどう見えるのだろうか」と投げかけた。
三一年九月十八日、日本軍(関東軍)は満州(現・中国東北部)の奉天(現・瀋陽(しんよう)市)近郊の柳条(りゅうじょう)湖付近で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍による犯行と発表。約六カ月で満州全土を占領した(満州事変)。
この後、三七年七月七日の盧溝橋事件を端緒に、日本は全面的な日中戦争に突入する。
北村さんが小学校で学んだのは、三二年四月~三八年三月。綴り方(作文)の時間、教員は「満州の兵隊さんに手紙を書こう」と言い、「極寒のみぎり、さぞ匪賊(ひぞく)討伐も困難のことと思います」との文言で書き出すよう指導した。教員は“良い”慰問文を校内に貼り出していた。
北村さんも貼り出されて得意になり、指導される通りの慰問文を書くようになった、という。
北村さんは「中国には、匪賊(悪い人)がいる、だから討伐するんだと思っていた。でも今考えれば、中国の人たちは、日本の侵略から祖国を守ろうとした愛国者だったんです。こういうのが“教育”というもの。児童に書かせていたのは、学校に頼まないと(軍部は)数を稼げないから」と語る。
なお図工では、戦車や戦闘機を描いたり模型を作った。軍事一色の皇民化教育だったのだ。
◆ 戦中の式典を模す現代の都教委流卒業式
小学校での、御真影(しんえい、天皇と皇后の写真)と教育勅語とを納める“奉安殿(ほうあんでん)”(地震・火災・空襲に耐えられる構造)の建築は、三五年ごろ活発になった。
学校行事のうち、四大節(一月一日の四方拝、二月十一日の紀元節、四月二十九日の天長節、十一月三日の明治節)には、この奉安殿から運ばれた御真影の前で、児童は起立し“君が代”を歌わされた。そして校長が宮城(きゅうじょう、皇居)を遙拝し、教育勅語を厳かに読み上げる間も、児童は起立し頭を下げて聞いていなければならないので、“奉読”前後には多くの鼻水を畷(すす)る音がする。
現在の東京都教育委員会は、〇三年の“10・23通達”発出以降、周年行事・卒業・入学式等で、校長から“君が代起立”等の職務命令を出させ、「不起立したら懲戒処分にする」と教職員を脅している。
そして式場内の教職員全員が壇上正面の日の丸に向かって起立し斉唱(監視を兼ね派遣する幹部職員と校長には登降壇時、かつて御真影を掲げていた位置に掲げる日の丸への敬礼も強制)する姿を“範”に、児童・生徒も全員起立・斉唱させるよう、強制をさらに強化し続けている。
「御真影・教育勅語への敬意表明」を徹底された北村さんは、「『天皇の前で式典が行なわれているんだよ』と印象付ける意味で、今の都教委のやり方は戦前・戦中の儀式的行事を模している」と警鐘を鳴らした。
北村さんは三八年四月、福岡県立高等女学校(高女)に入学(当時、入試制度が突如変わって筆記試験はなくなり、口頭試問と体力検査のみとなった)。
四一年の四年生時、北村さんに教員が敵国だった“鬼畜米英”のポスターを描くよう声をかけた。
北村さんは画用紙にルーズベルトとチャーチルの顔を描き、さらに彼らの体を肉挽き器に入れハンドルを回すと、血を滴らせミンチ状の肉となって落ちてくる、という様子を絵にして提出した。
しかし、軍国少女の“勇ましさ”を発揮したこの絵を教員は受け取らず、返したという。
戦争は教え子の人道性・人間性を奪う。そのことに「自ら関わっていると気付いたから、返した」のであれば、“御用教員”にも良心のカケラが残っていた、と言えるだろう。
なお高女時代には、“防空演習”があった。北村さんも体育の授業では薙刀(なぎなた)を持ち、献身奉公・攻撃精神がみなぎった、と回想する。
海軍予備学生のボーイフレンドには「この世で会えなければ靖国で」と言われた。
そこで自分も“国”に命を捧げ靖国神社に祀られようと、高女卒業後、京城(現ソウル)赤十字救護看護婦養成所に入学。二年で従軍看護婦(関東軍付)になり、満州に派遣された。
前記した幼児期の旗振り“動員”に始まり、日本軍が侵略した国での“従軍”までの人生を踏まえ、北村さんは「プロパガンダに取り込まれた恨みを晴らすとともに、戦争推進の役割を果たした私の責任も明らかにする」と、『画家たちの戦争責任』(梨の木舎)で述べている。
◆ 「修身」と「道徳」に通底する。“愛国心”教育
戦前・戦中の修身は、「一旦緩急(かんきゅう)アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ」(有事には国のため生命を投げ出し、永遠の皇国を支えよう)とした教育勅語の十二の徳目を目標とし、その要は“愛国心=国家への忠誠心”の教化だった。
北村さんが教え込まれた小1の修身・国定教科書は、仮名を学習する時期の十五課までは絵だけで、初めて片仮名が出てくる十六課は「テンノウヘイカバンザイ」、十七課は「日清戦争で木口小平(きぐちこへい)は死んでもラッパを口から離さなかった」という作り話だ。
四五年八月の敗戦後、北村さんは中国の八路軍に随行させられ、翌年夏に帰国後、久留米市立商業学校の理科教員となる。
五〇年六月から八六年三月の定年まで東京都の公立小・中学校で教員を続けた(六五年以降は障害児学級の担任)。
旧文部省は四七年三月二十日に学習指導要領(以下、指導要領)を出したが、これは「試案」であり、法的拘束力など主張していなかった。
その序論は「いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる。(略)これまでとかく上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおりに実行するといった画一的な傾きがあったのが、こんどはむしろ下の方からみんなの力で、いろいろと、作りあげて行くようになって来た(略)。これまで(略)その内容を中央できめると、それをどんなところでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしても(略)画一的になって(略)創意や工夫がなされる余地がなかった」と明記している。
しかし、五八年十月一日、旧文部省が指導要領を、「大綱的」という語は冠しつつも「基準」とした。そこから教育は大きく悪い方向に変わった、と北村さんは言う。
道徳の時間を新設したこの五八年指導要領は、「日本人としての自覚をもって国を愛し」という文言を堂々と載せた。
文科省は一五(平成二十七)年に道徳を教科化。一七年改訂の現行指導要領も、“国を愛する態度”の項に全く同じ文言を盛っている。
そして本誌一八年四月号で述べたとおり、日本会議系団体の理事らが執筆した教育出版の小学校道徳教科書(八木秀次氏が関与している“日本教科書”発行の中学校道徳教科書も)や一部小中高等の教員は、前記修身教科書に通底する国家主義教育を、堂々と行なっているのだ。
軍国少女だった北村さんだが、「現人神(あらひとがみ)と教え込まれた天皇は人間ではないのか」などと悩み、担任教員に「修身教科書に書いてあることは皆、本当のことですか?」と質問したことがある。
担任は驚愕しつつ「本当に決まっています。そんなこと考えて勉強していたの?がっかりした」と答えたという。
この時の北村さんのように、現代の文科省や都教委等の一部誤った政策にきちんと疑問を抱き、改変を求めたり拒否したりする力を持つ児童・生徒が一人でも多く出て、教育基本法を元に戻せる政治を作っていくよう、筆者も取材・執筆活動に適進していく。
※ 永野厚男(ながのあつお) 文科省・各教委等の行政や、衆参・地方議会の文教関係の委員会、教育裁判、保守系団体の動向などを取材。平和団体や参院議員会館集会等で講演。
『紙の爆弾』(2021年3月号)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます