♪ 「もの言える自由」裁判 ♪・最高裁上告棄却!
「もの言える」裁判「上告棄却」の決定が2009年7月2日付けで出され弁護士事務所に送付されました。棄却の理由は、本件上告理由は、違憲をいうが、その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張するものであって、上告が許される各項(民翫法312条1項又は2項所定の場合)に規定する事由に該当しない、という「門前払い」でした。
4月28日に「上告理由書」等を提出し、最高裁に5月14日に記録到着、それから実質1ヶ月半にも満たない間に第一小法廷(甲斐中辰夫主任裁判官、涌井紀夫、宮川光治、桜井龍子、金築誠志裁判官)は一体どんな「審理」を行ったのでしょうか?
週休日に前任校卒業式に出席した教員が来賓紹介の際述ぺた短い祝辞、=「おめでとうございます。色々な強制の下であっても自分で判断し行動できるカを磨いていってください。」=が不適切だと東京都教育委員会が調査・指導・公表したことが、「表現の自由」「思想・良心の自由」等の侵害だという訴えに対して、まったく憲法上の判断をせずに棄却した地裁・高裁判決が、最高裁の「上告棄却」によって確定しました。
10月17日(土)13:30~ 上告棄却報告会を行います
会場:武蔵野市芸能劇場(三鷹駅北口より1分)13:15開場
武蔵野市中町1-15-10TEL:0422一55-3500
内容:Ⅰ 弁護団・原告より
Ⅱ 講演:土屋英雄教授 「判決をどう見るか」〔仮題〕
資料代:500円
♪ 「もの言える自由」裁判上告棄却
~「自分で判断し、行動できる力」をめぐって ♪
卒業式で餞の言葉として「おめでとうございます。色々な強制のもとであっても自分で判断し、行動できるカを磨いていって下さい」と言ったら「ふさわしくない」ものだったでしょうか?
2005年に前任校(都立豊多摩高校)の卒業式で前記の言葉を贈った教員に対して都教委が「指導」処分を決定したことに驚き、東京都に精神的苦痛等の損害賠償請求裁判を教員が提訴し、その卒業式に出席していた保護者たちが中心となり「もの言える自由」裁判交流会が発足し、裁判が進められてきました。
都立高校の中でも際だった「自主・自律」の校風のもとで、活発に、のびやかに育ってきた生徒たちに「この学校で育ったことに自信を持って巣立っていってほしい」と心をこめて贈った言葉でした。まして週休日の土曜日に勤務を離れて出席していました。
都教委による思想・言論弾圧を正面から憲法問題として問う裁判でしたが、残念ながら東京地裁・高裁に続いて最高裁で本年7月に棄却され、内容的にも裁判所が都教委の代弁をするような判決でした。
♪ 判決の問題点
高裁判決は「発言」を規制しうる憲法上の根拠をはぐらかし、「(控訴人は違法であると主張するが)当裁判所が採用しない見解に立脚するものであるから、いずれも採用することができない。」と、根拠を述べずに訴えを退けてしまいました。
①来賓として述べた「言葉」に対して(実際には正確に「言葉」を把握しないまま)、「TPOを考えるとふさわしくなかった」という曖昧な「指導」を行ったことは、正に発言に対する規制であるにもかかわらず、「言論・表現の自由」の侵害であるという訴えに裁判所は内容的に全く答えませんでした。
②東京地裁(篠原淳一裁判官)は、都側が原告の発言を問題視したのは「国旗掲揚・国歌斉唱に対する対応が自らの判断に委ねられる旨の生徒に対する指導」と見なしたからだと「推認できる」と判示しました。都側が「理由」を答えなかったために、裁判所が代弁して突然それまで誰も言わなかった「理由」を推認して判決を書くとは、信じがたいことでした。
③提訴以来2年半の裁判で、は餞の言葉をなぜ「不適切」と判断したのかを問い続けましたが都側は「祝辞とは言えない、意味不明な内容だった」としか答えなかったのですが、控訴審の最終段階の都側「第1準備書面」で初めて「そもそも、本件指導の背景にある『10,23通達』をめぐる対立状況については、まさに控訴人人は当事者であるのであって、…」という問題を持ち出しました。そうした問題を「背景」として「本件指導」を行ったのであれば、それはとりもなおさず、原告が実際に述べた餞の言葉から離れて、都教委が予断と偏見をもって判断したということに他なりません。
高裁判決の「控訴人は豊多摩高校に勤務していた当時から本件施策に反対しており、本件卒業式の国歌斉唱時に起立しなかったことが認められる。」「『強制』という言葉を使用することにより、…本件施策をめぐる対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与えかねないことに照らして、卒業式という式典における発言としては不適切であったことを指摘する趣旨であると明確に理解できたものと認められる」という判示は、まわりくどい言い方ですが、国旗・国歌の強制に反対する思想そのものを都教委が問題視したのだと認め、それにお墨付きを与えていると言えます。
♪ 生徒は自分で判断し行動してはいけないのか?
東京都教育委員会は「君が代」斉唱時に不起立・不伴奏の教職員を処分するだけでなく、卒・入学式の司会進行表に(国歌斉唱時に)「不起立の生徒がいたら再度起立を促す」と書き込ませるようになりました。この判決も“生徒は国旗国歌について自分で判断すべきでない”という趣旨を含んでいます。この国の「憲法」はどこに行ってしまったのでしょうか?
「もの言える」裁判「上告棄却」の決定が2009年7月2日付けで出され弁護士事務所に送付されました。棄却の理由は、本件上告理由は、違憲をいうが、その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張するものであって、上告が許される各項(民翫法312条1項又は2項所定の場合)に規定する事由に該当しない、という「門前払い」でした。
4月28日に「上告理由書」等を提出し、最高裁に5月14日に記録到着、それから実質1ヶ月半にも満たない間に第一小法廷(甲斐中辰夫主任裁判官、涌井紀夫、宮川光治、桜井龍子、金築誠志裁判官)は一体どんな「審理」を行ったのでしょうか?
週休日に前任校卒業式に出席した教員が来賓紹介の際述ぺた短い祝辞、=「おめでとうございます。色々な強制の下であっても自分で判断し行動できるカを磨いていってください。」=が不適切だと東京都教育委員会が調査・指導・公表したことが、「表現の自由」「思想・良心の自由」等の侵害だという訴えに対して、まったく憲法上の判断をせずに棄却した地裁・高裁判決が、最高裁の「上告棄却」によって確定しました。
10月17日(土)13:30~ 上告棄却報告会を行います
会場:武蔵野市芸能劇場(三鷹駅北口より1分)13:15開場
武蔵野市中町1-15-10TEL:0422一55-3500
内容:Ⅰ 弁護団・原告より
Ⅱ 講演:土屋英雄教授 「判決をどう見るか」〔仮題〕
資料代:500円
♪ 「もの言える自由」裁判上告棄却
~「自分で判断し、行動できる力」をめぐって ♪
卒業式で餞の言葉として「おめでとうございます。色々な強制のもとであっても自分で判断し、行動できるカを磨いていって下さい」と言ったら「ふさわしくない」ものだったでしょうか?
2005年に前任校(都立豊多摩高校)の卒業式で前記の言葉を贈った教員に対して都教委が「指導」処分を決定したことに驚き、東京都に精神的苦痛等の損害賠償請求裁判を教員が提訴し、その卒業式に出席していた保護者たちが中心となり「もの言える自由」裁判交流会が発足し、裁判が進められてきました。
都立高校の中でも際だった「自主・自律」の校風のもとで、活発に、のびやかに育ってきた生徒たちに「この学校で育ったことに自信を持って巣立っていってほしい」と心をこめて贈った言葉でした。まして週休日の土曜日に勤務を離れて出席していました。
都教委による思想・言論弾圧を正面から憲法問題として問う裁判でしたが、残念ながら東京地裁・高裁に続いて最高裁で本年7月に棄却され、内容的にも裁判所が都教委の代弁をするような判決でした。
♪ 判決の問題点
高裁判決は「発言」を規制しうる憲法上の根拠をはぐらかし、「(控訴人は違法であると主張するが)当裁判所が採用しない見解に立脚するものであるから、いずれも採用することができない。」と、根拠を述べずに訴えを退けてしまいました。
①来賓として述べた「言葉」に対して(実際には正確に「言葉」を把握しないまま)、「TPOを考えるとふさわしくなかった」という曖昧な「指導」を行ったことは、正に発言に対する規制であるにもかかわらず、「言論・表現の自由」の侵害であるという訴えに裁判所は内容的に全く答えませんでした。
②東京地裁(篠原淳一裁判官)は、都側が原告の発言を問題視したのは「国旗掲揚・国歌斉唱に対する対応が自らの判断に委ねられる旨の生徒に対する指導」と見なしたからだと「推認できる」と判示しました。都側が「理由」を答えなかったために、裁判所が代弁して突然それまで誰も言わなかった「理由」を推認して判決を書くとは、信じがたいことでした。
③提訴以来2年半の裁判で、は餞の言葉をなぜ「不適切」と判断したのかを問い続けましたが都側は「祝辞とは言えない、意味不明な内容だった」としか答えなかったのですが、控訴審の最終段階の都側「第1準備書面」で初めて「そもそも、本件指導の背景にある『10,23通達』をめぐる対立状況については、まさに控訴人人は当事者であるのであって、…」という問題を持ち出しました。そうした問題を「背景」として「本件指導」を行ったのであれば、それはとりもなおさず、原告が実際に述べた餞の言葉から離れて、都教委が予断と偏見をもって判断したということに他なりません。
高裁判決の「控訴人は豊多摩高校に勤務していた当時から本件施策に反対しており、本件卒業式の国歌斉唱時に起立しなかったことが認められる。」「『強制』という言葉を使用することにより、…本件施策をめぐる対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与えかねないことに照らして、卒業式という式典における発言としては不適切であったことを指摘する趣旨であると明確に理解できたものと認められる」という判示は、まわりくどい言い方ですが、国旗・国歌の強制に反対する思想そのものを都教委が問題視したのだと認め、それにお墨付きを与えていると言えます。
♪ 生徒は自分で判断し行動してはいけないのか?
東京都教育委員会は「君が代」斉唱時に不起立・不伴奏の教職員を処分するだけでなく、卒・入学式の司会進行表に(国歌斉唱時に)「不起立の生徒がいたら再度起立を促す」と書き込ませるようになりました。この判決も“生徒は国旗国歌について自分で判断すべきでない”という趣旨を含んでいます。この国の「憲法」はどこに行ってしまったのでしょうか?
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