=崖っぷちの労働時間法制 (労働情報)=
◆ 「8時間労働運動」を再び
ホワイトカラー・エグゼンプションを含む労働基準法改正案の審議は、安全保障法案のために次期通常国会に先送りされた。
「高度プロフエッショナル制度」と名付けられた法改革のねらいは、「賃金と労働時間を切り離し」、労働時間規制の及ばない働き方を創設しようとするものである。
それは、「残業代ゼロ法案」といわれるように法定労働時間を超えた労働に対して割増賃金の支払を免除するという側面を持つと同時に、法定労働時間の規制(労基法認条の時間外労働の禁止)そのものの適用を免除するという面をもっている。
少なくとも、適用除外の対象となる「高度プロフェッショナル」の仕事に関しては、労働時間規制がないと同様の事態が生じることになるのである。
当面の適用対象が狭く限定されているとはいえ、そうした事態が発生するということは、1日8時間、1週40時間の労働時間という法定労働時間制度に重大な例外を生むことになる。それは法定労働時間制度の基礎を掘り崩す第一歩になるのではないか、と多くの人によって危惧されている。
しかし、今日の問題状況はやや複雑である。法定労働時間が実際の働き方として定着しているなら、こうした法規制の解除は労働時間を事実上延長するためのものとみなされるだろう(1日9時間でも10時間でも、あるいはそれ以上に働かせてもよい。8時聞労働の規制は解除されているのだから)。
しかし、法定労働時間を超える労働が当たり前になっているような状況では、それが実質的な労働時間の延長を生むという認識は起こりにくい。現状と同じような残業を前提として割増賃金だけがなくなるという認識になりやすいのである。
しかし、割増賃金さえ支払われれば、今日のような慢性的な残業は放置されておいてよいのだろうか、そうした長時間労働の根本的な問題が改めて問われている。
◆ 生活時間と労働時間
ひとは一般に、なぜ労働するのだろうか。言うまでもなく、それは生きるため、生活するためである。
最も原始的な果物を採取する行動なども、生存のための労働である。人間はそのようにして、生存のための労働を営々と続けてきた。そのような労働は、生存の手段であり、「生活のための労働」であると言ってよい。
しかし、今日の社会においては、しばしば、生活が労働のための手段に転化する。
「過労死」とは、労働のために生命を、あるいは生活を犠牲にすることであり、それは「労働のための生活」の極限において生じた悲劇である。
では、ひとはなぜ、労働のために生活を犠牲にすることがあるのだろうか。そして、そのような労働は、生活のためではないとしたら、何を目的にしているのだろうか。
おそらくこうした問いに対してはさまざまな答えがありうるであろう。しかし、もちろん、こうした「労働のための生活」が生まれるのは、個々の労働者の意識や考え方によるわけではない。例外的にそのような場合もありうるとしても、一般的には、今日の労働の仕組み、他者(企業、国・自治体、個人など)に雇用されて働くという「雇用労働」の仕組みに、それは起因している。
「雇用労働」とは、労働力の提供と報酬の支払を約束する契約(労働契約)のもとで、労働者が使用者の指揮命令のもとに働く「他人決定労働」である。
そのような雇用労働のもとでは、労働する者が自らの生活の必要のために、必要なだけ労働するという労働の原理的な性質(「生活のための労働」)は失われ、雇用する者の生産や利潤のための手段としての労働(生産のための労働)が生まれる。
でも契約の際に、労働時間や仕事の内容を決めればよいのではないか、という考えも浮かぶであろう。
しかし、そのような取り決めが本当になされるのは、よほど働く側に強い交渉力がある場合にかぎられる。通常の場合には、実際上、労働の内容や労働時間は使用者の側が決定するのである。
ところが、使用者にとっては、約束した報酬を支払うということを除けば、労働者の生活には関心が及ばない。雇用した労働力をいかに効率的に利用するかということだけが基本的な関心事だからである。
個々の経営者がどういう考え方をもつかという問題はあるとしても、雇用労働の基本的な論理はこのようなものである。そのために近代的な雇用労働の始まりとともに、労働者の生存ぎりぎりの賃金と生存さえ危うくするような長時間の労働が課せられてきた。
そのために、労働時間の短縮、労働者の生活時間を取り戻すということは、労働運動の中心的な課題であり続けてきたのである。
メーデーのはじまりになった1886年5月のアメリカの8時間労働運動が掲げた要求は「8時間の労働、8時間の休息(睡眠)、8時間の自由時間」というものであつた。
◆ 「標準労働時間」が当たり前
今日のヨーロッパでは、「1日8時間、1週40時間、日曜・祝日の休日、年次有給休暇」のような労働時間を「標準労働時間」と呼び、しかもそれは一般的な社会生活の習慣として広く定着している。
近年の規制緩和の動きの中で揺らぎが見られるが、それでもなお大多数の雇用労働者はこのような生活形態を享受しているのである。
連合総研の調査「生活時間の国際比較-日・米・仏・韓のカップル調査」(2009年)にはそのような現状がよく示されている。
しかし、同じ調査では、日本の労働時間が非常に長いこと(1日2時間程度の残業が恒常化している)、生活時間が少なく、睡眠時間までが他の国と比べて1時間ほど短いことが明らかにされている。
政府の公式統計によってもこれは明らかである。厚生労働省の毎月勤労統計調査によれば、フルタイム労働者の年間総労働時間は2千時間強でこの間推移しているが、これは、1987年の労働基準法改正(1週48時間の法定労働時間を40時間に短縮)時の目標値、年間1800時間を大きく超えている。
さらに総務省の労働力調査では、毎月勤労統計調査の数値よりも年間で250時間程度多いのである。恒常的な残業が広範に存在していることが明らかである。
なお、週労働時間が40時間を下回り、年次有給休暇日数の多い(日本のような未消化はない)ヨーロッパでは、フルタイム労働者の年間総労働時間は1600時間程度であるから、経済力の水準が同等である先進国のなかで日本の長時間労働は際立っている。
実は日本の労働基準法も、1日8時間、1週40時間という法定労働時間を掲げているので、法律上はヨーロッパの「標準労働時間」と遜色のない労働時間制度がとられている(ただし時間外労働の上限規制を欠いている)。
日本とヨーロッパで異なっているのは、そうした法定労働時間が生活のサイクルとして定着しているか、否か、という実際の働き方、生活の仕方である。
さきほどの生活時間調査によれば、ヨーロッパだけでなく、アメリカでも、「標準労働時間」的な働き方、生活の仕方が一般的になっている。日本ではなぜそれが可能でないのか、それが問題である。
◆ 正常なバランスが破綻
労働基準法の法定労働時間は、使用者に罰則付きで遵守を強制している規範である。法定労働時間を超える労働(時間外労働、残業)は、本来であれば、一時的・臨時的なものでなければならない。
それにもかかわらず、現実の労働関係においては、法定の8時間、40時間労働の原則が棚上げされ、1日10時間、1週50時間労働のような働き方が当たり前のようになってしまっている。このような「当たり前」は、法的にいえば「正常」とは言えず、国際比較的に見れば「異常」である。
このような現実を放置したままに法定労働時間制度に例外を設けようとする法改正の意図は、ほとんど労働者の生活を顧みないものと言わざるをえない。
世界の8時間労働運動が主張した「8時間労働、8時間休息(睡眠)、8時間自由時間」は、今日でもなお説得力をもっている。
1日24時間をこのようなサイクルで生活することは、人間の生体リズム、家族との生活、人間としての文化的・社会的営みなどを大切にするためにはほとんど最低限度のもの(とくに1日2時間程度の通勤時間があるとすれば)と言ってよいであろう。
このような人間としての生活の必要は、およそ働くすべてのひとに当てはまるものであって、高度の専門知識などをもつひとは別であるというものではない。
今日の多くの職場に見られるメンタル疾患の多発や過労死は、このような正常な労働と生活のバランスが破綻していることを示している。
このような職場の現状を変え、労働者の生活時間を取り戻すことができるのは、労働者自身の運動、労働組合の運動によってだけである。
企業や財界がそのような問題関心をもたないであろうことは、先に述べた。
今日の日本においては、100年以上前の労働運動の課題(ただし、法律を獲得するのではなく、法律を実現すること)がなお意味をもっている。
『労働情報 925号』(2015.12.15)
◆ 「8時間労働運動」を再び
田端博邦(東京大学名誉教授)
ホワイトカラー・エグゼンプションを含む労働基準法改正案の審議は、安全保障法案のために次期通常国会に先送りされた。
「高度プロフエッショナル制度」と名付けられた法改革のねらいは、「賃金と労働時間を切り離し」、労働時間規制の及ばない働き方を創設しようとするものである。
それは、「残業代ゼロ法案」といわれるように法定労働時間を超えた労働に対して割増賃金の支払を免除するという側面を持つと同時に、法定労働時間の規制(労基法認条の時間外労働の禁止)そのものの適用を免除するという面をもっている。
少なくとも、適用除外の対象となる「高度プロフェッショナル」の仕事に関しては、労働時間規制がないと同様の事態が生じることになるのである。
当面の適用対象が狭く限定されているとはいえ、そうした事態が発生するということは、1日8時間、1週40時間の労働時間という法定労働時間制度に重大な例外を生むことになる。それは法定労働時間制度の基礎を掘り崩す第一歩になるのではないか、と多くの人によって危惧されている。
しかし、今日の問題状況はやや複雑である。法定労働時間が実際の働き方として定着しているなら、こうした法規制の解除は労働時間を事実上延長するためのものとみなされるだろう(1日9時間でも10時間でも、あるいはそれ以上に働かせてもよい。8時聞労働の規制は解除されているのだから)。
しかし、法定労働時間を超える労働が当たり前になっているような状況では、それが実質的な労働時間の延長を生むという認識は起こりにくい。現状と同じような残業を前提として割増賃金だけがなくなるという認識になりやすいのである。
しかし、割増賃金さえ支払われれば、今日のような慢性的な残業は放置されておいてよいのだろうか、そうした長時間労働の根本的な問題が改めて問われている。
◆ 生活時間と労働時間
ひとは一般に、なぜ労働するのだろうか。言うまでもなく、それは生きるため、生活するためである。
最も原始的な果物を採取する行動なども、生存のための労働である。人間はそのようにして、生存のための労働を営々と続けてきた。そのような労働は、生存の手段であり、「生活のための労働」であると言ってよい。
しかし、今日の社会においては、しばしば、生活が労働のための手段に転化する。
「過労死」とは、労働のために生命を、あるいは生活を犠牲にすることであり、それは「労働のための生活」の極限において生じた悲劇である。
では、ひとはなぜ、労働のために生活を犠牲にすることがあるのだろうか。そして、そのような労働は、生活のためではないとしたら、何を目的にしているのだろうか。
おそらくこうした問いに対してはさまざまな答えがありうるであろう。しかし、もちろん、こうした「労働のための生活」が生まれるのは、個々の労働者の意識や考え方によるわけではない。例外的にそのような場合もありうるとしても、一般的には、今日の労働の仕組み、他者(企業、国・自治体、個人など)に雇用されて働くという「雇用労働」の仕組みに、それは起因している。
「雇用労働」とは、労働力の提供と報酬の支払を約束する契約(労働契約)のもとで、労働者が使用者の指揮命令のもとに働く「他人決定労働」である。
そのような雇用労働のもとでは、労働する者が自らの生活の必要のために、必要なだけ労働するという労働の原理的な性質(「生活のための労働」)は失われ、雇用する者の生産や利潤のための手段としての労働(生産のための労働)が生まれる。
でも契約の際に、労働時間や仕事の内容を決めればよいのではないか、という考えも浮かぶであろう。
しかし、そのような取り決めが本当になされるのは、よほど働く側に強い交渉力がある場合にかぎられる。通常の場合には、実際上、労働の内容や労働時間は使用者の側が決定するのである。
ところが、使用者にとっては、約束した報酬を支払うということを除けば、労働者の生活には関心が及ばない。雇用した労働力をいかに効率的に利用するかということだけが基本的な関心事だからである。
個々の経営者がどういう考え方をもつかという問題はあるとしても、雇用労働の基本的な論理はこのようなものである。そのために近代的な雇用労働の始まりとともに、労働者の生存ぎりぎりの賃金と生存さえ危うくするような長時間の労働が課せられてきた。
そのために、労働時間の短縮、労働者の生活時間を取り戻すということは、労働運動の中心的な課題であり続けてきたのである。
メーデーのはじまりになった1886年5月のアメリカの8時間労働運動が掲げた要求は「8時間の労働、8時間の休息(睡眠)、8時間の自由時間」というものであつた。
◆ 「標準労働時間」が当たり前
今日のヨーロッパでは、「1日8時間、1週40時間、日曜・祝日の休日、年次有給休暇」のような労働時間を「標準労働時間」と呼び、しかもそれは一般的な社会生活の習慣として広く定着している。
近年の規制緩和の動きの中で揺らぎが見られるが、それでもなお大多数の雇用労働者はこのような生活形態を享受しているのである。
連合総研の調査「生活時間の国際比較-日・米・仏・韓のカップル調査」(2009年)にはそのような現状がよく示されている。
しかし、同じ調査では、日本の労働時間が非常に長いこと(1日2時間程度の残業が恒常化している)、生活時間が少なく、睡眠時間までが他の国と比べて1時間ほど短いことが明らかにされている。
政府の公式統計によってもこれは明らかである。厚生労働省の毎月勤労統計調査によれば、フルタイム労働者の年間総労働時間は2千時間強でこの間推移しているが、これは、1987年の労働基準法改正(1週48時間の法定労働時間を40時間に短縮)時の目標値、年間1800時間を大きく超えている。
さらに総務省の労働力調査では、毎月勤労統計調査の数値よりも年間で250時間程度多いのである。恒常的な残業が広範に存在していることが明らかである。
なお、週労働時間が40時間を下回り、年次有給休暇日数の多い(日本のような未消化はない)ヨーロッパでは、フルタイム労働者の年間総労働時間は1600時間程度であるから、経済力の水準が同等である先進国のなかで日本の長時間労働は際立っている。
実は日本の労働基準法も、1日8時間、1週40時間という法定労働時間を掲げているので、法律上はヨーロッパの「標準労働時間」と遜色のない労働時間制度がとられている(ただし時間外労働の上限規制を欠いている)。
日本とヨーロッパで異なっているのは、そうした法定労働時間が生活のサイクルとして定着しているか、否か、という実際の働き方、生活の仕方である。
さきほどの生活時間調査によれば、ヨーロッパだけでなく、アメリカでも、「標準労働時間」的な働き方、生活の仕方が一般的になっている。日本ではなぜそれが可能でないのか、それが問題である。
◆ 正常なバランスが破綻
労働基準法の法定労働時間は、使用者に罰則付きで遵守を強制している規範である。法定労働時間を超える労働(時間外労働、残業)は、本来であれば、一時的・臨時的なものでなければならない。
それにもかかわらず、現実の労働関係においては、法定の8時間、40時間労働の原則が棚上げされ、1日10時間、1週50時間労働のような働き方が当たり前のようになってしまっている。このような「当たり前」は、法的にいえば「正常」とは言えず、国際比較的に見れば「異常」である。
このような現実を放置したままに法定労働時間制度に例外を設けようとする法改正の意図は、ほとんど労働者の生活を顧みないものと言わざるをえない。
世界の8時間労働運動が主張した「8時間労働、8時間休息(睡眠)、8時間自由時間」は、今日でもなお説得力をもっている。
1日24時間をこのようなサイクルで生活することは、人間の生体リズム、家族との生活、人間としての文化的・社会的営みなどを大切にするためにはほとんど最低限度のもの(とくに1日2時間程度の通勤時間があるとすれば)と言ってよいであろう。
このような人間としての生活の必要は、およそ働くすべてのひとに当てはまるものであって、高度の専門知識などをもつひとは別であるというものではない。
今日の多くの職場に見られるメンタル疾患の多発や過労死は、このような正常な労働と生活のバランスが破綻していることを示している。
このような職場の現状を変え、労働者の生活時間を取り戻すことができるのは、労働者自身の運動、労働組合の運動によってだけである。
企業や財界がそのような問題関心をもたないであろうことは、先に述べた。
今日の日本においては、100年以上前の労働運動の課題(ただし、法律を獲得するのではなく、法律を実現すること)がなお意味をもっている。
『労働情報 925号』(2015.12.15)
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