『リベルテ 東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース』【特別企画】
◆ 市川須美子獨協大学教授に聞く 予防訴訟の意義とこれから
予防訴訟は2月9日、最高裁で不当判決が出されました。しかし「予防訴訟」という形の裁判が権利として認められるなどの前進も勝ち取っています。
市川須美子氏(獨協大学教授・日本教育法学会会長)は、予防訴訟の「仕掛け人」と言われています。教育法学の分野で様々な教育裁判を実践的に研究され「10・23通達」による危機的な事態が予想される中、高校時代の同級生からの相談をきっかけに、原告に予防訴訟を提起し、研究者の立場で「日の丸・君が代」関連裁判に関わってこられました。今回、予防訴訟とは何だったのかということを中心に、お話を聞かせていただきました。
ー予防訴訟の準備はいつからされたのですか?
10・23通達前に、都議会で「これからは職務命令でやっていく」ってことがはっきりした段階で、このまま処分されるまで何もできないのか?と相談されました。
私は、そういう場合にはどういう法的な対応が可能かってことを、頭の中でシュミレーションするわけ。処分を待つんじゃなくって何らかの形で訴訟ができるんじゃないか、こういうやり方があるよ、とアイデアは出していたんです。
原告がいろんな研究者にきいたら反対されたり、弁護士も「そんなの無理」と言ったらしいけど、この場合には十分可能だと考えていました。
ー10・23通達後に具体的になったわけですね。
10・23通達が出てすぐ、周年行事なんかで(処分が)やられて、これはもう先が読めたわけだから、具体的にどういう訴訟になるかという話ですよね。私は最初から義務不存在確認と考えていました。
処分差し止めとか、国家賠償請求は弁護士さんたちがつけたんですよね。
処分差し止めって、かかってくる処分をやめてってことじゃない。そうじゃなくて処分なんて最初からできるわけがないはずと思ってたので。職務命令自体が成り立たないんだから。
ー予防訴訟という形態をとったのは?
同時並行的に行訴法の改正問題があったけど、一番ストレートなのはこの場合義務不存在確認じゃないかと。
処分差し止めは一回一回ですよね、それに対して義務不存在っていうのは法的な関係として、命令服従関係は成り立たないってことですね。もし命令したとしてもまったく違法無効だから従う必要もないし、という議論なので、根本的にそういう法関係が成り立たない。それは公務員一般の問題よりも、やっぱり教育の自由だからですよ。
義務不存在確認訴訟というのは、紛争の最終的確認にとって核心にあるんです。
話を聞いてる段階で、あ、それだって思ったのは、長野勤評の自己評定義務不存在確認訴訟の最高裁判決ですね。憲法問題を抱えたところではやっぱり義務不存在確認訴訟がストレートな闘い方なんじゃないかなと。
ー処分訴訟との違いは?
処分訴訟って一歩引いちゃうのよ。それがまずいと思ったから攻勢的に一歩前に置いたのが予防訴訟。
処分訴訟の場合、処分受けた人は、自分の正当性を言わなきゃいけないから、個にかかった攻撃に目が行って、子どもや学校にかかった攻撃から目がそらされがちなんです。
処分の問題も当然裁判になると思ったけど、そうじゃない設定の仕方もある、でないと本質的な問題って争えないんじゃないのかな、と思っていたんですよね。
ー大阪でも同じような問題出てきてますね。
だから大阪でも斉唱義務不存在確認訴訟やるべきなんですよ。
今回の最高裁では実質判断したのは起立でしょ。処分理由も「歌わなかった」じゃなくて「立たなかった」ということですね。起立斉唱って言ってるけど、斉唱ってまったく問題にされていないんですよ。
大阪は条例が違憲違法だから処分差し止め訴訟もできるし。それと、大阪の条例は明確な違法性があるのに、文科省は何も言わない。憲法違反もあるけど、明確に地教行法違反なんですよ、教基法違反でもあるかな。条例は「法律の範囲内」で定めることができるんですから。
ーご自身の高校時代にいろいろな先生の影響を受けられたそうですが。
高校教育がその後の生き方にかかわっているというのがすごくある。だから都立高校がひどくなるのがいやだっていうのがあって、無視できないですね。
教師の「教育の自由」というのは自己目的ではなくてやっぱり子どもの学習権に奉仕するものだし、教師の「教育の自由」で子どもの思想・良心に介入したり、子どもを意のままにしようとすることは、絶対に許されないことなんじゃないかな。
私自身が個性の強い子どもだったから、教員とぶつかったことってかなりあるんですよ。ちょっとでも押し付けを感じると、民主的といわれている先生でもキライだったんです。日本の教育って人と違うってことをほんとに許さないからね。
ーこの問題以外ではどんなことに取り組んでこられたのですか?
80年代以降、私がやってきたのは子どもの人権侵害の事例が多いんです。
たとえば、熊本で中学生の丸刈り校則の裁判。ほとんど本人訴訟みたいな形で、地裁での負け方が悲惨だった。判決も持って回った言い方で、丸刈り校則に矛盾はあるんだけれどその程度が著しくない、だから適法という判決。
その頃、子どもの人権の共同研究が始まっていて、これ、高裁でやってくれれば弁護士も東京から出します、お金もいりませんと、一生懸命説得したんだけど、でも地域の圧力がきつくって、完壁に孤立なんですよね。嫌がらせ電話が頻繁だったり、奥さんが買い物行ってもみんなすーっと逃げちゃうとかね。村八分状態で耐えられないということで、一審が確定しちゃったの。
あとは中野富士見中とか、いじめ裁判の一番初めのころからかかわっています。
ー学校って保守的なところでもありますよね。
教育の権威性を復活させるのに大きな役割を果たしているのが学校儀式ですよ。
学習指導要領に「厳粛で清新」ってあるけど、なんで厳粛でなくてはいけないのか、式が。喜びにあふれたものが厳粛っておかしいでしょ。厳粛っていうのは権威を伝えるために必要なものなんです。確か世取山さんが言ってたんだけど、学習指導要領の特別活動の儀式に「厳粛」が入ったのは、強制が強まってくる時期と一緒だと。
儀式の権威主義化、あるいは権威主義教育の復活と一体的。
私は毎年ドイツに行っていて、向こうの教師に、アルバム見せてもらつたけど、全然厳粛じゃないのよね。入学式は行ってみたことがあるけど、学芸会みたいで、迎える側のクラスが一つずつ出し物やって、最後にみんな名前を呼ばれて新入生が檀上に上がる。入学式ではみんなお菓子をもらうんですよ。卒業式では障害物競争みたいのを教師もやらされて、生徒が企画するからしょうがないなんて言ってる。雰囲気は最初からみな笑顔で、自分たちのお祝いだもんね、みたいな。
ーヨーロッパではそういう国が多いですよね。東京ではこうなっちゃったわけですが、ともかく一審勝ちました。勝因はなんだったんでしょう?
それははっきりしてます。10・23通達が学校の裁量をゼロにして、いわゆる10・23体制とでもいうか、完壁に都教委の支配下に置いて、水も漏らさぬ体制で指示を徹底していこうとしている。そこまで教育行政が介入するのは不当な支配でしょう、ということをきっちりやったことだと思いますよ。
ーところが高裁でひっくり返された。教基法が変えられたり、ピアノ裁判最高裁判決があったりしましたしね。
高裁は事実審ではなくて法律審ということもあるし、憲法論の核心をどこに置くかっていうこともあったし。
ピアノ判決は予防の勝利判決から、半年もたたない、卒業式の前という政治的なタイミングで出されたんです。ピアノ判決は思想良心の自由を全然侵害していないっていう全面敗訴ですよね。しかも、ピアノ伴奏命令の合憲性、っていうのを出しちゃったじゃないですか。
それの一人歩きですよね。最高裁の「これでは足を踏み出さない」っていうメッセージを下級審は受け取ったわけ。
ー弁護団は献身的にやってくださいましたよね。
おそらく交通費と実費だけ、それもカバーされてないかもしれない。やはり弁護士も経済的に保障されないといい仕事はできないし若手も育たない。裁判が終結した今、それなりのお礼を原告はしてもいいかもしれないですね。
ー教育基本法の改定はどんな影響をもたらしましたか。
教育基本法改正で結果的に「不当な支配」が残った。これはすごく大きいことですよ。難波判決よく読めばわかることだけど、この問題ではカテゴリー的に思想良心の自由と関わりありますよ、とも言ったんだけど、最終的な核心のところは「不当な支配」だからダメでしょ、だからこんな職務命令出せません、ってことなんですよ。
最高裁学テ判決では「教育の実践をゆがめるような介入」を「不当な支配」といったんだけど、抽象的すぎるじやない。実際「不当な支配」の禁止はきちっと定義されたことがなくてどんどん曖昧になってきていた。事態は行政のほうに押し込まれていて、細かいこと書いてある学習指導要領も大綱的基準ってとこまでふくらまされて、教育内容行政の適法性範囲が広がってきたわけじゃないですか。
で、改めてわかんなくなったんですよね。今私は、原理的には教育と教育行政分離原則だと思ってるのね、つまり、教育行政が主体となった教育活動は違法だって意味で。それが教育と教育行政の分離ですよね。
政治家や宗教団体が介入するのも「不当な支配」なんだけど、一番原理的な意味は、教育と教育行政の分離っていうことで「不当な支配」の禁止を戦後法制は立てたんだと思う。それが旧教基法10条から新教育基本法の16条1項に継承されたわけ。である以上、基本的な法状況っていうのは憲法が変わらない限り絶対変わらないはず。
で、もっときっちりと、「不当な支配」の禁止の意味と、何が禁止されているのかはっきりさせていくことによって、もう一度「不当な支配」の禁止の裁判規範としての意味を明確にするってことが課題で、今後二次三次の処分訴訟なんかでやっていけるかなと。
しかも今は主体が、中央教育行政から地教委へ変換したわけでしょ。地教委というのは人事権持ってるから、完壁に懲戒処分権背景に実施することができるので、文科省がやる教育支配よりもっと直接的でもっと危険なのね。
だから今、教育の自由にとって危機的な状況。それが大阪みたいに首長と一体的に出てくると、政治支配と行政支配が一体化してくるわけ。もう何でもアリですよね。それが大阪府条例の世界じゃないですか。
ー予防の原告団は総括の時期が迫ってるようですが、それについて一言お願いします。
よくあれだけやってきたと思う。これからは学習会を続けるという形でもいいと思います。スケジュールに追われるって形は総括には向いてないですよ。ゆっくり考えましよう。
『リベルテ 東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース』(第27号 2012/4/14)
◆ 市川須美子獨協大学教授に聞く 予防訴訟の意義とこれから
予防訴訟は2月9日、最高裁で不当判決が出されました。しかし「予防訴訟」という形の裁判が権利として認められるなどの前進も勝ち取っています。
市川須美子氏(獨協大学教授・日本教育法学会会長)は、予防訴訟の「仕掛け人」と言われています。教育法学の分野で様々な教育裁判を実践的に研究され「10・23通達」による危機的な事態が予想される中、高校時代の同級生からの相談をきっかけに、原告に予防訴訟を提起し、研究者の立場で「日の丸・君が代」関連裁判に関わってこられました。今回、予防訴訟とは何だったのかということを中心に、お話を聞かせていただきました。
ー予防訴訟の準備はいつからされたのですか?
10・23通達前に、都議会で「これからは職務命令でやっていく」ってことがはっきりした段階で、このまま処分されるまで何もできないのか?と相談されました。
私は、そういう場合にはどういう法的な対応が可能かってことを、頭の中でシュミレーションするわけ。処分を待つんじゃなくって何らかの形で訴訟ができるんじゃないか、こういうやり方があるよ、とアイデアは出していたんです。
原告がいろんな研究者にきいたら反対されたり、弁護士も「そんなの無理」と言ったらしいけど、この場合には十分可能だと考えていました。
ー10・23通達後に具体的になったわけですね。
10・23通達が出てすぐ、周年行事なんかで(処分が)やられて、これはもう先が読めたわけだから、具体的にどういう訴訟になるかという話ですよね。私は最初から義務不存在確認と考えていました。
処分差し止めとか、国家賠償請求は弁護士さんたちがつけたんですよね。
処分差し止めって、かかってくる処分をやめてってことじゃない。そうじゃなくて処分なんて最初からできるわけがないはずと思ってたので。職務命令自体が成り立たないんだから。
ー予防訴訟という形態をとったのは?
同時並行的に行訴法の改正問題があったけど、一番ストレートなのはこの場合義務不存在確認じゃないかと。
処分差し止めは一回一回ですよね、それに対して義務不存在っていうのは法的な関係として、命令服従関係は成り立たないってことですね。もし命令したとしてもまったく違法無効だから従う必要もないし、という議論なので、根本的にそういう法関係が成り立たない。それは公務員一般の問題よりも、やっぱり教育の自由だからですよ。
義務不存在確認訴訟というのは、紛争の最終的確認にとって核心にあるんです。
話を聞いてる段階で、あ、それだって思ったのは、長野勤評の自己評定義務不存在確認訴訟の最高裁判決ですね。憲法問題を抱えたところではやっぱり義務不存在確認訴訟がストレートな闘い方なんじゃないかなと。
ー処分訴訟との違いは?
処分訴訟って一歩引いちゃうのよ。それがまずいと思ったから攻勢的に一歩前に置いたのが予防訴訟。
処分訴訟の場合、処分受けた人は、自分の正当性を言わなきゃいけないから、個にかかった攻撃に目が行って、子どもや学校にかかった攻撃から目がそらされがちなんです。
処分の問題も当然裁判になると思ったけど、そうじゃない設定の仕方もある、でないと本質的な問題って争えないんじゃないのかな、と思っていたんですよね。
ー大阪でも同じような問題出てきてますね。
だから大阪でも斉唱義務不存在確認訴訟やるべきなんですよ。
今回の最高裁では実質判断したのは起立でしょ。処分理由も「歌わなかった」じゃなくて「立たなかった」ということですね。起立斉唱って言ってるけど、斉唱ってまったく問題にされていないんですよ。
大阪は条例が違憲違法だから処分差し止め訴訟もできるし。それと、大阪の条例は明確な違法性があるのに、文科省は何も言わない。憲法違反もあるけど、明確に地教行法違反なんですよ、教基法違反でもあるかな。条例は「法律の範囲内」で定めることができるんですから。
ーご自身の高校時代にいろいろな先生の影響を受けられたそうですが。
高校教育がその後の生き方にかかわっているというのがすごくある。だから都立高校がひどくなるのがいやだっていうのがあって、無視できないですね。
教師の「教育の自由」というのは自己目的ではなくてやっぱり子どもの学習権に奉仕するものだし、教師の「教育の自由」で子どもの思想・良心に介入したり、子どもを意のままにしようとすることは、絶対に許されないことなんじゃないかな。
私自身が個性の強い子どもだったから、教員とぶつかったことってかなりあるんですよ。ちょっとでも押し付けを感じると、民主的といわれている先生でもキライだったんです。日本の教育って人と違うってことをほんとに許さないからね。
ーこの問題以外ではどんなことに取り組んでこられたのですか?
80年代以降、私がやってきたのは子どもの人権侵害の事例が多いんです。
たとえば、熊本で中学生の丸刈り校則の裁判。ほとんど本人訴訟みたいな形で、地裁での負け方が悲惨だった。判決も持って回った言い方で、丸刈り校則に矛盾はあるんだけれどその程度が著しくない、だから適法という判決。
その頃、子どもの人権の共同研究が始まっていて、これ、高裁でやってくれれば弁護士も東京から出します、お金もいりませんと、一生懸命説得したんだけど、でも地域の圧力がきつくって、完壁に孤立なんですよね。嫌がらせ電話が頻繁だったり、奥さんが買い物行ってもみんなすーっと逃げちゃうとかね。村八分状態で耐えられないということで、一審が確定しちゃったの。
あとは中野富士見中とか、いじめ裁判の一番初めのころからかかわっています。
ー学校って保守的なところでもありますよね。
教育の権威性を復活させるのに大きな役割を果たしているのが学校儀式ですよ。
学習指導要領に「厳粛で清新」ってあるけど、なんで厳粛でなくてはいけないのか、式が。喜びにあふれたものが厳粛っておかしいでしょ。厳粛っていうのは権威を伝えるために必要なものなんです。確か世取山さんが言ってたんだけど、学習指導要領の特別活動の儀式に「厳粛」が入ったのは、強制が強まってくる時期と一緒だと。
儀式の権威主義化、あるいは権威主義教育の復活と一体的。
私は毎年ドイツに行っていて、向こうの教師に、アルバム見せてもらつたけど、全然厳粛じゃないのよね。入学式は行ってみたことがあるけど、学芸会みたいで、迎える側のクラスが一つずつ出し物やって、最後にみんな名前を呼ばれて新入生が檀上に上がる。入学式ではみんなお菓子をもらうんですよ。卒業式では障害物競争みたいのを教師もやらされて、生徒が企画するからしょうがないなんて言ってる。雰囲気は最初からみな笑顔で、自分たちのお祝いだもんね、みたいな。
ーヨーロッパではそういう国が多いですよね。東京ではこうなっちゃったわけですが、ともかく一審勝ちました。勝因はなんだったんでしょう?
それははっきりしてます。10・23通達が学校の裁量をゼロにして、いわゆる10・23体制とでもいうか、完壁に都教委の支配下に置いて、水も漏らさぬ体制で指示を徹底していこうとしている。そこまで教育行政が介入するのは不当な支配でしょう、ということをきっちりやったことだと思いますよ。
ーところが高裁でひっくり返された。教基法が変えられたり、ピアノ裁判最高裁判決があったりしましたしね。
高裁は事実審ではなくて法律審ということもあるし、憲法論の核心をどこに置くかっていうこともあったし。
ピアノ判決は予防の勝利判決から、半年もたたない、卒業式の前という政治的なタイミングで出されたんです。ピアノ判決は思想良心の自由を全然侵害していないっていう全面敗訴ですよね。しかも、ピアノ伴奏命令の合憲性、っていうのを出しちゃったじゃないですか。
それの一人歩きですよね。最高裁の「これでは足を踏み出さない」っていうメッセージを下級審は受け取ったわけ。
ー弁護団は献身的にやってくださいましたよね。
おそらく交通費と実費だけ、それもカバーされてないかもしれない。やはり弁護士も経済的に保障されないといい仕事はできないし若手も育たない。裁判が終結した今、それなりのお礼を原告はしてもいいかもしれないですね。
ー教育基本法の改定はどんな影響をもたらしましたか。
教育基本法改正で結果的に「不当な支配」が残った。これはすごく大きいことですよ。難波判決よく読めばわかることだけど、この問題ではカテゴリー的に思想良心の自由と関わりありますよ、とも言ったんだけど、最終的な核心のところは「不当な支配」だからダメでしょ、だからこんな職務命令出せません、ってことなんですよ。
最高裁学テ判決では「教育の実践をゆがめるような介入」を「不当な支配」といったんだけど、抽象的すぎるじやない。実際「不当な支配」の禁止はきちっと定義されたことがなくてどんどん曖昧になってきていた。事態は行政のほうに押し込まれていて、細かいこと書いてある学習指導要領も大綱的基準ってとこまでふくらまされて、教育内容行政の適法性範囲が広がってきたわけじゃないですか。
で、改めてわかんなくなったんですよね。今私は、原理的には教育と教育行政分離原則だと思ってるのね、つまり、教育行政が主体となった教育活動は違法だって意味で。それが教育と教育行政の分離ですよね。
政治家や宗教団体が介入するのも「不当な支配」なんだけど、一番原理的な意味は、教育と教育行政の分離っていうことで「不当な支配」の禁止を戦後法制は立てたんだと思う。それが旧教基法10条から新教育基本法の16条1項に継承されたわけ。である以上、基本的な法状況っていうのは憲法が変わらない限り絶対変わらないはず。
で、もっときっちりと、「不当な支配」の禁止の意味と、何が禁止されているのかはっきりさせていくことによって、もう一度「不当な支配」の禁止の裁判規範としての意味を明確にするってことが課題で、今後二次三次の処分訴訟なんかでやっていけるかなと。
しかも今は主体が、中央教育行政から地教委へ変換したわけでしょ。地教委というのは人事権持ってるから、完壁に懲戒処分権背景に実施することができるので、文科省がやる教育支配よりもっと直接的でもっと危険なのね。
だから今、教育の自由にとって危機的な状況。それが大阪みたいに首長と一体的に出てくると、政治支配と行政支配が一体化してくるわけ。もう何でもアリですよね。それが大阪府条例の世界じゃないですか。
ー予防の原告団は総括の時期が迫ってるようですが、それについて一言お願いします。
よくあれだけやってきたと思う。これからは学習会を続けるという形でもいいと思います。スケジュールに追われるって形は総括には向いてないですよ。ゆっくり考えましよう。
『リベルテ 東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース』(第27号 2012/4/14)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます