☆ 判決日:10月8日(木)13:15~ 東京地裁527号法廷
=コントラタック2015=
◆ 7月13日岸田さん裁判 結審(第10回口頭弁論)
《岸田静枝さんから》
◆ 傍聴に来てくださったみなさまありがとうございます。
今日は、「君が代」修正処分ロ頭弁論の10回目、結審です。そして7月13日は、私がキリスト教の洗礼を受けた日です。もう46年にもなります。
洗礼を受けるきっかけや出来事があったのか、なかったのかは、あまり思い出せません。キリスト教文化が根底にあるクラシック音楽に関わっていなければ、もし周りの人間関係が違っていたら、ああだったらこうだったら、あるいはその相互作用でなどは仮定ですから、考えても意味はないように思います。
聖書の使徒言行録には、使徒パウロの活動の様子が描かれていますが、それによると、パウロはキリスト教徒を熱心に迫害する側であったが、ダマスコへ行く途中で、キリスト・イエスの光で目が見えなくなってしまいます。アナニアの祈りによって目から鱗のようなものが落ち、再び目が見えるようになり、これが「目から鱗」の語源です。
マザーテレサは汽車の中で神からの啓示を受け、カルカッタのスラム街に入ったと言われています。
聖人ではない一般的なキリスト教信徒の生活に、特筆する出来事は起きないし、何かに熱中している時に突然、「インドに行け」という神の声がしたら困っちゃうよねえなどという心配もありません。
祈り、聖書を読み、教会に通い、宗教音楽を練習する私の毎日は、私にはあまりに当たり前すぎて、「君が代」処分裁判で前面に出すことなど、思いもよりませんでした。
高橋拓也弁護士さんが書いてくださった73ページに及ぷ最終第6準備書面は、冒頭から憲法第20条にかなりのページを割いています。
憲法第20条判断の最高裁判決は、これまで愛媛玉串料事件と剣道実技拒否事件など、そんなに多くはない。
最高裁が憲法第20条判断をしていないのだから、地裁では先んじて判断しないのでしょうが、今回はこれだけのページで、これだけの展開をしているのですから、裁判所は憲法第20条に触れないわけにはいかないと思います。
高橋弁護士さんが書いてくださった準備書面から引用しますが、明快です。
『憲法19条は・・・その条文の文言は以下のとおりシンプルである。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」これに対し、憲法20条は、大日本帝国憲法下の国家神道強制等による宗教弾圧に対する反省に基づくという歴史的経緯があり、その保障を一層確実なものとするために政教分離の規定をも設けており、以下のとおりの特則的な規定となっている。』
『このように、精神的自由権の総則的規定としての国家の不作為のみを定める憲法19条の思想・良心の自由と比べて、その特則的規定としての位置付けを有し、敢えて「何人に対してもこれを保障する。」と定め、かつ、諸外国と比較しても厳格な政教分離の定めを設けている憲法20条の宗教の自由は、当然に思想・良心の自由に増して尊重されなければならず、憲法19条とは別異に解釈されることが憲法上も要請されていることは一目瞭然である。』
さらにピアノ伴奏についても、
『「君が代」斉唱時のピアノ伴奏という行為は、「君が代」の集団的な歌唱行為(斉唱)を先導することを目的としており、伴奏者が能動的な意思をもって積極的にピアノという楽器を演奏する行為』
『単なる「慣例上の儀礼的所作」であるなどとは到底評価できない』
と述べてくださいました。
次回は判決です!
沢山の方の傍聴を宜しくお願いします!
***************************************
私たちの裁判を長年支えて下さった吉峯啓晴弁護士が急逝されました。沢山の方々の心の支えでもあり、多くの方から慕われていた方でした。感謝の思いと共にここれお知らせいたします。
=コントラタック2015=
◆ 7月13日岸田さん裁判 結審(第10回口頭弁論)
「君が代」不当処分撤回を求める会(事務局:東京都公立学校教職員組含内)
千代田区一ツ橋2-6-2 TEL O3-5276-1311
千代田区一ツ橋2-6-2 TEL O3-5276-1311
《岸田静枝さんから》
◆ 傍聴に来てくださったみなさまありがとうございます。
今日は、「君が代」修正処分ロ頭弁論の10回目、結審です。そして7月13日は、私がキリスト教の洗礼を受けた日です。もう46年にもなります。
洗礼を受けるきっかけや出来事があったのか、なかったのかは、あまり思い出せません。キリスト教文化が根底にあるクラシック音楽に関わっていなければ、もし周りの人間関係が違っていたら、ああだったらこうだったら、あるいはその相互作用でなどは仮定ですから、考えても意味はないように思います。
聖書の使徒言行録には、使徒パウロの活動の様子が描かれていますが、それによると、パウロはキリスト教徒を熱心に迫害する側であったが、ダマスコへ行く途中で、キリスト・イエスの光で目が見えなくなってしまいます。アナニアの祈りによって目から鱗のようなものが落ち、再び目が見えるようになり、これが「目から鱗」の語源です。
マザーテレサは汽車の中で神からの啓示を受け、カルカッタのスラム街に入ったと言われています。
聖人ではない一般的なキリスト教信徒の生活に、特筆する出来事は起きないし、何かに熱中している時に突然、「インドに行け」という神の声がしたら困っちゃうよねえなどという心配もありません。
祈り、聖書を読み、教会に通い、宗教音楽を練習する私の毎日は、私にはあまりに当たり前すぎて、「君が代」処分裁判で前面に出すことなど、思いもよりませんでした。
高橋拓也弁護士さんが書いてくださった73ページに及ぷ最終第6準備書面は、冒頭から憲法第20条にかなりのページを割いています。
憲法第20条判断の最高裁判決は、これまで愛媛玉串料事件と剣道実技拒否事件など、そんなに多くはない。
最高裁が憲法第20条判断をしていないのだから、地裁では先んじて判断しないのでしょうが、今回はこれだけのページで、これだけの展開をしているのですから、裁判所は憲法第20条に触れないわけにはいかないと思います。
高橋弁護士さんが書いてくださった準備書面から引用しますが、明快です。
『憲法19条は・・・その条文の文言は以下のとおりシンプルである。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」これに対し、憲法20条は、大日本帝国憲法下の国家神道強制等による宗教弾圧に対する反省に基づくという歴史的経緯があり、その保障を一層確実なものとするために政教分離の規定をも設けており、以下のとおりの特則的な規定となっている。』
『このように、精神的自由権の総則的規定としての国家の不作為のみを定める憲法19条の思想・良心の自由と比べて、その特則的規定としての位置付けを有し、敢えて「何人に対してもこれを保障する。」と定め、かつ、諸外国と比較しても厳格な政教分離の定めを設けている憲法20条の宗教の自由は、当然に思想・良心の自由に増して尊重されなければならず、憲法19条とは別異に解釈されることが憲法上も要請されていることは一目瞭然である。』
さらにピアノ伴奏についても、
『「君が代」斉唱時のピアノ伴奏という行為は、「君が代」の集団的な歌唱行為(斉唱)を先導することを目的としており、伴奏者が能動的な意思をもって積極的にピアノという楽器を演奏する行為』
『単なる「慣例上の儀礼的所作」であるなどとは到底評価できない』
と述べてくださいました。
次回は判決です!
沢山の方の傍聴を宜しくお願いします!
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私たちの裁判を長年支えて下さった吉峯啓晴弁護士が急逝されました。沢山の方々の心の支えでもあり、多くの方から慕われていた方でした。感謝の思いと共にここれお知らせいたします。
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